読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

海音寺潮五郎の事

2008-09-16 09:19:59 | 読書

磯貝勝太郎と言う文芸評論家が海音寺潮五郎の人となりについて書いている。その内容は以前、司馬遼太郎が海音寺について書いている事と一致する。海音寺は歴史資料を読んでいる時が一番楽しい時で小説を書くのは非常な苦痛であると言う事である。小説は生活のために仕方なく書いているのだそうだ。出版社から職員が原稿が出来上がるのを隣の部屋で待っているときでも、それとは関係の無い歴史資料を読んでいて、そこへ夫人が入って来ると急いで小説を書く振りをするのだそうである。夫人はそれが解っていて面白かったと司馬に話したそうである。ついでながら海音寺は司馬が「梟の城」で直木賞を取ったときの審査委員である。

利休を見送ったのは

2008-09-14 09:55:13 | 読書

利休は太閤の怒りに触れ、京都から堺に放逐された。利休は秀吉の格別の寵愛を受けていたため、それまでは多くの大名が利休に取り入っていた。しかし利休が「殿下お憎しみの者ぞ。」と言われるようになると利休の周辺は閑散としたものとなった。利休の京都出発も従ってしかりだった。河舟での出発だったが見送る者も無かった。がこの別れを惜しんだ大名が二人居た。細川三斎(忠興)と古田織部だった。映画「利休」ではこの時、三国連太郎扮する利休を見送ったのは加藤剛扮する古田織部だけだったと記憶しているが、この時、細川忠興も居たのだった。利休はこの見送りを喜び、所持していた茶杓を細川忠興に、茶入れを織部に与えたそうである。この織部も家康に切腹させられている。

信玄は巳年だった

2008-09-12 18:04:11 | 歴史

猪飼敬所と言う人物が居た。頼山陽と交わりが有り史学の造詣は儒名と伴に京都学界で知られていた。あるとき、敬所は頼山陽のあの「鞭声粛々・・・」と言う詩を誉めた。「流星光底長蛇ヲ逸ス」と言う結句に感服したと言う。敬所の感じ入り、言うには「信玄が、大永元年、かのとみ年の生まれであるところまでを考えに入れ「長蛇」に譬えた機智の卓抜さは、貴殿なればこそです。」と言う事であった。山陽は意外だった。信玄が巳年生まれと言う事など山陽は知らなかったのである。「鞭声粛々夜過河」と句を起こし、「暁見千兵擁大牙」と承句したのに合わせ韻を踏んで蛇を使い、「流星光底逸長蛇」と結句にしたに過ぎず、押韻の都合だったのである。この誉め言葉を聞きながら山陽には「はからざるの誉れあり、思わざるのそしりあり」と言う孟子の語が頭を過ぎったそうである。

生類憐れみの令に反抗した一人

2008-09-12 11:21:45 | 歴史

海音寺潮五郎著「得意の人、失意の人」PHP文庫から
徳川五代将軍綱吉は生類憐れみの令と言う比類なき悪政で名を残した。子供が吹き矢で雀を殺したからとその親子を死罪にしたり、犬の喧嘩を仲裁しなかったと町人を遠島にしたり、吠え掛かり、喰いついて来る犬を家来に切らせた旗本の家を断絶にし、家来を死罪にしたなどと言う記録が残っている。そんな悪政が何十年も続いたがそれを諌める者も誰一人として居なかったと言う。が唯一、隠居していた水戸の光圀だけがその令に反抗した。彼は自分の所領で野犬狩りをし、その犬の皮を剥ぎ、その20枚ほどをなめして綱吉に送り付けたのだ。
「大変寒くなった。ついては上様もだいぶお年をとられてお寒いでしょうから、防寒の具にこれを献上します。」と口上を添えたそうである。これに綱吉はどんな反応をしたのか知りたいと思った。

「蝉のおべべ」

2008-09-11 13:21:15 | 新聞
ちびまる子ちゃんの友達が引越しして行く。名前は忘れたが蝉の抜け殻を引越しして行く子は誰かに記念に渡した。この子の名も忘れたが思い出した金子みすゞの詩が有る。
「蝉のおべべ」と言う詩だ。
母さま、
裏の木のかげに、
蝉のおべべが
ありました。
蝉も暑くて
脱いだのよ、
脱いで、忘れて
行つたのよ。
晩になつたら
さむかろに、
どこへ届けて
やりましよか。


      
                      
     

