読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

将棋の駒が救った天童藩

2010-07-15 11:06:22 | 歴史
天童が将棋の町になった訳は財政赤字がモチベーションになったのだと言う。
江戸時代の武家は幕府、大名、旗本、御家人の全ての層が財政赤字で有った。
武士の『俸禄』は原則として変化は無く、抜擢や職位が上がらない限り、先祖代々の『俸禄』のままだった。が、太平の時代が続けば、生活水準は上がるもので、そうなると支出が増えるのは当然で、その分が赤字は増加することになる。
現在の天童は江戸時代は『出羽国村山郡天童村』で織田家が領主で
あった。
天保元年(1830年)、織田信美(おだ・のぶかず)が近隣の高畠(た
かばたけ)から天童に移った。彼は織田信長の直系の子孫である。
この当時の天童藩はわずか2万石だった。
天童藩も藩士へ支給する俸禄の削減、遅配、欠配が相次いだ。
この窮状を救うべく、知恵を絞った用人に吉田大八と野呂武太夫が居た。
彼らは近くの米沢藩から将棋駒作りの職人を招き、藩士たちにその技術を教えさせた
のである。
それを内職として、藩士の生活を助けようとしたのだ。反対の声もあったが
それに対し、吉田大八は「将棋は兵法、軍学の習得に役立つ。けっして
武士の体面を汚すものではない」と反論した。
この『内職』は明治維新後に大いに役立った。
廃藩置県で藩が消滅したため、多くの藩士は『俸禄』が無くなったのである。
それを補ったのが将棋の駒でした。
明治の終わりから大正にかけて、天童の将棋駒生産は増加し続けた。



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