線翔庵日記



おまつり、民謡、三絃、名水、温泉、酒、そして音楽のこと…日々感じたことを綴ります。

2013 根知山寺の延年~宵宮

2013年08月31日 21時56分58秒 | おまつり
久しぶりに新潟県糸魚川市根知山寺の延年に出かけてきた。今回は日本民俗音楽学会の研究大会が糸魚川大会であり、その芸能参観のメニューでもあった。

さて…何年ぶりだろう。これで3回目となるが、豊富な内容の祭りでとても面白い芸能だ。「延年」とはもともと言ってなかったのだが、日本らしい発想の「芸能大会」といった感じである。

8月31日の晩、8:30頃から神事とともに芸能が始まる。

まず「悪魔払い」。

いわゆる獅子舞だが、神楽芸らしい舞。一人立ちで勇壮に舞う。

続いて「さんばの舞」。

能でもお馴染み、三番叟の舞である。なかなか優雅な舞いだ。

次は「とびらの舞」。

天岩屋戸伝説のタヂカラオノミコトが岩屋を開け、アマテラスオオミカミを導き出す場面。

続いて「てんとの舞」。

赤い装束の稚児舞。「てんと」とはお天道様のことだそうだ。

その次は「狩護」の舞。

烏帽子の印象的な2人の舞。弓を持って舞う演目。

次は「魔法切り」。
幣と太刀を持ち替えて舞う。

続いて「えまき」。

三宝をもって紙をまく。これが後の鯛釣りの舞の鯛の餌をまくのだという。

その後は「盆の舞」。

アクロバティックな舞は、人気の演目。

最後は「鯛つり舞」。

恵比須の舞。観客のもつ鯛を釣り上げる。これも人気の舞だ。


さて時刻は10:00を過ぎる。楽しい神楽系の演目の多い芸能はここまでだ。
この後は「盆踊り」だ。「ヨーホイ」と「甚句」の2曲である。


先ほどの舞台の上で歌われ、その周りを踊り子が踊る。


楽しいお父さんに「まあ、入れ!」と誘われ、見よう見まねで踊ってみる。ところが…「ヨーホイ」は難しい。次の「甚句」は、まあまあ踊れたかな?地元の浴衣姿の踊り手さんから、「根知谷の出身?」と聞かれた。長野からですと答えると、なぜかビックリされる。

こうして楽しい「宵宮」が終わるのである。
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旧東京音楽学校奏楽堂と滝廉太郎

2013年08月24日 20時46分19秒 | 音楽
先日、東京出張だった。ちょうど上野恩賜公園近くだったので、東京芸術大学、旧東京音楽学校付近をうろついてみた。すると旧奏楽堂が目に入った。

ここは、東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校の施設だったそうだ。昭和62年に台東区の手で現在地に移築保存され、昭和63年1月に国の重要文化財に指定された。

その建物はこんな感じ。

たまたま現在は建物保全のため、休館中であった。しかし、この歴史のある建物を見たのは初めてであった。

中には入れなかったので、うろついてみた。すると、見たことのある銅像を見かけた。


滝廉太郎像だ。15歳で東京音楽学校に入学、作曲とピアノ演奏で才能を伸ばす。明治時代はぎこちない歌が多く、日本人による作品が期待され、名曲「荒城の月」が生まれる。その他の代表作「箱根八里」「花」は、いまだに小中学校の教科書に掲載されている。また「お正月」「鳩ぽっぽ」などの童謡作品もよく知られる。

1901年、ヨーロッパ留学生として、メンデルスゾーン設立のライプツィヒ音楽院に留学し、ピアノや対位法などを学ぶ。しかし、間もなく肺結核を発病し、1年で帰国することになる。その後、大分県で療養していたが、1903年に満23歳で逝去。

