武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

129. 藤原秀子(或いはフー子ちゃん)と、僕にとっての関西フォークの時代(上)

2015-10-31 | 独言(ひとりごと)

  フー子ちゃんが亡くなって2年が経とうとしている。僕の中でこの2~3年の間に実にいろんな出来事があり、心の整理がつかないままだが、フー子ちゃんのことについて、僕でしか知らない、或いは僕との拘りの部分だけでも書き残しておいてもよいかなと思い立ち、追悼の意味も込めて書いてみようとおもう。

 僕が藤原秀子と初めて会ったのは高校3年生になったばかりの時だ。1964年(昭和39年)であったと思う。東京オリンピックの年だ。僕と藤原秀子は同い年で、僕は浪速高校という私学の男子高で、藤原秀子は羽衣学園という女子高に通っていた。羽衣学園と浪速高校とは少し離れているが、沿線は同じ、今で言うJR阪和線にある。当時は国鉄といった。いや羽衣学園は阪和線の鳳駅から羽衣線という国鉄の支線に乗り換える。正確には東羽衣駅と言うらしい。そのあたりには南海電車も平行して走っていて南海電車は羽衣駅という。その国鉄、東羽衣駅の一つ手前に僕も子供の頃よく通った浜寺水練学校のある浜寺公園駅がある。昔は浜寺も羽衣も綺麗な海水浴場であった。大阪の近くには大浜という海水浴場があって「大浜は汚いけど、浜寺や羽衣まで足延ばしたら、そら水は綺麗やで」などと大人たちが言っていたのを覚えている。

 初めは羽衣学園に通うイノコという女性と知り合いになった。イノコの家は僕と同じ北田辺にあり、何となく顔見知りになったのだと思う。イノコには羽衣学園の中で5~6人の親しい友人グループがあった。タガヤさん、メガネ、まっさん、そしてその中の一人に藤原秀子がいた。藤原秀子という正式名は誰も使わなくて、ずっとフー子ちゃんと呼ばれていたし、僕もそう呼んでいた。

 フー子ちゃんの自宅は北田辺からはそうとう遠い、難波から南海電車に乗って堺市と羽衣も通り過ぎて、その先の泉大津にあった。今では関西空港が出来、快速列車も走りかなり近くになったが、その当時は遠く感じていたものだ。でもフー子ちゃんと初めて会ったのは北田辺であったと思う。そして羽衣学園の制服姿であった。もちろんイノコも一緒であった。その頃はいつもイノコと一緒にそのグループの誰それとは会っていた。僕は近鉄線の北田辺駅から2駅の終点、阿部野橋まで乗って、天王寺駅から国鉄阪和線で5つ目の我孫子町駅にある浪速高に通っていたがイノコとは帰りの電車で顔見知りになったのだと思う。

 イノコは魅力的な女性だが、僕からみれば大人っぽくて、事実イノコの誕生日は僕より1ヶ月早かったし、近寄りがたい雰囲気を漂わせていたが、イノコ自身はいたって気さくでさっぱりした人柄ではあった。イノコだけではなくそのグループの誰もが魅力的だった。浪速高の様なバンカラ高の僕から見れば、イノコのグループは何かアメリカ映画にでも出てくる高校生の様な、おしゃれでスマートで上流階級のお嬢様という雰囲気も漂わせていた。

 イノコと知り合う前から僕は1学年下のチコという女性と付き合っていた。そのチコも偶然同じ羽衣学園の女子高生だった。その後、イノコとチコは知り合ったらしい。チコとも天王寺駅から通学電車が同じで、その頃、時々は時間を示し合わせて通学していた。僕が我孫子町駅で先に降り、チコはそれからも暫くは10程の駅を乗らなければならない。チコは天王寺駅から快速電車で鳳駅まで乗れば早く学校に行くことが出来るが、僕に合わせて早朝に家を出て各駅停車に乗ってくれていたのだ。

