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枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

当たり前と思える心で・・・

2010年10月04日 | Weblog
 若い頃の私なら、失敗を他人のせいにしたり、わからないことを話しかけられたりには、恥をかかされた。と思っていた嫌いがある。知らぬは末代の恥、とばかりに、学び続け、記憶することで、今日の私ができたのであろうか?いやいや、何事も謙虚な姿勢を保ち、奢らずで過ぎず、要らぬことを喋らず。私が守って来た事は、出来もしないことは言わない。時間が掛かっても、自分なりの努力をする。ということであった。

 人間は、自分だけの力や、地位がないにも拘らず、そういった人が、身近にいることを強調したがる。自慢するが、決して本人には、何等関係がなく、言ったばかりに、恥をかくことになる。本人には、何の地位もなく、財産もなく、資格もないことが多い。平等ではあるが、同じではない。ところが今日日の人間には、そういった謙虚な姿勢はなく、目立っていれば佳し。自分が中心なら納得する。

 然しながら、若い子なら認識不足と思えばいいが、これが還暦を迎えようかという年齢なら、唖然とするし、開いた口が塞がらない。でも、思いように限っては、哀しい、淋しがり屋なのかもしれない。私は、こういった虚実が混じったような、半分以上は嘘でできているような、いい加減さは苦手だ。私など、自慢ではないが、その殆どがない。つまり嘘ばかりだからだ。或いは、事実だけであろうか。形も、色も、何も無い。はっきりとした物にはなりたくない、というのが正解だが。

 私は、私であって、私以外ではないが、私に非ずだ。至極当たり前の、一体の人間に過ぎない。何事も全て、当たり前であって、生かされていると思える。Aさんの愛猫の調子が悪いので、手当てをする。逃げない。まるで私の手を、待っていたかのように、じっとしている。電気が入るまでには数分かかった。電機が入った途端に、飛び起きた。尻尾が動く。Aさんは、眼を瞠って、今、見えた!と叫ぶ。賺さず、いつもしていることを伝える。

 Aさんには、愛猫の前に、リンパ腺マッサージや、手あてをしていますが、感じてはいても見えない訳ですから、説明するのは難儀です。で、何度繰り返して話しても、数日経つと忘れます。更に、自分に都合のいい解釈になっています。でもこれは、人間は誰しも同じだと思いますが・・・。手あてをするには、枇杷葉茶や、花芽や種で、体の毒素を取り除いていなければ、電気は入っていきませんからね。

 子のソックスは、最近流行の兆しになる模様です。なんと言っても、絵柄が可愛い。隣の席のますだ君も、みほちゃんが履いていると、取り上げてしまいそうです。先生、みほちゃんは、違反の靴下を履いてきています~。って。みほちゃん、そこでわたしは、がんこちゃんすきなんだからいいの。って言わないかな。
コメント
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