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【草津市志津探訪②】青地城跡

2019-07-28 08:04:22 | 近江の史跡

2017年06月03日(土)、
JRハイキングに参加した。
栗太郡の土豪小槻氏、青地氏関連の史跡巡りです
小槻山君は第11代垂仁天皇の皇子が祖だと言われてます。
青地氏は小槻氏の一族か家臣の家柄で、後に佐々木氏から養子を迎えてるので
源氏と称してます

小槻神社から

"志津小学校へ移動する


空堀ではないか?
と思った。

土塁かな?と思って見てる

現在の志津小学校校舎の付近が青地城の本丸とされる。

青地城本丸跡に、
『青地城主之碑』
五輪塔ですね。城主の墓。

「解説板」

鎌倉~室町時代、青地氏の居城。
鎌倉時代中頃、近江守護佐々木定綱の孫基綱が青地氏の養子となりその子忠綱が築城した。
城跡の規模は方二町、丘陵に3つの平坦面がある。
周囲に堀、土塁を巡らし、草津市内では唯一の本格的な中世城郭跡。
支城の役割として周囲に小槻神社、無量寿寺、祥光寺などが配置され、家臣の館が取り巻いてた。
永正4年(1507)6月24日、細川澄元と三好之長が青地城に立ち寄った記録がある。
織田信長の近江侵攻では、青地氏が六角氏についたため廃城になった。

家紋が四つ目角なので、佐々木氏系だとわかりますね。

「青地城山碑」

読めません。


石碑の背後は、

間違いなく土塁遺構。

ぐるっと巡ってます。


小学校の敷地を下に見る



「静里先生の碑」


「解説」


業績の詳細は読んでください…

小学校の正面通路。

城跡としてみるなら大手の土橋といった雰囲気。

通路の左は池、


右下に駐車場。


本来は駐車場も含めて通路の左右は水堀だった。
この通路がもともと土橋だったかどうかはわからない…


通路をふりかえって見る

小学校が小山にあるということがわかりますね


平地の城だが、周りの湿地や河川が
自然の防御となり、近くの寺社は支城の役割を果たした


市民センターで講義を受けた時に
縄張り想定図を撮影した

この図から察するに
空堀かな?と思って眺めたのは切り通し。
城跡石碑は土塁に囲まれた2郭。

土橋のような正面通路は学校のために造られたようですな。

その③に続く

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
鳥人間コンテスト、昨日はひどい風雨のため途中で中止となった。
撤収作業中の男性2人が低体温症で搬送されたそうです。
本日は、無事開催されると思います"

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

コメント
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