読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

南三陸町の仮設住宅で暮らす母から息子を奪った人質事件

2013-01-25 09:11:45 | 事件
wsj日本版から

By KANA INAGAKI, DAISUKE WAKABAYASHI AND MIHO INADA



アルジェリアで発生したイスラム武装勢力による人質事件で亡くなった日揮の社員の伊藤文博さんは、その前の週、故郷の宮城県南三陸町に暮らす母親を訪ねる予定を立てていた。南三陸町は2011年の東日本大震災で大きな被害を受けた海沿いの町だ。



Kogo Yanagawa
アルジェリアの人質事件で亡くなった日揮の伊藤文博さん
 伊藤さんは日本文化で人生の1つの節目とされる年齢である60歳、還暦を迎えようとしていた。友人らは中学校の同窓会を準備していた。参加者は100人を超える予定だ。友人らによると、伊藤さんは同窓会への出席を楽しみにしていたという。帰省中は母親のフクコさんが住む仮設住宅に滞在する予定だったという。

 フクコさんはNHKの取材に応じ、伊藤さんが死亡する1週間前に「母ちゃん帰ってくるからね」と伊藤さんから最後の電話があったことを打ち明け、「なんであんないい子が殺されないといけないのか」とつらい胸の内を語った。

 イナメナスのガス関連施設で起きたイスラム武装勢力による人質事件に巻き込まれ、これまでに死亡が確認されたた外国人のなかで最も人数が多いのは日本人だ。菅義偉官房長官は23日夜、新たに2人の遺体を確認したと発表した。これまでに死亡が確認された7人と合わせ、日本人犠牲者の数は10人となった。

 日揮でアルジェリア・プロジェクトの部長を務めていた伊藤さんの遺体は、ほかの犠牲者の遺体とともに政府専用機で数日中に帰国する予定。日本政府と日揮は今のところ犠牲者の名前や殺害された状況などについては公表していないが、一部の犠牲者については家族や友人らが名前を確認している。伊藤さんの複数の友人によると、伊藤さんは結婚しており、子どもはいないという。伊藤さんの妻や母親に直接、連絡をとることはできなかった。

 アルジェリア政府は37人の外国人が4日間に及んだ人質事件で殺害されたと発表した。菅長官は23日、身元不明の遺体のなかに2人の邦人の遺体を見つけたと述べた。イナメナスで働く約790人の労働者のうち、外国人は136人だった。

 日本人犠牲者は全員、横浜市に本社を置く日揮の社員だ。同社はイナメナスのガス関連施設の設計・資材調達・建設を手がけている。

 日本は邦人が巻き込まれたテロ事件としては、ここ何年で最悪の結果となったこの事件に動揺している。1万5000人を超える人々が犠牲になり、津波で破壊された原子力発電所の近くに住んでいた住民らを含む数十万人が避難や仮設住宅での暮らしを余儀なくされている東日本大震災から2年もたっていない。

 日本は近年、単なる工業製品だけでなく、第二次世界大戦後の高度成長期に培われたインフラ技術を発展途上国や、時に政情不安定な地域へ輸出しているが、今回の人質事件はそれに伴う潜在的なリスクを浮き彫りにした。

 伊藤さんにとって、これはライフワークだった、と友人らは話す。伊藤さんは東京工業大学で化学工学の博士課程を修了した後、1978年に日揮に入社した。伊藤さんが東工大で講演した際に自身が書いた略歴によると、以前にもマレーシアやアルジェリアの天然ガス関連施設の建設現場へ派遣されていた。

 最後の7年間は毎年、伊藤さんは母校の一関工業高等専門学校を訪問し、講演を行っていた。2010年3月の設立40周年記念行事では「サハラ砂漠のプロジェクトで学んだこと」と題する講演を行った。

 講演の中で伊藤さんは、自分の任務は天然資源の乏しい日本が将来へ向けて安定的にエネルギーを確保する手助けをすることだと話した。大学講師で伊藤さんのクラスメートだった梁川甲午さんは、「(伊藤さんは)自分がやっていることに情熱を持っていたし、才能もあった。経験もあって自信をもっていた」と語った。

 日揮のエンジニアが1回の派遣で数カ月間、外国の現場で働くことはよくあることだ。日揮は収益の約80%を海外プロジェクトから得ている。アルジェリアのようなプロジェクトでは、ほとんど男性の日本人従業員が1年ないし2年の任務で、家族を日本に残したまま単身赴任することが多い。このような日本人従業員は4カ月ごとに2週間の帰省休暇が与えられる。

 アルジェリアでは日本人従業員はガス関連施設から約3キロ離れた、高い塀とアルジェリア軍の警備員に守られた居住区に一緒に住んでいる。ガス施設までバスで移動する時以外は、1人で居住区を離れることは許されていない。赴任の際、従業員らはトラブルに巻き込まれないよう、文化の違いや地元の安全リスクについて概説されたマニュアルを渡される。

 日揮によると、イナメナスの現場は通常、朝早くから操業する。朝6時前には従業員らが到着し、暗くなりすぎる前に施設を離れる。居住区の中では、風呂付きの小さな部屋がそれぞれに与えられていたという。食事は居住区内にあるカフェテリアで一緒にとる。メニューは従業員の多様な国籍に合わせ、定期的に変わる。居住区内にはサッカーやテニスを楽しめるレクリエーション施設もあるという。


 そういった暮らしは、もう1人の犠牲者で経験豊富なエンジニアだった渕田六郎さんにとってもなじみ深いものだった。渕田さんは日揮の下請け業者から派遣されていた。伊藤さん同様、渕田さんもキャリアのほとんどを海外で過ごし、ロシア、ベトナム、サウジアラビア、カタールの化学プラントやエネルギープラントで仕事をした。

 「燦々(さんさん)と降り注ぐ星空を目指し世界各地で仕事をしている。次はアフリカ大陸に位置するアルジェリアに行き砂漠で星空を眺める事に期待を込め!」と渕田さんはフェイスブックに書いている。

 伊藤さんもアルジェリアの自然の美しさに魅力を感じていた。日揮は40年以上前の1969年に製油所の建設を請け負ってからアルジェリアで業務を行ってきた。

 バードウォッチングの趣味が縁で伊藤さんと50年以上のつきあいのある三浦孝夫さんは、伊藤さんがお酒を飲みながらアルジェリアの鳥のことをよく話していたことを思い出す。三浦さんは以前、アルジェリアの砂漠の砂が入ったビンを伊藤さんからもらったという。


 三浦さんは、伊藤さんのことを寡黙かつ優秀で仕事熱心だったと話す。早朝の野鳥観察の会に伊藤さんは一睡もしないで現れたこともあるという。前の晩に徹夜で勉強をしていたためだ。

 三浦さんは「伊藤君はお母さんの自慢の息子だった。テレビで泣いている彼のお母さんを見ると、僕も涙を抑えることができなかった」と話す。

 南三陸町は2年前の津波で甚大な被害を受けた町のひとつで、614人が亡くなっている。12月末時点でまだ226人の行方がわかっていない。推定15メートルを超える高さの津波が町の多くの住宅や商店などをのみ込んだ。

 伊藤さんの年老いた母親はすべてを失った。息子を思い出せる物も残っていない。「鉛筆一本、箸一本ない。全部流された」とフクコさんはテレビで語った。


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