愚ダメ記、真誤付き、思い津記

日記?趣味?妄想?

早朝の青空

2021-09-25 | 日記

朝、7時頃目を覚ますと、すでに青空が全面に広がっていた。今年の秋は、まだこういう日が僅かしかない。以前、秋の朝7時前に出掛けていた頃は、東から昇ったばかりの朝日が眩しくて運転に苦労したような記憶が残っているのだが。

 久々の早朝の快晴・青い空を見ると、早く出掛けて西へ向かう渡りのタカを撮らなねばと急き立てられるような気がする。案の定、一足早く観察地に付いた幾人かは、朝の塒立ちに備えて木の頂上に留まるハチクマをカメラに捉えることが出来たという。

 やはり「早起きは三文の得」、いやそれ以上である。このような話を聞く度に「来年こそは、あと1時間早く家を出て」と思って来たのだが、結局毎年同じ頃に出て来て後れを取っている自分が情けない。たまには「出遅れの得」という幸運に出会ってみたいものだと、やはり怠け者の我儘が口に出てしまって、何とも困ったものである。


秋分の日

2021-09-24 | 日記

昨日は秋分の日、久しぶりの「飛び石連休」だった。以前は結構多かった飛び石連休。最近は、その言葉自体を聞かなくなったくらいに少なくなった。春分・秋分のように日を動かせない祝祭日だけが日を定められて残ったが、他の多くの祝祭日は土曜・日曜にくっつくように改訂されたからだ。

 昔は「飛び石連休」でも十分に嬉しかった。一日でも学校や仕事を休んで自由な時間が手に入るということが嬉しかったのだが、確かに続けて休めないので一泊旅行にも出かけられないし、一日仕事をして次の日は休みということなので飛び石連休の中日は仕事の上でも不自由さがあった。

 考えてみれば非合理的な休日の取り方を随分長い間続けていたことになる。結局のところは、「日々仕事に励むべし」が基本的理念としてあったからで、そう言えば土曜日も午前中には仕事をしていたのだ。思い出せば、随分遠い記憶のように感じる。

 「秋分の日」カレンダーを見て知ってはいたが、実際には突然金曜日を挟んだ平日に休みが来たような感覚で、一瞬考えてもう一度カレンダーを確かめてしまった。昔はカレンダーが無くても日付を覚えていて当然の権利のように享受していた秋分の日、昼と夜の長さが同じになる日、「彼岸」の日でもあることを改めて思い出した。


ブレイクスルー感染

2021-09-23 | 日記

2回のワクチン接種を終えた人が新型コロナに感染する、いわゆるブレイクスルー感染が話題になっている。その中では何となく、ワクチンを2回打った後でも感染することが問題・不審?でもあるかのような言い方が気になる。ジェンナーの種痘の頃から、「免疫」とは2度目の感染に際して「発症を抑えたり病状を軽くする効果」として知られて来たはず。一回目の感染で「免疫が出来ると2度目の感染はない」というシステムだと教えられた覚えはない。

 子供の頃からいろいろなワクチン・予防接種を受けて来たが、それらの予防接種を受ける場合も、大方は「感染した場合でも発症しないか軽症で済む」という説明であり、「病原菌・ウイルスに感染すること自体が無くなる」という説明は受けた覚えがない。なぜ新型コロナの場合だけ、「ワクチンを2度接種した後は感染自体を免れる」という幻想を持っていたのだろうか? もし「ワクチン接種によりウイルス感染を完全に防御できるのだ」と最初に期待していたのだとすれば、それはどのような根拠によるものだったのだろうか?。

 さらに言えば、ワクチンにより血中抗体を増やしても、身体の外側から鼻や舌の上皮細胞にくっついて入り込むウイルスを、細胞に入らないように(感染しないように)するのは無理な話。ウイルスが外側から最外層の細胞に入り込んで細胞内で増殖するのを、上皮の細胞の内側に在り、さらに血管の中を流れている抗体が止めることが出来ないことくらい、簡単な理屈である。

 血液中、すなわち血管の中を流れている抗体は、上皮の細胞内で増殖したウイルスがさらに内側の組織(体内にまで)に入り込んで来た時にのみ有効に働くことが出来るわけだ。マスコミや報道各社の解説では、いつまで経ってもその基本的なことを説明しようとはしない。その簡単な理屈がいつまでも明快に説明されないままであることには、何となく不可解さを感じてしまう。


江戸のSDGs

2021-09-22 | 日記

江戸の庶民の暮らしが如何にSDGsにかなっていたか、という番組があった。「江戸の暮らしはまさにSDGs を実現していた」、当たり前のことである。かつて、人間の暮らしというのはSDGsを実現しなければ成り立たないものだったのだから。


与党の総裁選挙

2021-09-21 | 日記

与党の総裁選が連日報道されている。与党の総裁が変わるということは国の総理大臣が変わるということを意味するので、マスコミ・報道も注目し取り上げるのは当然だと思う。しかし、与党と言えども一政党内の代表争いに過ぎず、視聴者のほとんどが投票権を持っていないにも拘らず総裁候補の政策発表を公共放送で延々と放送することには疑問が湧く。与党総裁選挙の後に来る、衆議院選挙のための宣伝と感じ取るのはひねくれすぎだろうか。

 さらに、総裁選立候補者の政策を並べて討論会などが催され、ニュースで取り上げられてもいる。だがそこから聞こえてくるのは、選挙の行方が政策の良し悪しで決まるという観測ではなく、結局は派閥や大物議員の影響力で決まるのだということばかり。つまり、与党の総裁選びは「政策の違いに関する議論」によるのではなく、「党内有力者による勢力争い」によって決まるということだ。政党の総裁選は政党内の主導権争いなのだから、内部で勢力争いに終始するのは勝手だが、それなら「そのほとんどが党員でもない視聴者」に向けての宣伝報道は必要最小限にして欲しい。

 政策に関しては「新しく決まった総裁の下で決定される与党の政策」について取り上げたので十分。結局、世論が最大の疑念を抱いている問題には各候補揃って手を付けず、 ”党内有力者達に都合の悪い事は蒸し返さない” というのが「総裁選立候補者に共通する政治路線」となっているように見える。そこが変わらないのならば、与党の総裁が誰に成ろうが今とは大して変わらないように思えてしまう。