武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

130. 藤原秀子(或いはフー子ちゃん)と、僕にとっての関西フォークの時代(下)

2015-10-31 | 独言(ひとりごと)

藤原秀子(或いはフー子ちゃん)と、僕にとっての関西フォークの時代(上)へ 

 僕は相変わらずジャズが好きで、その頃評判になっていたレコードにガボール・ザボの『魔術師』と言うのがあった。ボサノバをジャズギターで演奏したものでライブハウスでの臨場感溢れる演奏は素晴らしく、僕も早速買い求めて、西岡さんに聴いてもらった。そして暫くそのレコードを西岡さんのお宅に預けていた。ある日、西岡さんの家を訪れると『五つの赤い風船』のメンバーが揃って練習をしていた。ガボール・ザボ風の音楽である。フー子ちゃんもギターを弾いていた。遊びでやっているのだと思っていたが、その後、音楽舎主催で大阪城公園か何処かだったと思うが『ロック・コンサート』と言うのをやった。

 アメリカではボブ・ディランがそれまでのアコースティックからエレキギターに持ち替えて『ザ・バンド』をバックに歌っていたのと同時に、岡林信康も確かロックバンドの『はっぴいえんど』をバックにしてステージに立った。そのコンサートには『五つの赤い風船』も名前を連ねていた。演奏はドラムスに木田高介を加えて、1曲はそのガボール・ザボ風の音楽を演奏していて僕は嬉しかったが、そんなこともあった。

 『五つの赤い風船』も中川砂人が抜けて東祥高が加わった。東祥高はかつて太田ぼうと村上律の3人組で『アプルパミス』というフォークグループのメンバーであった。ギターが巧かったし何でもできた。

 『五つの赤い風船』から抜けた中川砂人は『グループ愚』を作った。最初は『秘密結社○○集団』と言ったと思う。メンバーは金延幸子、瀬尾一三、松田幸一(ありちゃん)そして中川砂人の実力者メンバーのグループで聴き応えがあった。もしかしたら村上律も居たかも知れない。松田幸一はかつての『ロック・キャンディーズ』のベーシストである。

 僕の母は父の定年退職後、大阪ミナミで店を始めた。火木土はフォーク・キャンパーズから分かれた2人組、浅田彰と河野耕志郎(だったかな)の『やまたのおろち』が演奏し、月水金は僕たち『GTM』が演奏した。高校、芸大と一緒だった、小笠原ひさし(v、b)と岡本睦子(v)そして僕(v、g)の3人組だ。定休日の日曜日はセッションの日『うわばみちゃん』に開放された。金延幸子さんが発起人となって、いろんな人が新作などを発表していた。『グループ愚』が中心だったが、遠藤賢次や高田渡なども時々は顔を見せていた。西岡隆さんも何度かは来てくれたし、フー子ちゃんもイノコと一緒に来てくれたこともある。

 ある日「音楽舎で聞いて来た。」といって、広島フォーク村の村長という人が一人でやってきた。僕たちが日本語で歌っているのを聴いて衝撃を受けたと言って帰って行った。そして暫くして広島フォーク村が自主制作LP『古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう』(1970年)を作った。それには吉田拓郎なども参加して話題になっていた。日本語で歌ったフォークである。九州からは武田鉄矢の『海援隊』の噂を耳にするようにもなっていた。

 加川良が『音楽舎』にサウンドディレクターとして入社してきたのはその前後だったと思う。最初は西岡隆さんがパーソナリティーを勤めるラジオ番組などを作っていたが、自分でも歌を作り始めていた。そのすぐ後くらいであったと思うが、バンジョーの岩井宏さんがURCレコードの制作スタッフとして加わった。そして加川良としょっちゅう6階。その頃には山安ビルの6階をフォークギター教室のために借りていて、その6階に行っては二人で音楽の練習をやっていた様だ。5階には相変わらず山口組が入っていた。やがて加川良は自作の歌『教訓Ⅰ』など引っさげて、岩井宏のバンジョーと高田渡のフラットマンドリンをバックに中津川フォークジャンボリー(1970年)で飛び入り参加して衝撃なデビューを果たした。音楽舎からは高橋照幸の『休みの国』や、細野晴臣、大瀧詠一、松本隆などの『はっぴいえんど』が新しい音楽を作り出していた。その他に斉藤哲夫、しば、『やまたのおろち』『ザ・ムッシュ』『バラーズ』『ロック・キャンディーズ』などが居た。大塚まさじがミナミに喫茶『ディラン』を開店させてそこを拠点に歌い始めていた。

