みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

「京都新緑旅行記パート2~酒蔵のある伏見の街を行く」

2013年06月20日 09時35分07秒 | 旅行記

 私にとって、行く前は、伏見は血の騒ぐ場所で心穏やかにはなれなかった。十石舟が河を滑るように通り、乗船してみて、川からの岸辺の風景を眺めた。

Dsc04470

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私の血には少し会津若松の血が入り、曾祖父は戊辰戦争で亡くなった。 

だが、ほかの血も流れているわけで、三代東京人である。 

一方の祖母は生粋の東京人で、そちらの曾祖父は昔から江戸にずっといたと言う。 

縁はあっても福島は故郷ではない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Dsc04577

 

<o:p></o:p>

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Dscn6858Dsc04522_2


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「伏見の由来は『伏水』だとする説がある。文字通りの伏し水、伏流水である。

注ぎ込む水は無数の細流に分かれ、田圃に引かれ、池や沼に満ち、入江や沢に溢れ、地下でも飽和して滲み出し、湧き水・溜まり水になって至る所に偏在した。

河流のあたりは一面に草の生い茂る湿地帯である。

ウズラの名所だった深草の里もこの近くだ。

この地に営まれた貴族の別業は水景に臨んだ山荘であり、人々が足を延ばして観月や狩猟を楽しむ近郊の別天地だった。

・・・(途中略)・・・中世以後は、伏見宮家の荘園として長く相伝された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Dscn6854

番外編:江戸時代の高瀬川工事について。慶長16年。

角倉了以と息子素庵による。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この里の景色を一変させたのは豊臣秀吉の大土木工事である。文禄4年(1595)、伏見桃山城にともなう長大な堤(太閤堤)が築かれる前は、宇治川は巨椋池に流入していた。

・・・(途中略)・・・・

秀吉は、宇治川左岸に堤(宇治堤)を築いて川の流れと巨椋池を切り離した。宇治川は独立河川に変わり、さらに下流の淀との間にも堤(淀堤)を築いて伏見を整備した河港とし、大阪への舟運ルートを作りだした。

・・・(途中略)・・・・大阪と京都は伏見経由で最短距離で結ばれるに至った。」

(参考;野口武彦「鳥羽伏見の戦い」中公新書)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

御香宮神社に佐藤栄作元首相の碑があり、読んでいて辛いものがあった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Dscn6901

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

何も、歴史を恨み、違ってほしいと言うのではなく、日本人同士の血が合戦で無残にも流れたことを嘆くのである。

 

しかし、伏見は酒蔵で有名であり、月桂冠・黄桜の醸造元を巡った。 

また、現代人として冷静に寺田屋や御香宮神社まで見学したのあった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Dscn6882

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

戊辰戦争は壮絶だった。

確かにあそこで日本は大きな転換がなかったら、あの近代国家ができていないで、日露戦争には準備が間に合わなかっただろう。

 

家族は、吉田松陰を幼い頃尊敬していたと言う。 

私はどこかひっかかりがあり、勉強は不足しているが、今は少ずつ知ろうとしている。 

水戸へ以前出かけて、吉田松陰の東北への遊説のことを知るようなことがあった。

 

こういう複雑な気分を持っている中で、寺田屋を見学する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Dsc04580Dsc04586_2

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。