武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

117. 父、武本憲太郎の履歴書

2014-07-31 | 独言(ひとりごと)

 昨年、父の遺作展を大阪、西天満の「マサゴ画廊」で催しましたが、その時に兄妹で小冊子を作り、父を偲びました。その僕の文章に一部誤りなどもありましたので、今回、訂正を兼ねて大幅に加筆し、タイトルも「父、武本憲太郎の履歴書」としました。武本比登志

武本憲太郎 「スペイン壷のバラ」 F6

「父、武本憲太郎の履歴書」

 父、武本憲太郎は今年(2012年)5月28日100歳5ヶ月と10日の生涯を閉じました。

 最後は自宅で兄の介護の元、眠るように息を引き取ったそうです。

 明治44(1911)年12月18日、武本幸三郎と君代の五男(夭折した子供を含めると六男)として愛媛県新居浜市に生れました。兄は4人、姉は2人。7人(9人、2人夭折)兄弟の末っ子です。すぐ上の姉は未だ103歳を越えても元気で居ます。(その後、亡くなりました。)

 何でも岡山県の山あいには今も武本姓ばかりが住む小さな村があると聞いたことがありますが、武本家の先祖で判っているのは1700年代に尾道近郊で塩田を営んでいた、という記述が残っています。武本嘉平太という名前で、1721年(享保6年)生れ、1788年(寛政11年)11月20日に78歳で亡くなっています。妻には1776年(安永5年)3月9日に先立たれ、その後、おみわという19歳も若い後妻と世帯を持ちますが、おみわも59歳で嘉平太が亡くなる同じ年の2月に先立ちます。

 塩田は今の広島県尾道市の肥浜というところですが、尾道市の対岸、向島にあります。嘉平太の息子は、武本猪三郎由宗(1765(明和2年)~1820(文政3年)6月13日没)そして、武本善太郎由則(1789(寛政元年)~1842(天保13年)5月1日没)、武本徳三郎由光(1817(文化14年)~1902(明治35年)9月3日没)、そして祖父の武本幸三郎(1865(慶応元年)10月22日~1946(昭和21年)7月25日)と続きます。幸三郎は三男でしたが、家督を継ぎました。祖父、幸三郎が亡くなった5ヵ月後、僕が生れました。だから僕は祖父を写真でしか知りません。

 武本家初代の嘉平太は1721年(享保6年)に竹之内小十郎(1781(天明元年)年没)と妻某(1733(享保18)年没)の長男として生れ家督を継ぎますが、いつの頃からか武本姓に改名します。改名したいきさつは定かではありませんが、その当時としては、改名することはままあったらしくて珍しくもなかったそうです。嘉平太はかなり盛大な塩田を営んでいたと記されていますが、その傍ら、小笠原流(弓、馬術、武家礼法)の免許があり、和歌の詠集も残されているそうです。

 嘉平太の息子の猪三郎由宗は塩田業を継ぎ更に拡大をします。三代目となる善太郎由則も塩田業を継ぎましたが、あまり芳しくなく、塩田を諦め尾道を去って今治へ渡ります。今治は姉達の嫁ぎ先でそれを頼っての今治移住でした。始めは煎餅などを焼いて売り、妻、まちも娘時代に習った日本刺繍で何とか生計を立てます。そして金貸業いわゆる質屋を始めます。屋号を「森原屋」とします。森原屋としたいきさつについては記されてはいませんが、嘉平太の娘、つまり善太郎由則の叔母にあたる、於徳が森野屋に、於民が竹原屋に嫁いでいます。その森と原をとって「森原屋」としたとも考えられます。

 金貸業は善太郎由則、徳三郎由光、そして僕の祖父、幸三郎で三代目です。幸三郎は三男ですが、家督を継ぎます。兄たちが継がなかった理由については記されていません。長兄、常助は岩城島の医師、岸直次の次女愛子を嫁にします。考えられるのは常助も医師で質屋を継がない理由として医師として独立していたとも考えられます。次男、武平は既に阿部家の養子になっていました。三男である幸三郎が金貸業(質屋、森原屋)を継いで、それは順調に行っていた様です。金貸のかたに美術品を集めるのも仕事で目利きもあったようです。趣味も兼ねていた様にも思います。