 ある日、僕はその通学電車の中で、全く知らない建国高校の生徒二人から突然殴られた。前触れもなく突然。建国高校は韓国人の学校で在日の人たちが通う高校だ。浪速高校のすぐ隣にあったが、校門のせいで最寄り駅は次の杉本町駅で、彼らはもう一駅乗ることになる。僕の同級生、バンドのメンバーの森栄が他の女子高、相愛学園の生徒を見初めて僕が一緒にその女子高生に話しかけたことがある。それを建国高校の生徒が見ていたらしく、その電車の中で、僕に「その女から手を引け」という訳である。手を引くもなにも一度話しかけただけである。あらぬ濡れ衣のために殴られたのだ。それもチコと一緒の電車の中で。大勢の大人たちが見ていたが、注意する人も車掌に連絡する人誰一人として居なかった。誰もが見てみぬ振りである。そのすぐ後に僕は電車を降りなければならないのだが、チコはその建国高校の生徒と一緒に電車に残らなければならない訳である。僕はチコを連れ別の車両に移ってそこから降りた。別の車両に移ったとはいえ、怖かっただろうと思う。そして僕に対する不信感も抱いたに違いない。建国高校の生徒はボクシング部だと言っていたが、それ程パンチ力はなかった。顔が腫れることもなかったし、隈ができることもなかった。手加減をしたのかも知れない。そんなことがあって、気まずさもありチコとは暫くして自然に別れた格好になった。

 浪速高は他の高校より30分早い8時5分が始業時間になっていて、あまり他校の生徒と一緒になることはなかった。その日はたまたま彼らが早い電車に乗ったのだろう。浪速高生の中には建国高を怖がる生徒も居たが、僕は建国高を怖いと思ったことは一度もなかった。美術部の部長になってすぐに建国高校の美術部と交流を試みた程だ。

 イノコとは友達として何となくずっと付き合っていた。イノコのグループは僕から見れば皆が大人っぽかったが、フー子ちゃんだけは身体も小さくそんな感じはしなかったがお金持ちのお嬢様らしく少し近寄りがたい印象はあった。僕もフー子ちゃんも無口であったという訳ではないが2人だけで話すことはあまりなかった。

 フー子ちゃんの家は大きな紡績会社を経営していた。泉大津は古くからの紀州街道にある歴史ある町で、江戸時代から織物で栄え、その頃も大小の紡績会社があり、日本の90%の毛布を生産していた。藤原紡績はその最大手でフー子ちゃんはその社長の娘である。一度家にも行ったことがあるが、豪邸で家の中にはダンスホールもあってグランドピアノが置かれていた。

 羽衣学園は中学、高校、短大とある一環高で、いわゆるお嬢さん学校なのだと思う。イノコたちのグループは中学からの仲良しグループだった。勿論、チコの様に高校だけ通う人もいるだろうし、短大だけの人もいることだろうと思う。イノコはその後別の短大に行ったが、フー子ちゃんは短大も羽衣学園であった。羽衣学園のコーラス部は優秀で全国大会ではいつも上位であったし、生徒の中には音楽に興味のある人が多かった様にも思う。

 僕はギターが弾けなかったけれど高校3年の文化祭でビートルズをやろうということになって、その1年前からバンドを結成した。その前に体育祭があってエレキギターを抱えてビートルズとして仮装行列に参加した。イノコはそれを見て「ギター弾けるの?」と目を輝かせた。僕は弾けなかったけれどイノコは弾けるのだ。僕の家にはおんぼろのギターがあった。兄がどこかで貰ってきた物かも知れない。イノコはそのギターを使って歌を歌った。楽譜はイノコが持参していた。『ポールとポーラ』である。そして僕にそのポールの部分を歌えと要求した。恋人同士の歌だ。その楽譜は僕の家に置き忘れて帰ったが、後で見てみると、最後のページに「ふじわらひでこ」と書かれてあった。イノコはもっとギターが上手になりたいと本格的にクラッシックギター教室に通い始めていたが、仲良しグループで一番ギターが上手いのはフー子ちゃんだとも言っていた。その後、僕もその楽譜を見ながら少しずつギターが弾けるようになっていった。イノコはその後、ギター教室の生徒さんを取るまでになっていた。

 ビートルズをやるといってもレコードはドーナツ版『ラブ・ミー・ドゥー』が1枚しか出ていない時で、未だ殆どの人がビートルズの名前すら知らなかった。やがて人気は急上昇、待ちに待った初めてのLP版が発売になり、発売当日に買い求めた。『MEET THE BEATLES』である。僕たちはその『MEET THE BEATLES』のジャケットの様に黒ずくめの衣装にしたかったが、未だ町には黒いTシャツなどどこにも売られていない時代で、黒い染料を買ってきて浪速高の屋上で七輪に練炭を熾し白い体操着を黒く染めたりもしてステージ衣装を作った。

