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線翔庵日記



おまつり、民謡、三絃、名水、温泉、酒、そして音楽のこと…日々感じたことを綴ります。

信州の鎌倉~中禅寺

2012年06月10日 21時36分42秒 | 歴史
ウチの近所は信州の鎌倉と呼ばれる塩田平だ。塩田北条氏による中央の文化が花咲いた土地で、文字通り鎌倉文化を感じさせる文化財が残されている。

久しぶりに前山の、真言宗・中禅寺へ久しぶりに出かけた。
ここは薬師堂が有名で、信州最古の木造建築とされている。


中には薬師如来座像や十二神将立像が安置されている。これはお願いしないと拝観できない。

案外、知られていないのが仁王門だ。


この金剛力士像が、中部地方最古といわれている。

【阿形】


【吽形】


コレ、なつかしい!自分が小学生の頃、写生した記憶がある。たまには寺院参拝もいいね~!

木曽福島を歩く

2012年05月29日 21時07分44秒 | 歴史
中山道の宿場でもあった木曽福島は、現在木曽郡木曽町。今日は、出張で訪ねたのだが、昼食時間に余裕があったので、少しお散歩をした。


まず、その昼食は肥田亭さん。「巴御膳」をいただく。


お昼からこのボリューム。一杯飲めないのが、とても残念。

さて、この場所は木曽福島でも「上ノ段」と呼ばれるところ。豊富な水が流れている。


さて、少し下って、木曽川沿いをぶらり。川側から見ると、福島の独特な景観が目に入る。


川を渡ると、山村代官屋敷。その付近には「代官清水」という水場がある。








こんなに木曽福島を歩いたこともなかったな。気持ちのいいひと時であった。

北向観音参拝

2012年05月27日 23時07分08秒 | 歴史
帰省した日曜の朝、ウチの近所の上田市別所温泉にある北向観音へ行った。それも早起きして。少し涼しい感じの朝だが、6:00a.m.に起きると、とてもさわやか!



なぜ北向きかというと、長野市の善光寺と相対しており、善光寺が南面、こちらが北面しているのだそうだ。観音堂の形も善光寺と同じような造りなのだ。

参道から石段を上がると、すぐ左側に手水舎がある。

普通は水が出ているのだが、ここは別所らしく熱いお湯が流れている。もちろん温泉だ。

朝の観音堂は、別所の温泉客らしい感じの方々が結構お参りに来ていた。中では、特別に御祈祷をされている方がおられ、太鼓を打ちながらの読経が聞こえてきた。天台宗らしい光景。

観音堂から境内を見ると、こんな感じ。


清々しい気分で帰ることに。
境内には、カツラの大木が目に入る。


映画にもなった「愛染かつら」だ。葉が青々していて、気持ちがいい。朝のお参りのひと時は、いい日曜日が過ごせそうな気分だ!

鎌原観音堂

2012年05月05日 17時04分31秒 | 歴史
今日は群馬県吾妻郡嬬恋村の鎌原観音堂へ行ってみた。久しぶりだ。何年ぶりだろう。
鎌原集落は「日本のボンベイ」とも呼ばれるように、天明三年の浅間焼けで集落が飲み込まれてしまった場所である。



天明三年は、約4ヶ月ほど浅間山噴火による降灰や火砕流などがあったようだが、7月8日には鎌原に土石なだれが襲う。このとき高台にあった鎌原観音堂に籠もって、神仏に祈りを捧げていた93人が生き残り、466人が犠牲になったのだそうだ。



未だに、この観音堂の脇には集落の方が当番を決めて、観音堂をお守りしておられる。

また手前には「延命寺石標」があるが、これはかつて吾妻川下流の東吾妻町矢倉で発見されたもの。これを再び、当地に返したものだそうだ。


この観音堂の手前の石段は15段で、それよりも下は土石なだれによって埋まっている。


かつて、この下を発掘調査したところ、女性の遺体が2体発見された。そんな写真が観音堂付近に飾られている。そこで近くにある「嬬恋郷土資料館」に寄ってみた。


中には、浅間焼けのときの発掘物や数々の資料が展示されている。入館すると、ボランティアガイドの方が説明してくれるとのこと、お話を聴きながら、見学した。

やはり、噴火の凄まじさを物語る資料がいっぱいあった。延命寺で飼っていたという馬の骨、無惨な感じの仏像、食器や茶器等、いろいろ印象的であった。また、お話のなかで認識を新たにしたのは、鎌原集落は溶岩流が直接流れて来たのではなく、土石なだれであって「山津波」であったのだ。発掘調査によって、学術的に明らかになったことなどを説明していただき、なるほどと思った。

特に生き残った93人は、鎌原再生のためにやもめ同士、新たな親子関係を結び、約30軒の家族になって、今日にいたるのだそうだ。また、土地を整理して、道路の脇に家と畑を短冊のように仕切り、きちんと整備したのだそうだ。

そんなことお聴きし、あらためて鎌原集落を見渡した。


先祖の残した村を再生させた信念をいまでも伝えている、その象徴がこの観音堂である。そして、地区のお年寄りによって「浅間山噴火大和讃」が毎月2回、唱えられているとのことだ。

大黒町追分の大黒天

2012年05月04日 21時48分37秒 | 歴史
今日は大町をうろついた。当地域は安曇平から続く「石造道祖神」が多いが、案外よく見かけるものに「大黒天像」がある。

中でも、当地域で最古にして、最大の大黒天へ行ってみた。


全体で約2m程。かなり大きいなという印象だ。江戸時代末期の嘉永5年(1852年)の建立、出稼ぎに来ていた、2人の高遠石工によるものであるという。当時は新町と言われていたというが、大黒天が出来たために大黒町と言われるようになったのかな?

なお、この場所には有名な大黒町追分のシダレザクラがある。


どうも、この大黒天建立の記念樹ということのようだ。

また大町ではよく知られた男清水・女清水の1つ、大黒天の水場がある。


今日訪ねたら、水場にはシダレザクラの花びらでいっぱいだった。

何ともいい空間だった。