 音楽舎所属のグループのそれぞれが単独でLPを作ったりもしていた。早川義夫はピアノの弾き語りでソロLP『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』だったか、を作った。中には『サルビアの花』なども挿入されていた。西岡隆も独自のLP『溶け出したガラス箱』をつくった。フー子ちゃんも『私のブルース』というソロLPを作った。フー子ちゃんのLP『私のブルース』は廃盤となっていたが、2003年に別のレコード会社から再販されているとも聞いた。

 『フォークリポート』には竹中労、片桐ユズル、三橋一夫、小倉エージ、田川律などが執筆していた。他にも居たと思うが、手元に資料がなく思い出せない。そんな人たちが社長の秦政明さんにいろいろと進言するのだろう。その他にもURCは新しい『童謡』や古い落語の『春話』、たいこもちの『桜川ぴん助』などの収録レコード、奇術の引田天功やイラストレーターの横尾忠則のレコードなども作っていた。その以前から音楽舎には放送禁止の曲が多くあったが、そんな物も積極的に作っていた。僕も博多まで『博多淡海』の取材で同行したこともある。URCレコードがなくなってしまった後、今はその様なレコードが希少価値としてプレミアムが付いているとも聞いた。

 その頃、九州出身のマネージャーの高木さんが九州には武田鉄矢と『海援隊』という面白いグループが居る。と進言していたし、僕も神戸のコンサートで高田渡と『グループ愚』の前座として出ていた、もんたよしのりが面白い声をしているし、歌も上手いと進言したが、既にその頃は音楽舎の余力は無くなりつつあったのだと思う。

 それより前だったと思うが、北田辺の駅ホームで『ロック・キャンディ-ズ』の谷村新司と会ったことがある。「君、なんでこんな所に居るねん?」と話しかけたら「ここが実家ですねん」との答えだった。僕はフォークリポートの編集をしていて新人を紹介するページなどもあったけれど『ロック・キャンディーズ』はその頃、『ママス・アンド・パパス』や『カーペンターズ』などを日本語に訳して歌っていたのだと思う、未だオリジナル曲がなかったので、それ以上、話はしなかった。後で知った話だが僕と谷村新司は同じ小学校、中学校出身で、実家も5分と離れていない場所にあるらしい。『ザ・ムッシュ』のリードボーカルの山本雄二は僕の浪速高美術部の2年後輩の山本雅敏が後に「僕の弟ですねん」と言っていて、皆意外と身近なところに居るんだなと感じていた。

 やがて『音楽舎』は大きくなりすぎてがたがたしていた。岡林信康やフー子ちゃんが体調を崩しコンサートをドタキャンしたりと言うこともあった。でも秦社長はそう言ったことに対して寛容な人であった。

 そして『音楽舎』の時代は終った様にも感じていた。僕はフォークリポートのレイアウトから下り、本格的に渡航の準備に入った。編集長の村元武さんもフォークリポートから退き『プレイガイドジャーナル』の出版準備をしていた。後に話題になった『ぷがじゃ』である。今も『雲遊天下』を出版しておられるし、僕も長く今もお付き合いをさせてもらっている。

 フォークリポートは中川五郎が引き継いだのだと思う。それが『フォークリポート裁判』へとなっていった。僕はそれより以前に高校の美術部の同級生の柴村夢二がデザイン学校を卒業していたのを知っていて、社長の秦さんから「東京でもアートディレクターが居るねんけど、誰か知らんか」と言われていて、柴村夢二を紹介して入社していたのだが、その後、『フォークリポート』は東京制作へと移って、柴村夢二が引き継いでいた。

 1971年、僕は事務所も大学も辞め岡本睦子と結婚し、一緒に海外へと旅立った。新潟港から大荒れの日本海を一晩揺られ、ナホトカ港、夜行列車でハバロフスク、プロペラ機でモスクワ、モスクワからストックホルム。その片道コースがその当時としては一番安上がりのヨーロッパ行きコースであったからだ。

