伊藤俊介、後の伊藤博文は松下村塾の先輩、高杉晋作を「雷電の如く、風雨の如し」と評したそうである。両者の師、吉田松陰は安政の大獄で処刑されたが井伊直弼が暗殺された後、幕府はその大獄の誤りを認めた。朝廷も勅許をもってその大獄の際処刑された者達の名誉を回復した。そこで高杉は江戸に向かい松陰が葬られていた罪人墓地の回向院に有った松陰の墓からその遺骨を掘り出した。そして改葬するため郊外の若林村(現世田谷区若林)に向かった。途中に橋が有り、その橋は三つの部分に仕切られ中央を「お留橋」と言い、その部分は将軍以外は通れなかった。が晋作は師の棺桶を担いでいた者に橋の中央を通るよう命じた。そばに居た伊藤は仰天した。はたして橋の番人も飛び出てきて「控えよ、お留橋であるぞ。」と叫んだが晋作は馬に乗ったまま、勅命により吉田松陰先生の御遺骸を運んでおる。文句が有るか。」と一喝し、橋を渡ってしまったのだった。こうして松陰の仇を取り、幕府の権威を失墜させたのである。晋作は将軍家茂が京都に来たときもその家茂の行列に向かって「いよっ、征夷大将軍。」とやじり、またしても幕府の権威をコケにした話は有名である。晋作は明治維新の前年慶応三年(1867)結核で29歳の享年を下関で終えた。竜馬が暗殺された日の七ヶ月前であった。
伊藤俊介、後の伊藤博文は松下村塾の先輩、高杉晋作を「雷電の如く、風雨の如し」と評したそうである。両者の師、吉田松陰は安政の大獄で処刑されたが井伊直弼が暗殺された後、幕府はその大獄の誤りを認めた。朝廷も勅許をもってその大獄の際処刑された者達の名誉を回復した。そこで高杉は江戸に向かい松陰が葬られていた罪人墓地の回向院に有った松陰の墓からその遺骨を掘り出した。そして改葬するため郊外の若林村(現世田谷区若林)に向かった。途中に橋が有り、その橋は三つの部分に仕切られ中央を「お留橋」と言い、その部分は将軍以外は通れなかった。が晋作は師の棺桶を担いでいた者に橋の中央を通るよう命じた。そばに居た伊藤は仰天した。はたして橋の番人も飛び出てきて「控えよ、お留橋であるぞ。」と叫んだが晋作は馬に乗ったまま、勅命により吉田松陰先生の御遺骸を運んでおる。文句が有るか。」と一喝し、橋を渡ってしまったのだった。こうして松陰の仇を取り、幕府の権威を失墜させたのである。晋作は将軍家茂が京都に来たときもその家茂の行列に向かって「いよっ、征夷大将軍。」とやじり、またしても幕府の権威をコケにした話は有名である。晋作は明治維新の前年慶応三年(1867)結核で29歳の享年を下関で終えた。竜馬が暗殺された日の七ヶ月前であった。
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