私にとって、行く前は、伏見は血の騒ぐ場所で心穏やかにはなれなかった。十石舟が河を滑るように通り、乗船してみて、川からの岸辺の風景を眺めた。
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私の血には少し会津若松の血が入り、曾祖父は戊辰戦争で亡くなった。
だが、ほかの血も流れているわけで、三代東京人である。
一方の祖母は生粋の東京人で、そちらの曾祖父は昔から江戸にずっといたと言う。
縁はあっても福島は故郷ではない。
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「伏見の由来は『伏水』だとする説がある。文字通りの伏し水、伏流水である。
注ぎ込む水は無数の細流に分かれ、田圃に引かれ、池や沼に満ち、入江や沢に溢れ、地下でも飽和して滲み出し、湧き水・溜まり水になって至る所に偏在した。
河流のあたりは一面に草の生い茂る湿地帯である。
ウズラの名所だった深草の里もこの近くだ。
この地に営まれた貴族の別業は水景に臨んだ山荘であり、人々が足を延ばして観月や狩猟を楽しむ近郊の別天地だった。
・・・(途中略)・・・中世以後は、伏見宮家の荘園として長く相伝された。
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番外編:江戸時代の高瀬川工事について。慶長16年。
角倉了以と息子素庵による。
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この里の景色を一変させたのは豊臣秀吉の大土木工事である。文禄4年(1595)、伏見桃山城にともなう長大な堤(太閤堤)が築かれる前は、宇治川は巨椋池に流入していた。
・・・(途中略)・・・・
秀吉は、宇治川左岸に堤(宇治堤)を築いて川の流れと巨椋池を切り離した。宇治川は独立河川に変わり、さらに下流の淀との間にも堤(淀堤)を築いて伏見を整備した河港とし、大阪への舟運ルートを作りだした。
・・・(途中略)・・・・大阪と京都は伏見経由で最短距離で結ばれるに至った。」
(参考;野口武彦「鳥羽伏見の戦い」中公新書)
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御香宮神社に佐藤栄作元首相の碑があり、読んでいて辛いものがあった。
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何も、歴史を恨み、違ってほしいと言うのではなく、日本人同士の血が合戦で無残にも流れたことを嘆くのである。
しかし、伏見は酒蔵で有名であり、月桂冠・黄桜の醸造元を巡った。
また、現代人として冷静に寺田屋や御香宮神社まで見学したのあった。
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戊辰戦争は壮絶だった。
確かにあそこで日本は大きな転換がなかったら、あの近代国家ができていないで、日露戦争には準備が間に合わなかっただろう。
家族は、吉田松陰を幼い頃尊敬していたと言う。
私はどこかひっかかりがあり、勉強は不足しているが、今は少ずつ知ろうとしている。
水戸へ以前出かけて、吉田松陰の東北への遊説のことを知るようなことがあった。
こういう複雑な気分を持っている中で、寺田屋を見学する。
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