 僕の父の4兄のうち2人が医者でしたが、祖母、君代の家系には医者が多く、先祖は今治城の御典医(お抱え医者)だった様で、祖母自身も薬剤師の免許を持っていました。新居浜の屋敷の玄関土間には大きく立派な薬箪笥があったのが印象的でした。祖母の旧姓は村上で村上水軍の末裔とのことでした。ちなみに祖母、君代の父は村上又哲(ゆうてつ/明治39年死去)、祖父は村上又玄(ゆうげん)、曽祖父は村上玄眞(げんしん)と言っていかにも医者という名前です。

 今の今治城の展示物には骨董品が多数並べられているそうです。記録によると、いつの時代の典医かは判りませんが、書画骨董集めが趣味の典医が居たらしく、そのコレクションがそのまま残され展示されているとのことです。

 僕が知る新居浜のお屋敷は広く蔵もありましたが、蔵とは別に神社の近くにあったことからか、庭の一角にはだんじりが収まっている黒く塗られた大きなだんじり車庫もありました。

 祖父が亡くなった後の祖母の晩年は大きな屋敷に1人住まいで、生田流のお琴の先生をしていました。生徒さんの出入りも多く、座敷にはお琴が幾つも立てかけてあったのを覚えています。

 でも祖父も祖母も今治生れで、父が生れる少し前に新居浜に移ってきた様で、その大きなお屋敷は最初は半分で借地だった様です。今治での質屋業は順調でしたが、何でも祖父は材木か何かに手を出したらしく、案の定、失敗をして今治の家屋敷、財産を殆ど失い、逃げるようにして新居浜に移ってきたということでした。武本家がどん底にあった時期で、父とすぐ上の姉はそこで生れました。兄姉たちも苦労をした様ですが、祖母は厳しい人で、学業だけはおろそかにはさせませんでした。

 次男の光太郎おじさんは苦学の末、名門攻玉社を卒業、大手建設会社に入りましたが、東北方面の事業で成果を挙げ、東京本社の重役にまで上り詰めた成功者になりました。その頃、丁度、新居浜の地主は戦後バブルで税金が払えずに、土地を売りたがっていたので、光太郎おじさんがお金を出して買うことになりましたが、その隣の分も買ってくれということになり、買ったのだそうで、僕が子供の頃たびたび訪れた家屋敷はその広くなった家だったのだと思われます。

 祖母の実家は今治で村上姓ですが、祖母の母、つまり僕の曾祖母ですが、ツルという人が尾道の「秋田屋」という豪商の生れで、今治の村上又哲(ゆうてつ)に嫁いできて、そこで祖母が生れました。祖母も秋田屋の庇護の下、武本に嫁いできたそうですが、嫁入り道具はそれは豪華だったようです。秋田屋は何百年も続いて来た備後表(畳表)を営む豪商だったようで、今でも尾道の正授院というお寺に40基ものお墓が残っていて、備後地方最古のお墓とのことで、文化財にも指定されて、尾道の古寺巡りで有名な墓だそうです。

 祖母、君代はその当時、女性は学校に行けなかったので個人教授で、読み書きを教えられ、英語も知っていると言っていました。その他には、琴、三味線、胡弓を習い、茶の湯そして縫い物と他所の子は遊んでいるのに毎日、稽古事に追われて辛かったとよく言っていたそうです。結婚は16歳の時、質屋をしていた幸三郎と結婚しました。子宝にも恵まれ大所帯となりましたが、材木で失敗した幸三郎は明治の日露戦争のあとの戦後景気を乗り切れなくて銀行の差し押さえを受け、その立派な嫁入り道具も失い、今治に居られなくなって新居浜に移りました。祖父は新居浜でも細々と質屋を続けていましたが、君代が薬を売り、琴を教え、縫い物で生計を支えたそうで、そこで父とすぐ上の姉が生れ更に大所帯となりました。

 父は五男ですが、憲太郎です。兄達も長男が清太郎、次男が光太郎、三男、繁太郎、四男、隣太郎、そして父が憲太郎で、全員が太郎です。次男の光太郎の上に虎次郎というのが生れましたが、すぐに夭折してしまいます。それもあって、祖母の方針で兄弟は皆、平等なもので、分け隔てがあってはならない、だからそれ以降は全員が太郎にしようというものでした。