滝廉太郎は、こうした歌曲や童謡のイメージが強いが、1900年には日本人初のピアノ独奏曲「メヌエット」が作曲される。また死去の4ヶ月前には、絶筆となるピアノ曲「憾(うらみ)」を残した。この“うらみ”とは、憎しみの気持ちではなく、心残り、無念、遺憾といった気持ちのこと。自筆譜の余白には「Doctor!Doctor!」と走り書きがあったといい、迫り来る死への思いの表れだといわれている。

この「メヌエット」と「憾」は、楽譜も出版され弾くことができる。特に「憾」は、ドイツ的な重厚な感じをもつニ短調、6/8拍子の小品だ。しかし、終結部は何とも激情的な終わり方である。若い滝廉太郎の思いを想像するだけで、このコーダは何とも言えない雰囲気を醸し出す。

当時、不治の病であった結核に冒されていたことから、滝廉太郎の死後、彼の多くの作品は焼かれてしまったのだそうだ。23年間の人生で、残された曲の少なさ。しかし、心に残る作品が今でも演奏することができる。

東京出張で、思いがけず滝廉太郎像にふれた。そして日本の音楽の黎明期の頃のことを、勝手に想像して帰ってきた。
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もうすぐ九月

2013年08月18日 22時18分24秒 | 音楽
ゆっくりとした盆を過ごしてしまった。明日からはまた仕事だな。

立秋が過ぎ、盆が過ぎた8月18日。日中は相変わらず暑く、ニュース的には「猛烈な暑さ」だそうだが、さすがに信州は朝晩は涼しくなってきた。

そして、あと2週間で9月だな。


9月というと、今を遡ること、何十年前?高校3年生の夏。友人が作った詩に曲をつけることになった。そうして出来た《もうすぐ9月》がコレ!

こちら

何だかなつかしいね。




 



 
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木曽おどりへ行く!

2013年08月12日 21時59分44秒 | 民謡
先日、「木曽おどり」に出かけよう!と木曽町へいきなり出かけてきた。毎年、8月1日~16日の夜に、木曽踊保存会を中心として踊りが繰り広げられるのだ。


これは、福島小学校内にある伊東淳・木曽福島町長の銅像。木曽踊りを普及すべく、尽力した方で、なかのりさん町長と呼ばれた方だ。

さて踊り会場へ行く。

福島支所前の「広小路」という場所で踊られる。夜8:00から9:00までだ。


男性はほっかむりをして、生唄を披露する。前半を一人で音頭を取り、後半を踊り手が着けていく。


いつもは素唄のみで踊られているが、この日はたまたま三味線と太鼓の「お囃子入り」の日だった。何ともよい雰囲気。

自分もさっそく踊りに加わってみる。振付は覚えている。唄も何となく覚えており、小さな声で歌いながら踊ってみた。

しかし、地元へ来てみると地元ならではの歌詞が登場する。音頭の方の歌詞を聴きながら、続きを歌うのだが、あれ?というときもある。

そんな木曽節の歌詞はたくさんあるそうだが、最近その歌詞を書いた扇子が発売されたという。

即買いしてしまった(笑)

白鳥おどりのようなテンポ感ではないが、ゆったりと気持ちのいい踊りだ。
その後、15分ほど「木曽甚句」の踊りもあった。これは、急には踊りにくいもので、踊りの進行方向も変わる。手をぶらぶらするように振ったり、足を内側に向けて蹴るような踏み方は、郡上おどりの「甚句」や「古調かわさき」と似た感じの部分がある。古い踊りにちがいない。

夏の木曽福島の夜は、木曽川からの風であろうか、何とも涼しかった。また機会を作って訪ねたいものだ。
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大平街道

2013年08月08日 20時42分45秒 | 歴史
今日の飯田市出張が案外早く済んだので、帰りはかねてから気になっていた大平街道を通って、木曽へ抜けて松本へ帰ることにした。

