穀雨。二十四節気、春の太陽が、強さを増すこの頃の雨は、五穀の生長に、天の慈雨と言う意で、穀雨と呼ばれる。毎年、四月二十日頃である。然し、それにしても今年は、雨が好く降るものだ。梅雨時を思わせる雨粒に、庭仕事ができないと佇むばかり。
図書館は休みだし、返却本を読むしかない。洗濯物が乾かず、げんなりするが仕方ない。新聞を丁寧に読み、豆を挽いて淹れた珈琲を飲む。凌つく雨とはこうもか、と窓から外を見遣る。地の日 天の海も下巻に入る。作者の時代考察に、不勉強を恥じる。
勤務先で、地元の交流に際し、歴史がわかる資料がないか、と問われる。そりゃ、図書館に行けばあるだろうし、貸します。いえ、寄付しますよ。それにしても一夜漬けならぬ、他人任せでは話の糸口も見つからない気がする。高齢者への理解も、歴史ですよ。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。この天下人から、主だった人物が浮かぶ。様々な解釈での大河ドラマがあり、主役に依っては面白かった。織田信長のやった事は、狂気じみていたかもしれないが、国を豊にしたことは確かだろう。誰もし得なかった所以だ。
徳川の時代が、何百年も続いたのには、家康の忍耐と、国造りの設計をきちんと描いていたからだ。慌てず騒がず、時代の到来を堪えて待つ心構えができていた。時鳥、啼くまで待とう。という例えによく現われている。人は、殺し合いもするが、援けもする。
豊臣秀吉が家臣でなかったら、織田信長は天下人の夢を見なかったろう。とも思える。今は、戦国時代ではないが、科学の進歩に因って、原爆や、原発事故が起き、修復不可能な世界に陥っている。発展途上国への電化製品の廃棄が、汚染を広げている。
携帯電話や、パソコンが便利さを競い合う中で、不必要になれば捨て買い換える。それらの廃棄物は、扱いのわからない国に持ち込まれて、うず高く積み上げられる。様々な化学物質が、地球を汚染していく。便利さと豊かさと引き換えに、地球は再生不能。
毎年、この時点では実があるが、早番、ヒヨドリにやられる。1週間で実は消えた。野鳥もお腹が空くのだ。