みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

金沢文庫二度目記

2008年03月20日 21時40分07秒 | 日記・エッセイ・コラム

2007年2月?                                                                                        Dsc02522_3

先日は、天気が良くて金沢文庫へ訪問したことのない友人を連れて訪れた。

わたしの著作権などないのに等しいのになぜ書くのか、それは先輩たちから受け継いできた日本を思う気持ちである。

密教が「古事記」を解き明かす聖教(佛教書)などが現在、陳列されている。

非常に古いぼろぼろの書に、「天照大御神は日輪の神で、豊受大神は月輪の神」であると記載されていました。
右翼がいるとしたら、わたしは右翼かも知れず、宝刀をめったに抜かない右翼でもある。日本国憲法を読めば、左翼であるかも知れぬとも思った。

仁王門の傍の大きな朽ちた「けやき」を眺め、称明寺の古くから残った、古を黙って見据えてきた木々であった。
称名寺には、朱塗りの橋が半分かかったままで、寺内には巨木はDsc00715_2 ない。
久々の訪問であった。

寺の中ほどに、誰も顧みないでひっそりとした「孔木」を眺める。ここと、足利学校、湯島聖堂にあるが、ここが一番古い。
有名な牧野富太郎博士が、見出した。
同姓の牧野伸顕伯爵を想起する。親戚ではないようだが、わからない。

226事件の決起で処罰された、少尉歩兵高橋太郎の部下への遺書を出雲の黄泉の国で拝見させていただいた。綺麗な字だった。部下に巻き込んですまないと言う内容だった。

皇道派が「名を汚してもよい、地位も富みも命も天皇陛下のため決起する」と述べていた。彼らには、彼らなりの言い分と正義があったのだが、一応手紙を拝見させていただいた。別に北一輝とか名は無く、だれそれのせいではなく、自分の独断と我が名も地位も汚しても天皇陛下のため国のため、命惜しまずと綴っていた。ちょっと困った。判断には困るが、言い分は聞く。
このあと、東条英機が登場する。
歴史の視点は難しい。

跡地へ行く時間が無く、資料館金沢文庫へ向かう途中に釈迦堂を一瞥して、日蓮宗と関係のあった地蔵や碑を横目にしながら、金堂で一応軽く合掌する。
弘法大師空海の像を拝見したかったが、残念ながら拝見できなかった。

称妙寺は真言律宗。奈良西大寺の叡尊が鎌倉の地を訪れた際、説法をし、感化された北条実時が審海に昔は小さな阿弥陀信仰の称妙寺の初代として有名になった。
新田義貞の挙兵、長尾影虎(上杉謙信の家臣)が責めてきたと解説書にあった。ここは甲斐の武田と縁があるのである。

武士と言うと、「江戸徳川」と連想する人が多いが、鎌倉からあるのを忘れている人が多い。「平家物語」を読めばわかる。
東国武士が全国へ散る。
すでに、武士道はあった。                                                           Dsc00697_5

称名寺は、数奇な運命を辿り、いろいろな時の権力者の下で、あまり省みられなくなる。宗派も違う派が流れ込んで来た。

西国巡礼を真似て、三十三の観音をひとつひとつ和歌を詠みながらぐるぐる巡る。
西国一番は那智山補陀洛山寺と拝見し、一際大きな観音が蓮の花を手にして「困ったわね、あなた」と首をかしげて手を頬につき、ご一緒に日本の混乱を微笑んで試案なさっていた。
「あなただけじゃなく、みんなそう思うと思うの」観音さまの群像がみんなで静かに佇んでいらっしゃる。
「恋」「庭」「仏」「祈り」という言葉が多く用いられていた。
昭和10年10月某日観音群と立て木がある。                          Dscf10962_3
「島村」家のお墓があった。
昭和10年「情」がまだあった時代であった。観音が子供を慈しんでいた。
これは、昭和の太平洋戦争中に軍の占拠により、一般市民は観音めぐりができなくなった。

赤い椿の木々が群生し、六角堂まで行く。
水仙の花が群生して、毅然としていた。
いかにも武家の元管轄であることを偲んだ。
海辺が、金沢八景の美しさを物語っている見晴らしの良さであった。
青空にとんび(鳥)が舞い、青い海も美しく眺められる。

称妙寺に浮かぶ姫と乳母の石が昔あったが、今はここにひとつしかないとガイドがそばで述べていたが、帰宅途中、熊野新宮に立ち寄り、姫君が整然と静かにお座りになっているのであった。よく拝見すると、姫石であった。

戸栗美術館の「明治の書」を数年前に拝見し、大勢の志を読み、自分の教師として命をかけた祖先に申し訳ないと思う。
先輩の教員に「金色夜叉のお宮を足蹴にする貫一の下駄姿が、革靴に描かれ直されている。君、しっかり最前線で頑張ってくれ」と伝言されたことを思い出した。

教壇に立ちながらも、その志を果たせなかった。生徒の心が今はもうどうだったかわからないし、学校経営からも離れていった自分の至らなさを思っては、釈迦堂と新宮と今回行かなかった実時の墓を振り返り振り返り、ゴーンゴーンという寺の閉門時間を知らす時刻を確認しながら去った。

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