 リードギターの田中繁君もベンチャーズなら得意だったがビートルズの譜面起こしには全くお手上げだった。天王寺にあった出入りのトミタ楽器店での繋がりで田中君の知り合いの西岡隆さんに譜面起こしをお願いすることにした。歌が上手い人だからということで歌唱指導もついでにお願いし、浪速高校まで出向いて頂いた。

 僕は美術部でその部長も勤めていたのだが、講堂での歌唱指導の後で美術部室にも案内し見てもらった。丁度私学展の前で部室には大作が部屋一杯に並べられていた。その頃は大きい絵を皆が描いていてベニヤ板2~3枚が普通であった。そんな絵が大小10点程も並んでいるのだ。その中には、後の文章に出てくる、上久保良文、柴村夢二、小笠原ひさし、加藤正雄、はるき悦巳、松岡豊などの作品も含まれていた。もちろん僕の絵もあった。そして浪速高校は私学展ではいつもトップクラスの成績を挙げていた美術の名門校ということになっていた。西岡隆さんは少々驚かれた様子だった。

 それからは僕とは意気投合し親しくご自宅などにもたびたび遊びにいっていた。西岡隆さんはアルバイトでデザインの仕事などもしておられたし、ご自宅で抽象画を描かれていて100号ほどの大きな作品も立てかけられてあった。

 行くといつも歌を歌って聞かせてくれた。たいていがハンク・ウイリアムスやカーター・ファミリーなどを英語で歌っておられてギターは勿論、手作りのバンジョーやフィドロ。日本橋の古道具屋で見つけてきたというオートハープなどもご自分で修理し楽器は何でも出来る人だった。そしてレコードでは中東の音楽やインド音楽。ジャズはその前から聴いていたが、ラビ・シャンカールを西岡さんのお宅で初めて聴かせてもらって衝撃を受けた。

 僕は西岡隆さんの歌を一人で聞くのは勿体ないと思い。イノコやメガネなど女の友達を連れて行くことも多くなっていた。西岡隆さんは女の子にも判りやすいようにと思われたのだろう、日本語の歌も作られた。それが『遠い世界に』や『雨よいつまでも』である。恐らく『遠い世界に』を初めて聞いたのは僕である筈である。僕は西岡隆さんの影響を多く受けていると思う。インドへ行きたいと思ったのもその頃だし、海外への夢を抱いたのも西岡さんの影響がかなりの部分であったのだと思う。

 文化祭の当日は教室の一つを準備室に貰っていた。チューニングしたりする場所にもなる。そこで出番を待つ間ミニコンサートが開かれた。イノコもエレキギターの弾き語りを聴かせてくれた。そしてフー子ちゃんも小さな身体に重いエレキギターを抱えての弾き語りを聴かせてくれたが、アダモなどなかなかのものであった。

 文化祭も終り、高校も卒業ということになった。僕はバンドも解散して就職もしないで進学もしないで、宙ぶらりんの状態でいた。そしてアルバイトにジャズが好きだったこともあり道頓堀のジャズ喫茶『ファイブ・スポット』でバーテンダーの仕事をしていた。

 かつてのバンドのリードギターの田中繁が「きょうダンスパーティで演奏するから仕事がひけてからでも歌いに来ないか?」と誘ってくれた。御堂筋に面した本町あたりのビルの中だったと思う。そのバンドのサイドギターはイノコがやっていた。僕は歌ったが久しぶりだったし、イノコからは「めちゃくちゃやん」と言われてしまった。

 そのエレキバンドの合間に当時流行りかけていたフォークバンドの演奏があった。PPMスタイルのフォークバンドで、ボーカルがフー子ちゃんだった。そしてその時初めてお会いしたのだが、中川砂人さんが居た。

 僕は「へー、こんなんやってるの~。こんなんやったら、上手い人知ってるわ。」と言ったのを覚えている。フー子ちゃんと砂人さんは「その人、ツーフィンガーピッキング出来るかな?」と尋ねてきた。もう一人メンバーが欲しいと思っていたのだろう。僕はツーフィンガーピッキングがどんなものか知らないが「出来ると思うわ。その人一人でPPMの二人分の音出しはるわ」と言った。そしてその後、西岡隆さんを紹介したことになる訳であるが、そのあたりの記憶は定かではなく、或いはイノコが、或いは田中繁が、或いは僕が西岡隆さんにひき合わせ紹介したのだと思う。