 父は子供の頃は剣道少年でありましたが、祖父や先祖が集めた美術品に囲まれても育ち、美術好きの少年でもありました。父と祖父はそんな家系にあって、異端児だったのかも知れません。父は小学校の頃から絵を描くのが好きで上手で、先生から教室の黒板にチョークで虎を描かされた、と言う話も聞いたことがあります。

 画家になりたくて、親戚中の反対を押し切って東京美術学校(現東京芸大)を受験しましたが、失敗に終わりました。滑り止めの為受験した日大芸術学部には合格しましたが、反対を押し切ったため仕送りもなく授業料が払えずすぐに中退となりました。

 就職試験ではいろいろと受けたそうですが、公務員の大阪府庁なら絵を描く時間が取れそうだということで、そこに入りました。最初は守口保健所勤務だったそうで、その頃に知り合った人たちとはその後も長く付き合っていたようです。

 大阪府庁の美術部に入り、中ノ島洋画研究所に通い本格的に絵を描き始めます。講師には鍋井克之、国枝金蔵、古家新などが居ました。古家新が会員だった戦前の二科展に父は何度か入選しています。

 軍の召集では未だ戦禍がそれほど激しくなる以前でしたので、杭州や蘇州あたりに赴きましたが、何冊かのスケッチブックも残しています。父はあまり戦争での話はしませんでしたが、死ぬ思いもしたそうで、戦友たちのお陰で生きて帰ってこられた、と言っていました。

 未だ戦時中でしたが退役してやがて母、千登瀬と結婚をしました。母は父より13歳も年下です。地方公務員なので大阪以外への転勤はなく、それからはずっと大阪生活です。僕の兄は昭和19年生れです。僕は戦後の昭和21年生まれ。妹は昭和24年で兄妹共が大阪生れです。

武本憲太郎、千登瀬の結婚式(昭和18年)

 僕が物心ついた頃には父は大阪府庁で通商課の観光係というところで係長をしていました。既に部下が何人かいましたが、僕が知る主な仕事は外国人むけの観光パンフレットなどを製作していました。

 父は戦後は古家新などが創設した行動展に出し始めました。まもなく会友にはなりましたが、府庁の仕事の方が忙しくなりなかなか制作の時間が取れないのも悩みでした。それでも画家仲間とスケッチ旅行にはしょっちゅう行っていた様です。

 行動美術の仲間にはパリで住み絵だけで生活が成り立っている画家も居て、とても羨ましがっていました。絵を描く時間がなかなかとれないと言っても、僕の子供の頃の僕の家は油絵の具のポピーオイルの匂いで満ちていました。友人の家が大根の煮る匂いがするのに対して、僕はポピーオイルの匂いのする我が家が気に入っていました。

 その頃の公務員は薄給で、父も絵の具代を賄うため半ドンの土曜日には自宅で近所の子供たちを集めて児童画絵画教室をしていました。僕もその生徒の一人でした。

 行動展の関西支部やその他の会などが集まって創造美術と言うのも立ち上げたのもその頃ではなかったかなと思います。そんな行動美術や創造美術が会員たちに児童画教室を推進していた様で、天王寺美術館で催される展覧会には必ず児童画展が併催されていました。

 府庁では通商課観光係に移ってからは父の場合全く移動がなかった様です。外郭団体には大阪工芸協会などもありました。

 そんな関係からか父は日本民芸協団の理事にもなりました。日本全国、時々は九州や沖縄などの民芸陶器の故郷を訪ねる旅にも参加しています。そして国内に留まらず、海外の民芸陶器や織物などを訪ねたりもしています。アジアや中東、南米などにも及びました。そしてその先々でスケッチを描いています。

 府庁から出張でヨーロッパへ行った事もありました。父の海外旅行は50カ国に及んでいます。

 僕が20歳代の頃には4年半をスウェーデンで過しましたが、その時にも出張の途中、父はストックホルムの我が家を訪ねてくれています。

 僕の大阪での個展には大阪現代美術センター初代館長の前田孝一先生が必ず来てくれましたが、大阪府庁美術部での父の後輩にあたります。その前田孝一先生が「大阪現代美術センターがもう少し早く出来ていたら、初代館長は武本憲太郎さんだった筈だ。」と言われたことがあって僕も驚きましたが、「だいたい大阪府庁の美術部を作ったのは武本さんや」とも言われていました。

