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線翔庵日記



おまつり、民謡、三絃、名水、温泉、酒、そして音楽のこと…日々感じたことを綴ります。

石の鐘~称名寺

2016年09月09日 14時46分37秒 | 歴史
 長野県北部、信濃町に「石の鐘」があるいう。たまたま知った情報で、出かけてみることにした。それは信濃町市街地から山手に入って行く富濃集落にある。浄土真宗本願寺派の称名寺だ。

 地域にある小さなお寺だ。


 本堂脇にある鐘楼がこれだ。


 確かに大きな石が吊り下げられている。これは昭和16年の「国家総動員法」によって金属回収令が出され、あらゆる金属類が取り上げられた。そして称名寺の鐘も大砲の弾丸になったのだそうだ。そして、信徒さんたちによって近くにあった石をに吊るしたという。

 その石には「梵鐘記念 昭和十七年十月」と刻まれている。そして70年も経った現在でも、そのまま石が吊るされ続けている。

 いまだに「石の鐘」が吊るされ続けているのは、当寺の女性僧侶のご意志なのだそうだ。いまだに続く戦争、まだ平和とは言えないこの世の中に対する厳しい見方をお持ちなのだ。そして、戦争がなくなったら、石の鐘は下げてとりかえるとのこと。

 また、鐘楼下にはシダレザクラの古木がある。

 これも、戦時中の食料増産のために、切られそうになったところを、激しくつめよって何とか阻止したのだそうだ。

 この称名寺のある場所は、北信濃の静かな山村の風景をたたえたところだ。自分が訪ねたときは、ソバの花がきれいだった。

 
 戦争と平和…。この石の鐘の意味を深く考えたい。撞木はあるが、鐘の音はするはずはない。本当に平和になったとき、この信濃町に本当にきれいな鐘の音が響き渡るはず。

真田山長谷寺

2016年05月12日 18時42分30秒 | 歴史
「真田丸」人気で、賑わう上田市真田町。久しぶりに長谷寺を訪ねてみた。

「長谷寺」と書いて、「はせでら」ではなく「ちょうこくじ」と読む。ちなみにこれが松代には「長国寺(ちょうこくじ)」があるのはよく知られている。

さて、ここ長谷寺へは何年ぶりだろう。子供の頃に来て以来で、んん…30年以上かな?(笑)

天文10年(1541)に武田信虎・諏訪頼重・村上義清により小県から上州へ追いやられた真田幸隆。武田信玄の家臣となって、真田の地を取り戻し、領内に古くからあった種月庵という小さな寺に、上州・安中の長源寺から僧を招いて、真田山種月院長谷寺して、三男・真田昌幸によって真田氏の菩提寺となったという。

この寺で有名なものの1つは、アーチ型の石門。

創建当時からあったものといい、1つの岩から切り出されたものらしいとのことです。

そして長谷寺といえば、裏手にある墓所。

中央が真田幸隆公、右側が真田昌幸公、そして左側が幸隆公の正室・恭雲院。

真田の山里の静かなお寺ですが、各地からの観光客で賑わっていた。自分も久しぶりの訪問。再び、真田の歴史にふれ、関連した史跡を訪ねたい!

 

群馬県沼田市〈真田丸展〉に行った!

2016年05月01日 22時37分36秒 | 歴史
ただ今、NHK大河ドラマで「真田丸」放映中。今日は久しぶりに群馬に出かけ、沼田市まで足を伸ばした。

沼田城と言えば真田氏の最前線の砦であり、城主としては真田信幸が知られている。しかし、上田からは近くはないので、あまり行ったことがなかった。今回のドラマ関連の催しで「真田丸展」があると聞いて、沼田のグリーンベルというところへ行ってみた。

かつての商業施設だったみたい。

入場料500円払って、中に入る。結構な混雑であった。
展示は、歴史に関わることだけでなく、ドラマに関わる展示も多く、俳優さんが着用したという甲冑や着物なども展示されていた。

館内は撮影禁止だが、唯一撮影OKの場所があったので、堺雅人サンと長澤まさみサンに合ってきた!



まあ、ドラマファンには楽しい展示だね。

外に出ると、関連商品売り場もあったが、大体六文銭グッズが多く、これなら上田でも買えそう?と思い、そのままスルーしてしまった。

関連展示ではさまざまなものがあった。

沼田も盛り上がっている!

 

望郷の鐘~阿智村・長岳寺

2016年01月20日 22時24分41秒 | 歴史
 下伊那郡阿智村にある天台宗・長岳寺。当地、駒場にある古い名刹だ。


 この寺は武田信玄が戦いで病に倒れ、甲斐へ帰国の途上、駒場の地で亡くなり、その遺骸を安置したということで知られる。


 しかし、この寺にはもう一つ忘れられない人が知られる。先代住職、山本慈昭氏だ。



 敗戦間近に、国民学校の教師として渡満し、シベリアに抑留される。奇跡的に帰国するも、多くの子どもたちが、苦難を逃れようとしたものの、中国の地で亡くなったり、取り残されたことを知り、生涯を残留孤児たちの肉親捜しに捧げるのであった。


 特に、信州を代表する文学者、和田登著になる「望郷の鐘」の映画化により、注目されてきた。その鐘がこれだ。


 こんな碑もあった。


 境内には日中友好に関わるものが数々残されている。日中友好不再戦の碑、そしてお地蔵さま。




 阿智村には「満蒙開拓平和祈念館」もオープンした。こうした地を訪ねると、平和への思いを新たにするとともに、帰国者の方々の生き様に学び、自分たちの生き方を見つめ直す気持ちにもさせられる。

 

日田市、史跡・咸宜園を訪ねる

2015年12月13日 17時40分31秒 | 歴史
 大分県日田市は幕府の天領の町として知られる。先月、大分出張のとき、日田へ行ってみた。そして、当地の儒学者・廣瀬淡窓が開いた「咸宜園(かんぎえん)」を訪ねた。

今、史跡として整備されており、大変印象的な場所であった。
 
 廣瀬淡窓は、江戸後期に生まれた儒学者。豊後、日田に開いた日本最大規模の私塾で、いわば学校である。「咸宜」とは「ことごとくよろし」と読み、すべてのことがよろしいという意味で、門下生一人一人を尊重する教育理念であったことが知られる。


 自分が見学した「咸宜園教育研究センター」は、咸宜園や廣瀬淡窓、門下生等に関する調査研究を行う施設として、史跡咸宜園跡に隣接した地に開館した。


 廣瀬淡窓は、入門するとき、学歴・年齢・身分を問わない「三奪法」という考え方で、すべての門下生を平等に教育したという。江戸時代に合って、この人権感覚の高さを改めて評価されるべきであろう。

 
 その他、学力評価である「月旦評」の制度は、勉学に励ませる効果を上げた。その他、規則正しい生活のための「規約」、塾や寮を運営させる「職任」等、社会性を高める教育が行われたという。



 咸宜園は、明治30年(1897年)に閉塾。5,000人もの門下生が学んだ最大規模の私塾であったという。


 日田は、大分県のなかでは山間地、そして三隈川を始めとして、河川が入り込み、水郷と呼ばれている。そして、文化庁が創設した「日本遺産」として「近世日本の教育遺産群」の1ヶ所に認定された。大分の文化的レベル、教育的レベルの高さを感じることができる場所である。