 それからのことは知らないのだが『五つの赤い風船』という名前でヤマハライトミュージックコンテストに出場して2位を獲得したという話を後になって聞いた。『五つの赤い風船』というネーミングはフー子ちゃんだそうだ。ちなみにその時の1位は早川義夫の『ジャックス』である。1967年(昭和42年)のことである。フー子ちゃんや西岡隆さんと知り合って3年が経っていたことになる。

 僕は大阪芸大油彩科に通っていた。『五つの赤い風船』はプロとしての活躍が始まっていた。

 メガネはブティック『むうるる』を始めていて、その何かのパーティーだったと思う。『五つの赤い風船』が少しだけ歌った。そこにチコが来ていて、久しぶりにあった。チコは女性だけのエレキバンドをやっている。と言って名刺をくれた。名前の横にドラムスと印刷されていた。パーティーが終ってチコとも一緒に『五つの赤い風船』を新大阪まで見送りに行った。

 その時、西岡隆さんから「五つの赤い風船に入れ」と僕に誘ってくれたことがある。僕は少しギターが弾けるようにはなっていたが、プロではとても通じないし、歌も下手であると自分では思っている。フー子ちゃんはチコとの再会を喜んで話し込んでいた。西岡隆さんは「ギターでもバイブでも歌でも僕が教えるから」というはなしをしてくれていた。砂人さんは僕がどの程度弾けるのか随分と気にしていた様だ。もし僕が入れば、今後、自分とどんな音楽が作り出せるのかに拘ってくるのだから。

 僕は全く自信がなかったのが最大の理由だが、冗談で「僕は絵描きにならなあかんから歌なんか歌てられへんねん」と言って断わった。随分と失礼な言い方だったと思うが、僕と西岡隆さんはごく親しい間柄であったし、何でも言える年頃でもあった。それに僕は大阪芸大に入ったばかりであったのだ。

 チコは「やったらええのに」と見送った後に言ってくれたが、僕には無理な話であった。それからチコと一緒の電車で帰って別れたが、その後は何十年経った今も出会ったことはない。チコのドラムスも聴いてみたかったが、結局、聴く機会は訪れなかった。

 暫くしたある日、西岡隆さんから別の話があった。「事務所で雑誌のレイアウトの仕事をせえへんか」という話だ。

 『五つの赤い風船』は高石事務所に所属していたが、そこが全国から会員を募って『フォークリポート』という雑誌と『URC』というレコードを配布するという事業が始まっていた。発起人の一人の松山猛は東京での魅力的な仕事の誘いもあったのだと思う、フォークリポートの創刊号を終えた時点で東京に行ってしまったのだ。(これは僕が思っているだけで真実は違うかもしれないが)それで僕に白羽の矢が立ったという訳である。「歌はあかんでもレイアウトなら将来の美術にも役にたつやろ」と言って西岡隆さんは勧めてくれた。僕はやはり自信はなかった。とにかく未だ僅か19歳かそこらの何も知らない年代である。でも歳は関係がない。才能とやる気が問題なのだ。現に松山猛さんも同じ年齢だと思う。それにしても今から思えば京都フォークには才能豊な人が多かった。

 でも面白そうだし、西岡隆さんは「僕が教えるから。言う通りにしたら出来るがな。」ということで引き受けることになった。大学に行きながらである。

 最初の仕事は先ず印刷会社を探すことであった。創刊号はオフセット印刷で作られていたが、西岡隆さんはそれが気に入らなくて、もっと本格的な凸版印刷が望ましいと考えていた。僕は自宅の近所にあった、印刷会社が業界新聞や書籍などをやっていて、凸版印刷だし、そこなら出来ると思い、その会社名と電話番号を西岡隆さんに伝えた。そして『フォークリポート』の印刷はその後、東洋印刷製本と決まった。

 「僕が教えるから」と言った西岡隆さんはそれどころではなくなり、猛烈に忙しく全国の労音とも結びついて、それこそ年間200回ほどのコンサートである。とにかくあの頃の関西フォークは破竹の勢いで忙しくなっていた。