 ヨーロッパを3ヶ月ほどで見ながら通過して、インドで暮らす計画を当初は持っていた。でもストックホルムを拠点にヨーロッパ滞在は4年余りになり、それからニューヨークへ渡り、1年を過ごし、南米を1年かけて旅をした。結局インドには行かずじまいで、6年後に帰国した。

 日本に帰国した頃にはあの頃、未だアマチュアでやっていた様な人の時代になって東京ドームなどで何万人を集めるコンサートなどをやっていた。時代は代っていた。谷村新二は『ロック・キャンディーズ』ではなく『アリス』である。そして武田鉄矢の『金八先生』である。

 『五つの赤い風船』は1972年に解散していた。僕がスウェーデンに暮らして2年目だ。フー子ちゃんと東祥高が結婚して抜けたからだと思う。フー子ちゃんは藤原姓から東姓へと代った。その後子供が2人生れたと聞いた。

 1972年にはストックホルムの我家に高田渡が訪ねてくれて、何日かは僕の家に雑魚寝して泊まったが『五つの赤い風船』が解散したという話は聞かなかった。多分その後のことだろう。その時にもう一人僕の知らない人が居たが、多分、若林純夫だったのかも知れない。余談だがストックホルムのその後には『休みの国』の高橋照幸がちょうど居て、親交があったし、ジャックスの谷野ヒトシとも2~3度会って情報交換などもした。

 僕は1977年だったと思うが、帰国して宮崎の義両親が経営するドライブインをやり始めていた。両親とも学校の先生だったが、ドライブインと別の場所でビジネスホテルを経営していて、手を広げすぎたのかもしれない。僕たちが手伝うことになった。僕は暫くはそのままの形で営業をしていた。鯉料理からトンカツ、うどん、ラーメンまで何でもある店である。やがてドライブインを改装し、ジャズとカレーの店に形を代えた。カレーはインドへの夢が未だ吹っ切れないでいたのだろう。ジャズの合間にラビ・シャンカールを掛けたりもした。

 僕が帰国した頃、東祥高は一人でシンセサイザーを駆使した新しい音楽を作り出していた。そしてそのCDが話題になり、NHKの人気番組『国宝への旅』のテーマ音楽として取り上げられた。僕も楽しみで毎回その番組は観ていた。新しさもありなかなか美しいメロディでその番組にはぴったりあって注目を集めた。フー子ちゃんも子育てに専念していたのだと思う。

 店は13年間続けたが、海外への夢は未だ消えていなかった。そろそろ店をやめてどこか海外に移住して本格的に絵を描きたいと思っていた。そしてその計画を練り始めていた。そんな時、突然、加川良が尋ねてくれた。会うのは20数年ぶりくらいであったと思う。九州ツアーの途中で立寄ってくれたのだ。店を見てこれならライブコンサートが出来ると思ったのだろう。実際に店だけで50坪あったし、敷地は1500坪があった。暫くしてライブの話があった。ジャズ好きの店の常連客などに協力してもらったせいもありライブ『加川良&村上律』は満席になり地元の新聞でも取り上げられ成功を収めた。その以前から九州での音楽のプロモートなどをしていた日南に住む河野好博さんが時々来ていて友人になっていた。河野好博さんの本業はブティックを数軒経営していたが、九州でのソニー・ロリンズや、ビル・エバンス、キース・ジャレットなどのジャズ、そして『上々台風』や林英哲の『鼓童』などの野外コンサートなど大きなイヴェントなども手がける人であった。その彼が僕の店でもライブをやる気があるのならと思ったのだろう。『高田渡』をやらないか。と電話で言ってきた。僕は店をやめてポルトガルに移住することが具体化していたが、閉店記念に『高田渡』もいいな。と思って、二つ返事で承諾した。チケットは売れなくても、今までお世話になった常連客や地元の新聞記者たちを招待して出来ればいいと思ったが、予想以上に満席になりそれも成功を収めた。

 高田渡と会うのはストックホルム以来、かれこれ20年ぶりである。ライブ当日、開演時間になってプロモーターの河野好博さんに連れられて店に入ってきた高田渡は僕の顔を見て全く驚いた様子でカウンターの中に居る僕に近づいて来て目を丸くしていた。そしてライブの話の中で、僕との高石事務所時代の想い出話やストックホルムでの話などを交えたライブとなっていた。