 僕は40歳を越えてからポルトガルに住み始めました。その翌年にサロン・ドートンヌに入選をしましたが、それを観るためという名目で80歳になった父がパリとポルトガルを訪ねてくれました。そしてポルトガルで1ヶ月を過しました。パルメラで一緒にスケッチブックを広げたのは今では懐かしい思い出です。その頃は未だ下町の古い家に間借りをしていましたが、その後移り住んだ今のマンションのアトリエからはそのパルメラの城を望むことができます。

 僕はポルトガルに住み始める前は宮崎のワイフの両親が経営をしていたドライブインをやり始めました。

 ワイフの両親とも学校の先生でしたが、多くの人を雇ってドライブインとビジネスホテルを経営していました。少し手を広げすぎたのか手が回らなくなり、僕たちが手伝うことになったのです。

 そこにも父はたびたび訪れてくれました。美しい澄んだ水を使っての鯉料理やそうめん流しを出す店でした。父はその鯉のあらいを美味しそうに食べてくれました。僕も鯉料理が得意になりました。

 僕は一日中忙しくて父とゆっくりする時間もありませんでしたが、父はそのあたりに出かけては油彩の風景画を仕上げて帰ってきました。僕などはとても絵になる様なところではないと思ってスケッチにもしませんでしたが、父の手に掛かると立派な油彩作品になっていました。そしてスケッチの帰りや庭からも野草を摘んできては生け花を生けて店に飾ってくれましたが、それは見事なものでした。
 父はこんなことも言っていました。「花屋で買うてきたバラでは絵にならん。茎が揃うてて面白うない。やっぱり、庭で自分で育てたバラでないと面白い絵にはならん。」

 従姉の淳子さんの話では「新居浜の家には憲叔父さん(僕の父)が植え、育てていたバラが最後まで残されていましたよ」。新居浜のお屋敷はその後、売られ、今では7階建ての分譲マンションが建っているそうです。そのバラは、当然今はありませんが、父が未だ若い頃に、新居浜の庭から引き抜いてきた斑入りのハランは株分けされ、あちこちで子孫を増やしています。ポルトガルにも少しの根茎を持って来ましたが、ここでも増殖し続けています。

 そう言えばスウェーデンでも一緒にスケッチをしましたが、僕は「えっ、そんなとこ絵になるのん」と言ったのを覚えています。ポルトガルでも一緒にスケッチブックを広げましたが、不思議と同じ場所に立っても描く方向が違ったりします。

 僕は父から絵のことについて有言、無言でいろんなことを学んできましたが、やはり育ってきた時代、環境が違うのか、微妙に捉え方が違うのが面白いところです。

 父の風景画で一番新しいのはポルトガルの絵かも知れません。ポルトガルから帰って何年もかけてポルトガルのスケッチを元に油彩を描いていた様に思います。

 僕はポルトガルに移り住んでからは毎年何箇所かで個展をしています。父は日本国内での個展、その殆ど全てを観に来てくれました。個展の準備は宮崎の自宅でするか、実家(父の家)でするかです。準備の途中で備品が切れたりもします。「あっ、セロテープ切れてしもた~。」などと発すると、父はすぐさま自分の自転車を出して買ってきてくれたりもしました。90歳を過ぎた父がです。

 父が94歳の時だったか、僕たち夫婦がパリのサロン・ドートンヌの合間を縫ってミレーの生れ故郷を訪ねる旅をした時、その途上、小雨が降るシェルブールの町角をホテルに戻りかけたところ、日本に居る妹から携帯に電話が掛かりました。それは父が倒れたと言う知らせでした。パリからリスボンに戻る切符をキャンセルして急遽日本へ帰りました。