 一方、労音は分裂をきたしていた。労音で冊子つくりなどの仕事をしていた、村元武さんが『フォークリポート』の編集長として来てくれた。そして写植の張り方などの基礎から校正の仕方などいろいろと教えてくれて僕は本当に助かった思いだった。その頃に学んだことは僕のその後の人生にとって大きな力となっているのだと思う。イラストには西岡隆さんの友人でイラストレーターの毛利さんと僕の友人の加藤正雄に1ページずつはお願いしていたが、それ以外のイラストと表紙は僕がいろんな名前を使って一人で幾つもをしていた。

 その他には高校の美術部の仲間達にも1回ずつくらいはイラストを描いてもらって協力してもらった。上久保良文はその後、SFファンタジーな絵を描くイラストレーターで今も人気が高く、AUやテイジンなどのカレンダーにも使われている。柴村夢二は僕の推薦で『音楽舎』東京事務所のアートディレクターをしていたが、退いた後は自分でデザイン会社を設立して今も活躍中である。小笠原ひさしはその後、1級建築士となり神戸に事務所を構えた。そのあたりにたくさんの家を建てたが、阪神淡路大震災で彼の手がけた建物は一軒も倒壊しなかったそうである。加藤正雄はその後、東京に出て、月刊『プレイボーイ』のイラストなどを描いていたが、その後、大阪に戻り、郵便局や寺社などのパンフレットデザインを手がけ、最近では地元、工場地帯などのスケッチを描き、独自の世界を展開、それが『ダダダダダダダダ、スケッチだ!』という画集になって出版されている。はるき悦巳は漫画家となり『じゃりん子チエ』はあまりにも有名だが、その他に『日の出食堂の青春』という漫画も描いたが、それがNHKの銀河テレビ小説でドラマ化され、その音楽は偶然にも西岡隆さんが担当した。二人は僕の個展会場で偶然にも会い、挨拶を交わしていた。何れもフー子ちゃんを直接、間接に知る人物たちで、一度以上は『フォークリポート』にイラストを寄稿してくれた人たちである。

 『フォークリポート』の写真には大学同級生の岡本睦子にやってもらった。勿論、校正は村元武さん、岡本睦子、僕の3人全員であたった。1969年、1970年の頃である。

 事務所は大阪北区兎我野町、山安ビルという6階建ての小さなビルの3階にあった。隣にはホリプロが入っていたが、すぐに何処かへ引っ越して行った。その部屋も高石事務所が借りることになり、大きいほうが高石事務所本体で小さい方、元ホリプロの部屋に僕たちの制作部、アート音楽出版が入った。

 1階には喫茶店があり、ビルの5階には山口組の事務所があって、ビルの正面から仰ぎ見ると金色で菱形の代紋が夕陽に輝いていた。高石事務所の出入りは多かったけれど、山口組はそれほどでもなく、あまりエレベーターなどで会うこともなかったが、たまたま一緒になったりすると、3階のボタンを押すことは儘ならず、途中下車は許されず、5階まで先ず上がって、組員の方が下りてから3階に下らなければならなかったということもあった。僕は肩の下までの長い髪の毛をしていたのだが「髪の手入れ大変やろ」「いえ、それ程でも」などと会話があって、5階で組員の方が降りるときにニャッと笑顔を見せ「ほんじゃ、悪いの~」と田中角栄の様に片手を挙げて降りていった。「いえ、どういたしまして。お大事に」と僕は思わず言ってしまったが、3階のボタンを押して降りるエレベーターの中で「お大事に」はまずかったかな。などと考えたものだ。まあ同じビルの住民に手荒なことをする筈もなく怖いこともなかったが、口応えなどは決して出来ない雰囲気はあった。

 そのあたりには小さな雑居ビルが沢山あって、1階は食堂や喫茶店、そして個人商店など、上階に小さな事務所ばかりがある様な場所で、すぐ前にはお寺、太融寺の長い塀があり、裏道などに入ればラブホテルも点在していて、その先に毎日放送があった。兎我野町というくらいだから、江戸時代にはウサギが我が物顔で走り回っていた原っぱだったのだろう。

 新宿フォークゲリラという運動があったが、大阪でも大阪梅田地下街がその舞台となった。その大阪梅田の地下街を上がると曽根崎警察があるが、そもそも曽根崎などは、かつては淀川の河口に広がる葦の生い茂る湿地帯であったのだろう、曽根崎心中の舞台である。高石事務所はそれから5~6分歩いたところにあった。大阪梅田地下街を上がり、お初天神通りに出てすぐに左に折れ、細い路地に入ると10円寿司などの小さな飲食店が並ぶ、それが切れたあたりから左側に太融寺の塀があり、不等辺な四差路の角に『高石事務所』の山安ビルがあった。