 その後の話でプロモーターの河野好博さんは「九州ツアーの中で、君の店でやったライブが一番良かったよ」と言ってくれた。そしてそのプロモーターの河野好博さんは出来ることなら『五つの赤い風船』をやりたいとも話していた。

 その後、僕はインドではなくポルトガルに移住して本格的に油絵を描きはじめた。そして毎年1度は帰ってきてどこかここかで個展をやらせてもらっている。

 大阪での個展で、西岡隆さんとは久しぶりにお会いした。個展会場でオープニングの挨拶をして頂いたこともあるし、画集に推薦文を書いてもらったこともある。そして新たなメンバーで『五つの赤い風船』をやっているとのことである。

 東京の青山でも個展があって、その時には千葉に嫁いでいるイノコがご夫婦で来てくれた。全くの久しぶりであったが、イノコは変らなく魅力的であった。逆にイノコは「街ですれ違っても解らなかっただろうね」と僕の変貌ぶりに驚いていた様だ。

 フー子ちゃんは子育てもひと段落しその頃の心情の歌を作詞作曲し、CD『今日はいい天気』をつくった。大きなコンサートホールでソロコンサートもしたそうである。でも残念ながら『五つの赤い風船』に戻ることはなかった。

 僕は2年に1度か3年に1度、高島屋で巡回の個展をやらせてもらっている。大阪、岡山、米子が中心だが横浜や岐阜と言った時もある。大阪での個展には西岡隆さんは必ず来てくれるし、加川良や西岡恭蔵も来てくれたこともあった。そしてメガネは必ず来てくれる。息子の祥平くんも恋人を伴って来てくれたりもした。何年前だったか、メガネとフー子ちゃんも一緒でしかもお嬢さんのあさひさんも一緒に来てくれたことがある。そして新しいCD『今日はいい天気』をプレゼントしてくれた。CDはお嬢さんのイラストで息子さんのタイトル文字だということだった。演奏は東祥高のシンセサイザーである。家族で作ったCDと言うことになる。フー子ちゃんにサインをお願いした。フー子ちゃんは『ひとしくんへ』と書き添えてくれた。思えば僕たちが初めて出会った頃はフー子ちゃんやメガネの息子や娘さんよりも若い年代であった。そう考えると長い付き合いである。

 

CD『今日はいい天気」の歌詞カード表紙面

 僕はCD『今日はいい天気』をポルトガルまで携えてきて今も時々は聴いている。明るくて爽やかな曲が多くて僕も自然に「今日はいい天気、甘い花の香りのプレゼント。きょうはいい天気、神が与えてくれた休息の日」などとフー子ちゃんの歌をしらずしらず口ずさんでいる自分に気付く。

 その後も、フー子ちゃんはメガネと必ず一緒に来てくれた。西岡隆さんも来てくれたが残念ながら西岡隆さんとフー子ちゃんが一緒になることはなかった。

 メガネと一緒に来てくれた2年後だった。フー子ちゃんは珍しく一人でやって来てくれた。僕は「きょうは一人」と言った。そして大阪高島屋のアートサロンで長い間僕と話し込んでいた。もしかしたらフー子ちゃんと二人だけでそれ程長く話すのはそれがはじめてのことだったかも知れない。僕と初めて会った高校生の頃の想い出話など思いも拠らなかった話。それから『五つの赤い風船』の頃のはなし。

 そして「CD聴いてくれた。どうやった。」と聞かれた。僕は只個人的な趣味で「もっとアコースティックな方が良かったんとちゃう」と言った。それとどうしても西岡隆さんとのコーラスのイメージが強いので「この曲をコーラスで聴きたかったな」とも言った。

 フー子ちゃんは「あの頃の関西フォークは左翼思想の人たちのもので、私には戦争がどうのこうのは歌えない。」と言う話をしだした。それが『五つの赤い風船』を抜けた理由と言いたかったのだろう。僕はフー子ちゃんと話すのは嬉しかったし楽しかったけれど、個展の会場に居るわけで他のお客さんのことも気になるし、そんなフー子ちゃんの話を真剣に受け止めることが出来ない環境であったと思う。個展が終ってからゆっくり話を聞いてみるべきだったかな。と今になって思う。そして、又、話す機会はあるだろうとも思っていた。

