GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

「北極星を探せ!」

2012年01月31日 | Weblog
関東エリアの「人気の街(駅)」ランキング(「HOME'S」調べ)

1位「池袋」(東京都)
2位「川崎」(神奈川県)
3位「高円寺」(東京都)
4位「三軒茶屋」(東京都)
5位「荻窪」(東京都)
6位「恵比寿」(東京都)
7位「目黒」(東京都)
8位「葛西」(東京都)
9位「高田馬場」(東京都)
10位「大宮」(埼玉)

何だか、懐かしい駅名が並んでいたので、つい見入ってしまいました。
 1977年までの4年間私は、池袋から赤羽線でひと駅先の板橋で学生生活を送りました。高円寺も三軒茶屋も恵比寿も目黒も先輩たちや友人たちが借りていたアパートがあった場所です。数年前、首都高速の上から池袋付近を眺めましたが、記憶しているビルの街並みがかなりの変貌を見せているようでした。一位に選ばれた池袋は、30年以上前は決して人気のある街ではありませんでした。しかし、私は新宿駅、東京駅についで便利なターミナル駅だと見定めました。落っこちましたが、早稲田を受験していたので高田馬場駅の付近の周旋屋で紹介され、北区板橋の滝野川で新築中のアパートを選びました。六畳一間、ガス・水道付き、トイレ(共同)、風呂なしで家賃は16,000円でした。(4年生の時に17,000円にアップ) 
 高校時代から読んでいた『青春の門』は、五木寛之が1969年から週刊誌に書き始めた大河小説で、主人公の伊吹信介とヒロインの牧織江の思春期を描いた『筑豊編』は、今も私の心のバイブルの一つです。『青春の門』は早稲田大学の先輩である尾崎士郎の『人生劇場』に倣って五木氏が書き始めたと云われています。私の東京志向は、信介に共感して自分に重ねて合わせていたことが影響してかもしれません。

 

 大学ではフォークソング同好会に入部して早々に山梨県出身の山本君(今は宮崎県在住)とデュオグループを組みました。赤羽線で板橋の一つ先の十条駅を降りて十条銀座という商店街近くにクラブの部長のアパートがありました。部長のスタイルは細身で流行のロングヘアー、スソが広がった薄い色のブルージーンズがとても似合う人でした。ギターも歌も大変才能がある人で、私たちはすぐに心酔してしまい、部長の住む十条の部屋を一度訪ねることになりました。入ってみて驚きました。古くて汚くて散らかり放題でイメージが随分損なわれました。部屋の隅に少年マガジンが数冊重ねてあり、一番上の表紙に「男おいどん」のキャラクターが印刷されていました。そのマンガのキャラクターと部長が似てもないのに何故かとてもマッチングして、私たちのグループ名が急きょ<おいどん>に決定してしまいました。外食する金もなかったのでインスタントラーメンか何かでお腹を満たしたあと、部長は四畳半の片隅に追いやられていたギターを手に取りました。「俺がユージの作曲で一番好きなのは『かざぐるま』だな」と云って突然歌い始めた。

 
            
   私は小さな かざぐるま
   時おり過ぎる風に
   カラカラ 音をたてて
   泣くこともできないの

   私は可愛い かざぐるま
   気まぐれ風に まどわされ
   たえきれない 心で
   泣くこともできないの

   風を待つ 私に
   あなたは 振り向きもしない
   ほんの少しでいいの
   暖かい風がほしい

   私は淋しい かざぐるま
   いつもの静けさの中で
   次の風が 吹くのを
   じっと 待ってるの…

                          作詞:チー
                          作曲:ユージ

 私たちは凍り付いたように聞き入いりました。私たちが歌い込んできた「かざくるま」ではありませんでした。私が作った曲ではなく全く別の曲のように聞こえてきました。声の質は山本君とは違ってもっと陽水のように高くて艶があり、片思いの女性の哀しい心が沁みてくるような歌声と歌唱力でした。(これが才能なんだ)単純な私は改めて部長の才能に惚れ込みました。同時に私にはそんな才能がないことをつくづく知らされた瞬間でもありました。
 最近、他人のヒット曲を歌ってCD化する歌手がいますが、オリジナルの歌手以上の歌唱力がなければ、やってはいけない危険な行為と云えます。歌声と歌唱力はその人がもつ才能であり、オリジナリティです。だからアーティストと呼ばれるのです。