 僕たちが子供の頃は大阪駅の正面、阪神百貨店の西側や南側などには未だ、闇市の名残があって、バラックの飲み屋などがひしめいていた。僕が『高石事務所』に通いだした頃も大阪万博を前にして、工事中が多くて、ところどころ板塀で囲ってあって、そんな板塀に僕のデザインのポスターがべたべた張られていた。

 そもそも高石事務所は秦政明という社長とその従兄の秦晋一郎という経理が経営をしていた。秦さんはジャズやその他の音楽のプロモートを生業にしていた会社である。僕が入る前にはジョン・コルトレーンやキャノンボール・アダレーなどのジャズの大阪公演や美空ひばりなどもやっていた。ジャズから演歌までである。ところが一度ドタキャンをしでかしたらしく、その失敗で日本のメディアから総すかんを喰らったことなどもあり、難しい立場にもいた。

 秦社長は阪大出身であり、学生時代は阪大の全学連の委員長をしていた人だ。多分51年の新安保闘争の時代である。そしてグリークラブにも席を置いていた。音楽が根っから好きで解る人ではあった。

 そんな人がやがて高石友也と結びつき『高石事務所』となるわけである。高石友也は京都フォーク連盟とも結びつきが強かった。フォーク・クルセダーズが解散記念に300枚だけ自主制作LPレコードを作った。その中にあの『帰って来たヨッパライ』が入っていた。僕の前任の松山猛の作詞である。それがラジオ関西を中心に爆発的なヒットへと繋がった。ヒットと同時にドーナツ版の製作へとなって、プロダクションは高石事務所となった。自主制作時の『帰って来たヨッパライ』には端田宣彦は入っていなかったのだが、そのドーナツ版から参加することになって、その当時としては史上最高の売り上げを記録する大ヒットにまでなった。事務所に入る印税も破格であった筈だ。そして秦社長のプロダクションは息を吹き返したのだ。

 プロダクションは高石友也、フォーク・クルセダーズの他に、岡林信康、ジャックス、高田渡、五つの赤い風船、中川五郎、六文銭、岩井宏、遠藤賢司、赤い鳥、豊田勇蔵、中山ラビ、ひがしのひとし、フォーク・キャンパーズなど多くのミュージシャンを抱えることになった。そして労音がその左翼的音楽の関西フォークを全国に回すことになり、ミュージシャン達はみるみる忙しくなっていった。

 フォーク・クルセダーズも『帰って来たヨッパライ』の次に同じ自主制作LPに入っていた『イムジン川』を発売しようとしたが、韓国の方から待ったが掛かって寸前で発売中止となった。それが『悲しくてやりきれない』に繋がった。詩はサトウ八チローで曲が加藤和彦である。その後は北山修と加藤和彦のコンビでヒット曲は次々に生み出された。

 フォーク・クルセダーズは元々解散をしていたグループだ。メンバーの一人、北山修は医科大学の学生だった。1年だけという約束でプロ活動をしたが、正式に解散となった。端田宣彦は引き続き『シューベルツ』を結成、『風』が大ヒットとなった。シューベルツは『クライマックス』と『ジローズ』に枝分かれした。そしてクライマックスは『花嫁』で、杉田次郎の『ジローズ』では『戦争を知らない子供たち』でやはりヒット。(実は杉田次郎はシューベルツに入る前はジローズをやっていて戻っただけ。)全てがメジャーヒットへとなり。とにかく破竹の勢いは止らなかった。

 米ソの冷戦下、アメリカではケネディ大統領が月への夢を乗せて1961年に『アポロ計画』を発表。月面到着を見ないまま、1963年11月22日、ダラスで暗殺され、その生々しい映像が世界中に放送され衝撃を与えた。その翌年、公民権運動の黒人指導者、マルティン・ルーサー・キング牧師にノーベル平和賞が授与されたものの、4年後の1968年、暗殺される。そして1969年アポロ11号が月面到着を成功させる。がその前から、アメリカではベトナム戦争が泥沼化し、ジョン・バエズ、ブラザース・フォー、キングストン・トリオ、PPM、ボブ・ディランなどのフォークブームが起こっていた。そしてそのスタイルがそのまま日本のマイク真木、森山良子、加藤登紀子へと繋がっていたのだと思う。そして京都ではフォーク・キャンプが盛んに音楽活動を始めていた。そんな時、ヤマハ楽器がフォークギターを製作するのと同時にヤマハライトミュージックコンテストを行ったのだと思う。アメリカでは『ウッドストック・コンサート』が大きな話題となり、日本でも何万人も集める『中津川フォークジャンボリー』(1969年)などが実現していった。出演者はその頃は高石事務所から『音楽舎』へと名前が代っていた『音楽舎』のミュージシャンが中心だった。