 僕たちの高校時代は60年安保と70年安保の丁度中間にあたり、あまりデモに参加したとか、の無かった時代だ。僕の兄は60年安保で盛んにデモに参加していたし、妹は70年安保でデモに参加して、機動隊から警棒で殴られて痣を作ったなどと言っていた。が僕たちの時代はその端境期であった様な気もする。或いは公立高校と違って、私立高校にはその様な盛り上がりはなかったのかも知れない。中川五郎は『受験生ブルース』を歌ったが、僕たちには受験戦争もあまり感じなかった。

 僕がストックホルムに居た頃、70年以後は安田講堂や浅間山荘事件など内ゲバへと流れは向い、難しい時代でもあった。その頃のヨーロッパには日本のニュースは全く入らなかった。ストックホルムの日本航空の事務所に1週間遅れの新聞を読みに行ったし、浅間山荘事件はパリの日本大使館でやはり1週間遅れの新聞を貪り読んだものである。

 パリに少し住んでフランス語学校、アリアンスフランセーズに通っていたのだが、同じクラスに東大の現役生が居た。「東大では授業がなく、仕方がないのでフランス語でも習おうとパリに来ている。」と話していた。

 戦争は誰もが反対だ。それを回避する方法には、人それぞれの考え方の違いがある。難しい問題を孕んでいることは確かだ。ベトナム戦争の後も、地球上では戦争や紛争の絶える事がなかったし、今現在も何処かで爆撃が続いている。人類は何処へ向おうとしているのか?と悲しくなってしまう。そしてアメリカは世界の警察を自負し、多くの戦争に拘ってきている。日米安保体制が是か非か、今の僕にも判らない難しい問題だ。

 音楽を政治に利用しようとする人は居るかもしれないけれど、音楽で政治を変えることはできない。岡林信康の『友よ』は確かにデモを扇動する力は持っていると思う。でも政治を変えることはできない。

 しかし「音楽は時代を変える力を持っている。」と僕は思う。関西フォークの人たちにはその力があった。『五つの赤い風船』にはその力があった。そしてフー子ちゃんにはその力があった。

 そのフー子ちゃんと2人きりで話した、高島屋の個展の3年後に再び大阪高島屋の個展DMをフー子ちゃんに送った。けれども来てはくれなかった。個展の1ヶ月前に亡くなっていたという話を娘のあさひさんからの僕のブログへの書き込みで知った。メガネの追悼文のブログ『哀悼 めがねである。フー子ちゃんは不治の病、難病に罹っていた。という話も聞いた。CBD(大脳皮質基底核変性症)という難病だそうで、3年間の寝たきり介護の末、特養で静かに息を引き取られたそうだ。メガネが亡くなった同じ月、同じ年である。

 娘のあさひさんの書き込みによると、あの泉大津の豪邸も人手に渡ってしまったそうだ。

 東祥高はその1年前に肺炎で亡くなっていた。それは当時の『フォークリポート』の編集長、村元武さんがメールで知らせてくれていた。

 フー子ちゃんのCD『今日はいい天気』を作った後、別の女性ミュージシャンとの音楽つくりに熱中していて家族を省みなかったそうだ。亡くなる時もその女性ミュージシャンの下で亡くなったそうである。

 

 以下、フー子ちゃんの娘、あさひさんのブログへの書き込みを無断転載させていただきます。

 

 『 フー子こと母親は、三年間の寝たきり、難病介護のすえ、特養で静かに亡くなりました。

 父親は自分の死期をさとったとき、家を出て行き、愛人のもとで亡くなったそうで、わたしもお墓を知らないまま…

 せめて残された母親は、最期までしっかりとそばに居ようと思い、それを叶えました。

 まさかのはやいお別れで、わたしもまだ実感がありません。

 定められた宿命、寿命、ほんとうに未知のなかで、生かされているのだと思います。

 母親のことを、思い出してくださって、ありがとうございます!… あさひ 』

 

 あの大阪高島屋の画廊でフー子ちゃんが「もうそろそろ帰るわ」と言った時の淋しそうな顔とエスカレーターを降りてゆく後姿は今も僕の瞼に焼き付いている。

 『五つの赤い風船』の西岡隆と藤原秀子のハーモニーは本当に素晴らしいものであった。まだまだやれたと思う。まだまだ聴きたかった。

 そして東祥高のご冥福を祈らずにはいられない。一時は愛し合った仲であったと思う。フー子ちゃんとの間に出来た2人の子供の父親である。そして音楽という芸術に生きた、芸術を優先させた人生であったのだろうと思う。

 東祥高氏は2012年10月3日に。

 フー子ちゃん(東秀子)はその1年後、2013年11月29日に亡くなっていた。今月29日が3回忌にあたるのであろうか?

