枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

災害への対応

2018年09月27日 | Weblog

 災害と言うのは、人類が行ってきた悪事である。誰にって、地球に対しての行為でしょう。新聞の投書にもあったが、個人的にはここに何時も書いて来た。地表を覆い尽くし、核で汚し続ける。プルトニウムの保存と言うが、決して消え去ることのない物質なのだ。それも宇宙にばら撒くか地中に。

 地球は、言葉にこそしないが、人間なら身体中に病巣を創られたら、どんなに嘆き悲しむだろうか。その怒りの方法として、地震や津波に転じ、山を崩壊し地表を振う。災害が起きたら非難を、と言うが、何処に逃げたって無駄な行為だ。それよりも先ずは、快適な生活を止めることかも知れないな。

 地球に棲む命は、人間だけではないことに想い到ろう。映画や書籍は、現実とは異なる物語かもしれないが、事実無根でもない。生活の基本は、贅沢をすることではない筈だ。何でもかんでも手にしさえすれば、リッチな気分は味わえるが、暮らしの根本ではない筈だ。沖縄に基地は要らない、原発も。

 広島や長崎への原爆投下を、あれ程の悲惨さを、体験し経験してこなかった者等が、原発を推進し、核の保存を行う。戦争の惨さを語らないのも、今更言ってもとの想いもあろう。何故そこまでの気持ちを慮ることができないの?わたくしたちの祖先ですよ。その方達が居なかったら、命も存在しない。

 災害の研修があって参加したが、だからどうだって言うのよ。と正直思った。具体策は非難しましょう、備蓄はどうか、緊急時への対応は、とのことだけで、人間が遣ってきた、愚かな行為には及ばなかった。塵を出さない工夫、物を最後まで使い切る知恵、感謝と祈りの暮らしに、何故触れないのか。

 簡単で便利な事ばかりに依存していたら、緊急時への対応にも、咄嗟の判断も出来ない。幾ら訓練をしていても、天気の日中では違和感がある。雨の中での、加えてやかんであったら、逃げ道も分からないし、何よりも不安が拭えない。そういった人等を誘導して、安全な場所に等避難するのは至難の技。

 日頃から、旧暦を知っていることも、当たり前のこととして暮らすことも、咄嗟の判断に繋がろう。風の音に、雨の匂いに、季節の到来への関心が、命を助けることもある。水は高い所から低きに流れる。川の勢いは、小さな湧き水から、下り落ち本流へ海へと向かう。それらを阻む物があれば広がるよ。

 わたくしは大学には行ってもおらず、兄妹に比べられて出来は良くなかった。自然に向かい、語り、宇宙からの声に耳を澄ます。大切なこと、行うべきことを、学べることがうれしいもの。電気もなく、水道も使えなく、あるのは自分で考えて行動すること。朝が来れば明るく、地表を掘れば水が湧く。

 月を観る度に、その裏側には何があるのか?と考える。かぐや姫の都か、それとも兎達の棲み処。


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