 僕は音楽舎の中でアートディレクターとして働いていたが、事務所は関西フォークの他に従来からの外タレや演歌のプロモートなども未だしていた。その中にはベンチャーズや藤圭子などもあって、僕もそのポスターやちらしのデザインをしたりもしていた。とにかく『早い安い』(何かクリーニング屋のキャッチフレーズみたいだが)をモットーにデザインをしていたものだから、今から考えると良いデザインのものはひとつもなく、(言い訳に過ぎないのだが)大阪の街にべたべたと僕のデザインのポスターが氾濫していて、僕はその前を通るたびに恥かしい思いをしていたものだ。しかし、経理の晋ちゃん(秦晋一郎さん)からの信頼は厚いものになっていた。

 『五つの赤い風船』のメンバーとはあまり会うこともなかった。お互い忙しすぎたのだろうと思う。勿論、西岡隆さんやフー子ちゃんの活躍はまぢかに見てはいたが会うことは殆どなかった。

 時々は、コンサートの舞台の袖などですれ違って一言二言、フー子ちゃんとも言葉を交わしたことはあった。ジャックスの舞台の袖で「ひとしくんジャックス好きやろ」「ええな~」とか、岡林信康の舞台の袖で「岡林さんは歌が上手いね~。演歌なんか歌わしたら絶品やと思うわ」「僕もそう思うわ」などと他愛もないことだ。一度、五つの赤い風船の楽器運びをかって出たこともある。山口市までの国道2号線を往復クルマの運転をした。宿に着くと浴衣姿の西岡隆さんが古典落語を皆に聞かせていた。何でも出来る人である。

 僕は『五つの赤い風船100曲綴り』と言う楽譜集の制作に携わった。その準備中、たまたま五つの赤い風船のメンバー全員が事務所に来たことがある。皆で山安ビルの屋上に上がってもらって写真撮影を行った。小雨が降っていて傘を差した。それをその『五つの赤い風船100曲綴り』の表紙に使った。フー子ちゃんのステージ衣装はメガネが全部作っていると言っていたが、街歩きでも使える服装であった。

 事務所の中では、僕とフー子ちゃんが以前からの友人であることは誰も知らなかったと思うが、フー子ちゃんの歌の上手さと穏やかな人柄は評判で、秦社長も「フー子ちゃん」などと親しみを込めて呼んでいたのが僕も嬉しかった。

 関西フォークが全盛期には『アングラ音楽祭』というのもやったが、大阪では『メッセージコンサート』と銘打って音楽舎の1~2組と今後有望なアマチュアバンドを数組でコンサートが開かれていて『五つの赤い風船』の前座に谷村新司の『ロック・キャンディーズ』や『ザ・ムッシュ』などを加えていた。そして加藤登紀子も音楽舎と行動を共にしたりしていたこともあり『メッセージコンサート』に出演したこともあるし『フォークリポート』にも寄稿してもらったこともある。一度、編集長の村元武さんと加藤登紀子の楽屋に原稿を受け取りに行ったことがある。僕は付いて行っただけだから別に話はしなかったが、にこにことしていたのだろう。加藤登紀子も笑顔で返してくれたのが印象的であった。僕は加藤登紀子の文章のタイトルバックに1輪のバラを描いた。あまりスペースがなかったのだ。加藤登紀子は1987年『100万本のバラ』を歌った。10年ほど経過して、たった1輪のバラが100万本に増殖した。(下へ続く)

 藤原秀子(或いはフー子ちゃん)と、僕にとっての関西フォークの時代(下)

 

武本比登志ブログ・エッセイもくじ へ  


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 128. スーパーのお客争奪戦... | トップ | 130. 藤原秀子(或いはフー... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

独言(ひとりごと)」カテゴリの最新記事