 そしてフー子ちゃん藤原秀子(東秀子)のご冥福を心よりお祈り申し上げるものである。VIT

 

 

写真は2009年5月、大阪高島屋6Fアートサロン、武本比登志個展会場にて。左から元『フォークリポート』編集長、現『ビレッジプレス社』社長の村元武さん。2017年6月1日号『村元武さんとかつ丼の話』。2014年4月号『哀悼 めがね』『むうるる』のメガネ。フー子ちゃん(東秀子)。2015年9月号『チョコレートにトウガラシ 』に登場のヨネやん(柴田米吉)。武本比登志。(撮影MUZ)

©2015  MUZVIT

藤原秀子(或いはフー子ちゃん)と、僕にとっての関西フォークの時代(上) 

 

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
フー子さんのこと思い出してくださりありがとうございます! (あさひ)
2016-05-22 12:05:54
フー子さんこと母親の三回忌も無事終わり
先日は春のお彼岸に天王寺一心寺へ
今世では会えなかった孫にあたる一才の息子と行って来ました。

大阪に降り立つと

『けれどまだお母さんは
難波とか梅田の

大好きなコム・デ・ギャルソンのお店に‥

趣味の裁縫の材料を求めて毛糸売り場に‥

或いは
かわいいオーガニックカフェにちょこんと座ってるんじゃないかと‥!』

どこかに飄々といるんじゃないかと
思ってしまいます!



話したいことがたくさんある
一緒に素敵なカフェへいきたいなぁ‥

やはりまだ時々涙が溢れます。


(昨年夏に
グリーンウッドレコーズ様より
藤原秀子『私のブルース+7』が復刻され
ました!
私もメッセージを書かせて頂きました。)




****

このように 亡くなった両親のことを
伝え語ってくださることを
うれしく思います。

私は現在 神戸にて
もうすぐ2歳の息子とふたり暮らし


また
関西で個展を開催されるおりは
是非おうかがいしたいです。
返信する
武本様、あさひ様へ ( )
2016-05-28 15:42:56
武本様

大変興味深く拝読致しました。

東祥高氏が亡くなった事はしばらく前に知りましたが、奥様も亡くなっていたとは存じ上げませんでした。それから、お二人の晩節の諸々、読んでいてなんとも言えない気持ちになりました。

わたくし、若い頃にトンさんにお世話になっていた事がある者です。ご自宅へも何度か連れて行ってもらった事があり、あさひさんがまだ小さな女の子だった頃、もう30年も前の話です。泊めていただいた翌朝、静かに流れるバッハを聴きながら朝食を頂いた事は忘れる事が出来ません。あの優しそうだった奥様も既に鬼籍に入られたのですね・・・。

いつか泉大津のごお宅を訪ね、トンさんの墓参にと思っていましたが、既にあのお宅も無く、あさひさんもトンさんのお墓をご存知ないとか。最後までトンさんらしいと言えばそうなのですが・・・。

思わず書き込んでしまいましたが、何を申し上げて良いのか考えがまとまりません。今はご冥福をお祈りする事しかできません。あさひさんがお子様と健やかにお過ごしであります様。
トンさんと奥様のご逝去、本当に残念に思います。

乱文失礼しました。
返信する
コメントありがとうございます。 (武本比登志)
2016-05-29 04:13:54
2日前の5月26日にポルトガルの我家に戻って来て、コメントを拝読しました。あさひさん、匿名の方、コメントを有難うございます。大阪高島屋の個展には西岡隆さんと村元武さんが個々に来てくださり、お二人ともこのブログを既に読んでくれていて、フー子ちゃんのことについてゆっくりと話すことができました。あさひさんにはこのブログを書いた昨年11月にお知らせをしたかったのですが、あいにくメールアドレスを知りませんでした。僕のメールアドレスはサイトのトップページから入ることができますので、よろしくお願いします。
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