 山手線のJRの駅名を見ながら草原が輝くような季節を思い出しました。知識や経験が足りないために人は恐れを知らずに育ちます。同時に感性のままに生きようとします。だから輝くのでしょう。しかし、残念ながら感性(=本能)のままでは生きていけないことを学ばされます。

 心理学者の岸田秀氏は、生まれてすぐに本能によって立ち上がるような動物に対して本質的に、未熟児として生まれてくる「人間は本能の壊れた動物である」としました。そもそも本能とは何か。岸田氏は「動物がこの現実の世界に生きてゆくのに適合した行動形式」だとする。要するに、動物の場合は生殖や子育てなど全てが本能に従っている限り現実・自然に密着し、適合して生きていけるのである。本能=自然に適合した行動様式・形式と考えて良いだろう。さらに、岸田は本能を二つの要因で考える。一つは行動形式。一つはエネルギーである。二つ目の生命のエネルギー(欲求)は人間も含めて、生物全てが持っている。しかし、例えば、性欲=エネルギーは、動物の場合、種族保存と繋がる「行動形式」・本能の指示にしたがって欲求とその満足が矛盾しない。ところが、「行動形式」・本能が壊れた人間は満足を知らず大変な事になる。そもそも、「生殖の為の性交」がどれほどあるだろう。暴力他も全て同様である。「本能が壊れた」という場合、二つの要因のうちの「行動形式」即ち、エネルギー(欲求)の「発現する」自然の「水路」が壊れたと言っている訳で、「水」が枯れたと言っているのでない。しかし、生命のエネルギー(欲求)は生物に共通なので、あえて本能(=「行動形式」)が壊れたと言ってもかまわないと思う。要は、「欠陥生物」=未熟児として生まれた人間は、自然との間に「すきま」を宿命的・絶対的に抱える存在であり、その「すきま」を埋めるものこそ「文化」=言語なのであるとしました。(http://blog.livedoor.jp/haruhouse/archives/5512497.html)

 上記の記述をきっと多くの人が共感できると思います。私たち人間の本能は決して消滅したのではなく、「行動形式」によってその回路が複雑になったためにショートし、ストレスを抱え込み、暴力や犯罪まで犯してしまうと云っているのです。年を重ねるほど、その回路をもっと単純にする作業が大切になってくると私は思います。

「色心不二」感情と精神は二つに分かれていてはいけない、一つであることが自然だと仏教でも教えています。しかし、思春期を迎える頃から分かれていくのは誰もが経験する道です。その事をしっかりと意識しながら「行動形式」をより単純化していくスタンスを持たねばなりません。そうしなけれな情に棹を差しては流され、方向転換を余儀なくされ、ストレスを溜め込んでくのです。そして、岸田氏が語る「本能がこわれた動物」に成り果てるのです。

 東京での4年間は私にとって輝かしい季節でした。その4年間があったからこそ、今私はここにいるように思います。感性のままに音楽に浸り、恋をし、クラブという組織の一構成員になりました。そして、3年生の時、責任ある役職を任されたことが間違いなく今の礎になっているように思うのです。
 1977年から数えると35年が過ぎました。東京も大阪の繁華街も大きく変貌し、社会もまたOA化が進みコンピーターとネットが融合してグローバルな世界が広がりつつあります。岸田氏が語る「壊れた動物」と呼ばれる人々が今後もどんどん生まれてくるように思います。個が集団と接する時、個は複雑な対処を要求されます。この時回路がショートしてしまうのです。私の輝かしい季節は個だけではありませんでした。たった2名ですが、<おいどん>というグループを組んでいました。そして、クラブ組織でコンサートマスターという役職で集団にいたことが私にとって後々大きな財産になったように思います。集団の中でもオリジナルティを追求し、個を埋没させることなく、クラブのために全力で取り組んだからです。

 

 個と集団を同一線上に置くことができたスタンスが、その後を生き抜く信念になっていったように思います。個のために一生懸命になるのは本能(=感情)であり、当たり前の行為ですが、集団や組織にために誠意を尽くすのは、動物ではできないきわめて人間的行為、精神が司る高尚な行為です。この経験が私の礎となったのです。だからこそ、あの4年間が今も輝くような季節として私の心の中で光を放っているのです。それは北極星と同じ役目をしてくれています。大海原で迷ったときは船乗りのように北極星を捜せばいいのですから。 

        


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