 手術は巧くいって一時は元気を取り戻したましが、歳も歳、徐々に弱っていった様に思います。
 99歳になった昨年の夏にも倒れました。兄からの電話で「覚悟しておいてくれ。」とのことでした。その後の電話では「少し回復をした。でも意識のあるうちに一度帰ってきてみてはどうか。」とのことでしたので、1ヶ月ばかり帰国することにしました。そして父との時間をゆっくり過すことができました。総理大臣からの100歳を祝う表彰状も届き、僕の手で壁に飾りました。

 僕が急遽帰国したのを知って、従姉兄の淳子さんと庄太郎さんがわざわざ東京からお見舞いに来てくれました。父の寝姿を見て、淳子さんは「祖父の幸三郎さんにそっくりになってきたね」と言いました。そう言えば写真で見る祖父、幸三郎によく似ていると、僕も思いました。

 この文章を書きながら、嘉平太とはどんな容貌をしていたのだろうか?などと考えたりします。僕には叔父、叔母は夭折した子供を含めると、8人。従兄姉も夭折した2人を含めて、19人が居ます。叔父母さんたち、従兄姉たちをぐるりと見回してみるけれど、なかなか想像がつきません。或いは、父や祖父に似ていたのではないかな。と思ってみると、イメージがぴたりと合います。祖父は三男で家督を継ぎました。父は末っ子です。従兄は男子が14人、女子は5人、僕は従兄の男子では一番下です。そしてそのDNAは末席ながら、僕にも受け継がれている筈です。

 今年はポルトガルに移り住んでから一番長い4ヶ月ばかりを日本で過し、5月24日のフランクフルト経由の便でようやくポルトガルの我が家に戻ってきました。戻って2日目に兄から電話がありました。父が亡くなったという電話でした。

 その後、妹からメールが届きました。以下、一部を抜粋します。

 「亜基良兄から聞かれたことと思いますが、父は5月28日の午前0時過ぎに、眠るように亡くなっていたそうです。1時間ほど前には話もしていたとのことで、父は自分が亡くなったことに気づいていないかもしれません。兄は父があまりに静かなので様子を見ると息をしていなかったそうです。すぐに心臓マッサージをしながら田島先生に連絡をしたというのを聞いて、まだ生かそうとしていたのかとあきれましたが、兄には黙っていました。兄でなく私が当番だったら、きっと朝まで気付かなかったことだろうと思います。」
 兄と妹の介護には感謝をしたいと思います。
 そして兄の娘たち、看護婦さん、ヘルパーさんたちと多くの人たちに囲まれての最晩年でした。

 タバコはかた時も放さず、酒は浴びるほど呑み、好きな絵を描き、旅も好きなだけして、自分で稼いだ金は自分で使い果たし、母にはわがまま放題、好き勝手で、晩年までたいした病気もせず、父にとっては幸せな人生であったと思います。
 でもよく100歳までも長生きをしてくれました。

 僕と父との最後の会話は、ポルトガルに戻る前日でした。父はいつものようにベッドに座ってうたた寝をしていました。手も足も布団から出ていましたので、手足をさわると冷たかったので、さすってやりました。父は「おかあちゃんの手は温うて気持ちええわ~。」と嬉しそうに言いました。僕は「おかあちゃんと違うで~。比登志やで~。」と応えました。父は照れ笑いの様に「ほっ、ほっ、ほっ」と声を出して笑いました。父はその時、どうやら母の夢を見ていたのかも知れません。僕は父の母との夢の時間を打ち破ってしまったことに多少の後悔をしています。

 母は10年も前に亡くなっています。今頃は天国で母との再会に喜んでいるのかも知れません。  

2012年6月12日、ポルトガル、セトゥーバルにて(2014年7月23日加筆)
武本憲太郎の次男、武本比登志筆

 (武本家先祖のことについては光太郎叔父さんの長男、僕の長従兄の義太郎さんと従姉の淳子さんが定年退職後、尾道や今治、新居浜まで出向き菩提寺などの資料に基づき、丁寧に調査されました。そしてそれにはやはり従姉であり、尾道に住む小川秋子さんも加わっています。義太郎さんは惜しくも亡くなりましたが、かなり綿密な資料として残してくれています。今回の文章はそれに基づいて加筆しました。)

武本比登志 「ヴァスコ・ダ・ガマ壷のバラ」 F6

私、比登志が1歳の記念写真、父、憲太郎、母、千登瀬、兄、亜基良。

 

 

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