薩摩に残る古い発音の語

2008-09-10 11:03:05 | 歴史

海音寺潮五郎氏の話である。
薩摩には古い言葉や発音が残っていると言う事だ。薩摩以外の地では「クァ」と言う発音が出来ないと言う。例えば火事、菓子、会合をカジ、カシ、カイゴウと他の地では発音するが薩摩ではクァジ、クァシ、クァイゴウと今でも発音していると言う。またヂとジ、ズとヅも薩摩人ははっきりと区別するそうである。鍛冶はカヂであり、水はミヅで沈むはシヅムで尋ねるはタヅネる。紅葉はモミヂ、恥ずかしいはハヅカシイと発音され「我々、薩摩人はちゃんと聞き分けられる。」そうである。

七高僧

2008-09-09 10:27:17 | 宗教

浄土真宗に親鸞の「正信偈」と言う偈(詩)が有る。お経ではなく信仰についての想いを漢詩にしたもので浄土真宗で行われる法事や葬儀で詠まれる。親鸞の書物「教行信証」に含まれる偈である。この正信偈は言わば賛美歌で七人の高僧の言葉を引用し、煩悩のあるままで救われる事を謳ったものである。七人の高僧とはインドの龍樹、天親、中国の曇鸞、道綽、善導、日本の源信、源空(法然)を言うが、「正信偈」の書かれた「教行信証」と言う書物は親鸞の死後(百年後と聞いている)発見され、その後研究されるようになったもので、この正信偈が葬儀や法事で詠まれる事など親鸞は預かり知らない事である。

政治の過剰

2008-09-07 09:58:51 | 歴史
政治の過剰とは兵器で国民の命を脅かす政治や思想の表現法を言うらしい。この政治の過剰は世界史の上でむしろ近現代に集中して現れる。ナチズム、スターリン主義、毛沢東主義である。この過剰はカンボジアにまで輸出されポル・ポトが実行した。彼は、「我々は毛沢東主義をモデルとした独自の共産党である。」と宣言し、毛語録に有る「農村は都市を包囲せよ」を実行し首都プノンペンを制圧、二百万人の市民すべてを首都から追い払い百万人を殺戮した。通貨を廃止し銀行も閉鎖させた。毛沢東は「革命は銃口から生まれる」と言ったらしくポル・ポトも兵器で全てを解決しようとした。全て中国から送られて来た武器を使った政治であった。今尚残るカンボジアの地雷は中国からのものである。その除去を国連がやっている。

幾度も消されそうになった童謡「たきび」の火

2008-09-06 13:37:53 | 読書

合田道人著「童謡の謎3」から
「かきねの かきねの まがりかど たきびだ たきびだ 落ち葉たき・・・」と歌われる小学校唱歌「たきび」の火が幾度か消されそうになった事があるそうだ。
この歌は巽聖歌の作詞で渡辺茂が曲をつけ、昭和16年(1941)に「ラジオ少国民」と言う放送テキスト12月号に掲載された。そして12月9日から三日間の予定でNHKラジオで放送が始まった。が翌日の10日急遽中止されてしまった。原因は8日のあの真珠湾攻撃だった。戦時番組の放送のため、放送予定の子供番組が中止され、しかも、たきびは敵機の目印になると言う理由で軍がこの「たきび」と言う歌まで放送を禁止してしまったのである。
しかし、戦後の昭和27年には教科書にこの歌が載るようになった。が今度は消防庁がクレームを付けて来た。理由は防火教育上、子供だけのたきびは好ましくないと言うのである。しかしこのたきびの歌は既に広く歌われるようになっており、消防庁はこの歌を教科書に載せる場合はその歌のそばにバケツを持った大人の挿絵を入れるように要求して来たのである。
こうしてこの「たきび」の火は何とか消火を免れたのである。

童謡「村祭」が歌えない

2008-09-05 09:09:34 | 読書

詳伝社 「童謡の謎3」合田道人著より
「村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日、どんどんひゃらら、どんひゃらら・・・」と言う童謡が有る。今の子供達は知らないかもしれない。学校でこの童謡を教えなくなったからだ。理由は昭和37年(1962)兵庫県で、そして昭和45年(1970)に香川県から町村合併により村が消えたのである。教科書は全国で使われるべきもので、例え二つだけの県であっても村が存在しなくなった以上、この童謡は時代のそぐわないと決定され、教科書から消されたと言うのである。信じられない話だ。