大平街道は、中山道と三州街道(伊那街道)を結ぶ山間の街道。飯田と南木曽を往還する街道は、飯田峠、大平峠(木曽峠)の2つの峠を越える。かつて伊那と木曽を結ぶ道は、「木曽へ木曽へとつけ出す米は…」と歌われた「伊那節」で知られた権兵衛峠しかなかった。それが、飯田藩によって伊那谷と妻籠宿を結ぶ街道が開かれたのが江戸時代中期。これにより、伊那と木曽とを往還する街道として、賑わったという。山中には「大平宿」まで置かれ、交通の要所でもったのだそうだ。

それも、かつて伊那電鉄と呼ばれた飯田線の開通や国道建設によって、大平街道も衰退する。昭和45年には住民が集団移住したことにより、現在では宿場のままの風景を残すのみとなっている。

場所は、飯田市街地から砂払温泉の前を通り、名水猿庫の泉の脇を通り抜け、進んでいく。道は狭くなるものの、舗装はきちんとされている。

途中、旧道をはずれ舗装道路へ行く。するとなかなか珍しい道標があった。

「振袖道標」だそうだ。かつては別な場所だったそうだが、見やすい場所に移したという。振袖から出た指が、方向を示す味のある道標だ。

さて、どんどん進んでいくが道はどんどん淋しくなる。しかし、道すがら石仏が番号ごとに建てられていたり、沢や洞の名前を示す看板が、大変ていねいに設置されていた。

途中には水も湧いている。飲めるのかどうかは分からなかったが、さわってみるとかなり冷たい。


かなり進むと飯田峠のピークになる。

古びた「大平街道」という道標も目に入る。


まだまだ進むようだ。ようやく川沿いに「大平宿」の看板が見えた。

だんだん家屋が見えてくる。ようやく集落らしくなる。

目立つ道標の奥に、未舗装の道と宿場らしい雰囲気の家並みが見えてきた。思わず自動車を降り、歩いてみる。








何とも時代劇のセットのようだ。集団移住して約40年ほど。大平宿を残そうという動きもある中で、寂れた廃墟という雰囲気はない。宿泊体験等、受け付けてくれているようだ。

かつては学校もあったのだそうだ。その校舎の前に集団移住の記念碑が建てられている。

不便になったとはいえ、故郷を離れることを決めた住民の方の思いはどんなものだったのだろう。想像もつかない。便利な時代になって、呑気に自動車で来てみると、なつかしさを感じはさせるが、かつて住んでいた方のことは想像を絶する。学校が残されているのも、何だか生きている感じがする。

ちょっと付近を探検してみると、神社もあった。

おそらく鎮守の神様なのだろう。草深くてお参りは断念したが、大平宿を守っている神様なんだろう。

さて、もう少し進んでみる。おお?何という木だ!?

何とも絡む木だ。どうやらカツラの木のようだ。近くに行ってみると、根元に壊れてしまった小さな祠が見えた。また近くには「盆小屋」とかかれており、かつて昭和5年まで木地師の住居があったという説明があった。何とも、歴史を感じさせる。

さらに行くと、今度は大平峠だ。

「木曽峠」と書かれた看板もある。これで飯田市から木曽郡南木曽町になる。まさに木曽と伊那とを結ぶ道なのだ。途中、県民の森といったキャンプ場などもでき、その豊かな自然を味わえるようになっている。

やがてパッと視界の広がる場所になる。木曽谷の山々が目に入る。

ここが木曽見茶屋だ。

木造りの歴史を感じさせる建物だ。残念ながらお休みだったので、どんな感じかは分からなかったが、数多くの大平街道を往き来する方々の休みどころとして知られた場所なのだろう。

これできれいに植林された林の中の道を下ると国道256号線に合流し、清内路峠から下ってきた道といっしょになる。

今日ははじめて大平宿を中心とした街道をドライブしてみた。大平宿を残す動きがある中で、ていねいな看板が至るところにあって、昔ながらの地名が示されていた。なかなかできることではないだろう。この熱意には頭が下がる。また機会があったら、通ってみたい。

 
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