GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「痴漢の虚偽申告事件について」

2008年03月18日 | Weblog
「何故、そのような悪意に満ちた虚偽申告をしたのか?」



「…幼ない子供達には悪は悪でなく、善も又、善に見えない。

 悪との遭遇
 その過剰な刺激と摩擦に堪えていくために
 その悪を身につけていくしかないのか?

 巷には悪意に満ちた出来事が氾濫している。
 親は我が子にどう向き合えばいいのか?

  
 何のためにナビ付き携帯を持たせなくてはならないのか?
 親は子供にどう説明すればいいのか?

 悪意と善意の関係は
 どこか感情と理性の関係と似通っている。

 ソクラテスが「無知の知」を知らしめるものこそ
 「理性」であると喝破した。

 また彼は、人間が自由であるためには何よりも受動感情から脱して、
 理性ないし知性の支配を確立せねばならないとも説く…』 2007年11月12日 / Weblogより

人の車や家や壁へのイタズラ、弱者へのいじめ(脅して金品を要求する犯罪は別個)、
痴漢という人生や名誉に大きな影響を与える虚偽申告も
決して物理的な利益を得るものではない。


すべて自己の鬱憤を晴らし、精神的な満足感を得るためのものと思われる。

どうしてこんなに心のバランスが崩れた犯罪や悪戯が世間に横行するのか?


情報過多は、視聴率をより上げんが為の動画や虚偽ニュースの横行を黙認させ、
刺激的なアニメ・ムービー観賞を容易にし、真っ白で純真な幼き心を汚していく。

何度も日記で書いてきたが、この傾向は益々高まるように思える。
そこで大切なことは自己防衛力を強化していくしかない。
アルコールやタバコの行き過ぎを防止するのも<自己抑制力>しかない。


そして、その<自己抑制力>を高めるには教養を身に付けるという
曖昧でしかも、時間のかかる作業を根気よく続けることでしか補えない。


「道」と名が付くスポーツの奨励や、書道や華道もいいかも知れない。
とにかく師と仰ぐ人との出会いは、人生の出会いの中でとても大切なような気がする。
しかし、もっと容易に師と呼べる人に出会えるのが本や映画だ。
そのドラマの登場する人物との出会いが人生での疑似体験となっていく。

そして、心の中に理性と呼ばれるもう一人の自分を構築する。

これが人として生きるスタンスだと私は思っている。


そして、人生の最後の作業は、
50歳を過ぎて<二心ある心>(理性と感情)を一つにしていく作業、
それは<直感>を育てることとつながっていく。

どうか、家族や周囲の親しい人から自分の言葉でこのようなことを伝えていって欲しい。

心からこのことを願いたい、それが先人の役目だと思う