GOODLUCK'S WORLD

<共感>を大切に、一人の男のスタンスをニュース・映画・本・音楽を通して綴っていきたい

<鶴亀算から日本を憂う>

2009年04月14日 | Weblog
鶴亀算は、中国の数学書『孫子算経』のキジとウサギの数を求める問題が、江戸時代おめでたい動物のツルとカメに置き換えられてこの名前になりました。

ツルとカメがあわせて6匹、足の数があわせて20本であるとき、ツルとカメは何匹(何羽)いるか。ただしツルの足は2本、カメの足は4本である。

(方程式を使うと)       (鶴亀算を使うと)
鶴をX、亀をYとすると    一般的な鶴亀算の解き方

X+Y=6             6匹とも鶴とすると
2X+4Y=20
                6×2 =12 …6 匹すべてを鶴とすると、足は12 本。
X=6-Y            20-12 =8 …足の数は合計で20 本だから、8 本少ない。
2(6-Y)+4Y=20       8 ÷2 =4 …亀を1 匹増やすと足の数が2本増えるから、
12-2Y+4Y=20       亀を4 匹増やせば、不足の8 本が解決!よって、
2Y=8             亀は4 匹。
Y=4
X+4=6 X=6-4 X=2      6-4 =2 …鶴と亀の合計が6匹で亀が4匹なので、
Ans, 鶴2匹、亀4匹       鶴は2 匹。



中学生になって方程式を学び、この鶴亀算がとても楽にこなせたことを覚えています。しかし、今考えれば鶴亀算の方がとても論理的で答えに行きつく経過に共感が持てます。もっとこの鶴亀算を指導するべきだと思います。化学の実験や物理の実験は、この作業の連続のような気がするからです。この場合はどうだろうか?こんな場合はどうだろうか?繰り返し、トライ&エンドエラーを繰り返してと答えを求めるていくことで様々な考え方を発想を産みだし、またすぐに答えが出ない分、辛抱心を育てていきます。これは人生の歩みにとってとても有益な気がしませんか?

やり方は行き当たりばったりではなく、まず数字の小さい鶴(足の数)で考えてから、数字の大きい亀の足の数の公倍数を捜していくのがベターだと問題をこなすと分かってきます。こうしたことが知恵と呼ばれるものです。鶴亀算の問題は「鶴でまとめて考える」が問題を解くスタンスとなります。これがコツと呼ばれるものです。

以前日記で、龍馬がどうして薩長連合を考えついたかを語りましたが、龍馬や勝海舟の師であった佐久間象山は数学の大家でもありました。二人はその授業の中できっと数学的発想を身に付けたのではないでしょうか。

1+1>1 薩摩+長州>幕府

数学が他の学問と最も違っている点は「客観的」というところです。
つまり誰が見ても1+1>1は納得できるということです。

鶴亀問題を方程式で解く場合、問題を読んで、2X(鶴)と4Y(亀)=全体の足数、X+Yが頭数ということだけを念頭において方程式を作り、あとY=頭数-Xを式に入れれば、残すは計算力です。鶴亀算を解くにはこの場合は、どうなるだろう?この場合はどうなるだろう?知恵を絞りようやく正解に辿り着きます。時間にして4倍以上を費やすでしょう。

方程式を用いることは子供達にとって安易でしかも時間短縮ができる方法です。私自身のことを思い出せばまるで万能薬のように使用したことを覚えています。この流れはどこかアメリカ流市場経済や合理主義と似ていませんか? 合理的で安易で便利なものに人は流れる、これをいち早く追求したのがアメリカ経済と云えます。限られた時間でより数多くの問題を、人よりも多く正解しなくては受験に合格しません。当然塾では最短で容易な方法を教えます。こうして鶴亀算のように様々な場合を考えてじっくりと時間をかけて正解を求めていく人より、最短で答えを導きだせる方法を知っている人が優秀とされてきました。そして一部の優秀な大学(東大)を卒業したキャリアと呼ばれる人が、同一宗派内で物事を考え決定していくのです。ここにはファシズム的危うさが潜んでいます。

不法に入国して10年以上もしっかりと法を守りそして誠実に働き、税金も納めていた家族がいます。不法入国が露見して両親には日本からの退去命令が出て、日本で生まれて中学生になった娘だけは残ってもいいという判断しかできない行政判断に、慚愧の堪えない想いです。

これもおかしな話です。日本の被爆者に対し、国(厚生労働省)が「原爆症」と認定すれば「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」に基づき、医療特別手当(毎月137,430円)が支給されます。 しかし政府は、被害と国の責任を狭く小さなものにとどめようと被爆者を限定しているため、被爆者手帳を持つ25万人余の被爆者のうち、原爆症認定はわずか1%(2,500名)にしか達していないのが現状です。

まだまだ政府の対応にはおかしなものがいくらでもあります。そのくせ天下りや財団法人の設立も国民の血税をなんと考えているのかと思わずにはいられません。どうして国民が納得できる政治や行政システムが構築できないでのでしょうか。どうしてもっと怒らないなでしょうか。

小沢氏の政治スタンスも旧自民党の金権政治そのもので、何のために自民党を離党して民主党を設立したのか、まったく無になってしまいました。何故、辞任しろと迫る信念ある政治家がもっと出てこないのか?それは多くの議員がその汚れた金を懐に入れているからです。国民の辞任を求める声も66%がせいぜいです。そこには「政治には金がかかる」という暗黙の了解、諦めさえ感じます。

人は利口になればなるほど合理的に考える傾向が高まります。つまり時間がかかり、とてもできないことは、すぐに諦めてしまうということです。しかし、人も政治は絶対に諦めてはいけないことです。何故なら我々の子供やその子孫が、将来の国民が、国が間違いなく被害を受けるからです。

管子はこう伝えています。「一年の計は、穀を樹うるに如くはなし。十年の計は、木を樹うるに如くはなし。百年の計は、人を樹うるに如くはなし。」

最後にこのもう一つ。

『戊辰戦争で敗れた長岡藩は実収にして6割を失って財政が窮乏し、藩士たちはその日の食にも苦慮する状態であった。長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈られることとなった。藩士たちは、これで生活が少しでも楽になると喜んだが、藩の大参事小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず、売却の上で学校設立の費用(学校設備の費用とも)とすることを決定する。藩士たちはこの通達に驚き反発して虎三郎のもとへと押しかけ抗議するが、それに対し虎三郎は、

「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」

と諭し、自らの政策を押しきった。』(ウィキペディアより)

虎三郎のような強い信念も持った政治家、教育を大切にする信念ある政治家の出現を心から願っています。