「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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沖縄で愛される中浜万次郎 その4

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信

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              出典:土佐清水市 ジョン万次郎の生涯より



 


沖縄で愛される中浜万次郎 その4

 


 


なぜ万次郎は琉球に上陸したのか


万次郎が琉球に上陸したのは、たまたま乗船した商船が近くを通ったからなのか。そうではない。


当時、徳川幕府の鎖国政策の中で、漂流であっても国外への渡航はご法度であり、帰国すれば打ち首にされかねない。万次郎も打ち首を恐れていた。だから、どのようにすれば無事に帰国できるのかはよくよく検討しなければならない事柄であった。


万次郎は、前から帰国するなら琉球に上陸するのがよいと考えていた。


「鎖国している日本へはいるには琉球諸島がいちばん都合がよいので、便船を得て琉球の近くまで航海して、そこで本船を離れてボートで島の一つに上陸しようともくろんでいた」(中浜明氏著、前掲書)のである。


村田典枝氏(沖縄キリスト教学院大学准教授)は、論文「ジョン万次郎とその生涯」で次のように指摘している。「万次郎は外国人たちから日本の鎖国政策についてかなり情報を得ていた。そこで、直接日本本土に上陸するよりも琉球に上陸した方が、安全で、成功率も高いと判断していた」。


なぜ、日本本土ではなく、沖縄が一番都合よいのか、成功率が高いのだろうか。いくつかの理由が考えられる。


一つは、琉球の歴史的な特殊性である。琉球は、長く独立国であり、中国と冊封(さっぽう)関係にあった。冊封関係とは、琉球国王が中国皇帝の臣下になり、皇帝に朝貢し、皇帝から国王として任命を受けることである。


冊封体制は、一四世紀以来、五〇〇年近くも続いている。薩摩藩に一六〇九年侵略され支配されていたが、冊封体制に変わりはない。琉球王国は中国と日本の両国に属する関係にあった。


日本の幕藩体制に組み込まれているが、あくまで形式的には独立国であった。しかも、地理的には遠く離れた離島であり、中国に近い南島である。江戸幕府も異国のような扱いをしていた。


そこは本土の厳格な幕府の直接的な支配とは多少の違いがあるだろう。


また、万次郎が上陸した当時、薩摩藩は守旧派の島津斉興が退き、最も開明的な島津斉彬が藩主となっていた。


のちにふれるが、西洋の学問、技術、軍事などに強い関心をもっていた斉彬は、万次郎をじきじきに招き寄せ、詳しく西洋事情を聴取するほどであった。


琉球王府は、万次郎への対処について、薩摩藩にお伺いを立てて対処していたことはいうまでもない。万次郎の強運はこういうところにもあるかもしれない。


こういう島国としての歴史をもち、海洋国家である琉球にとって、船の遭難による漂流、漂着は絶えず発生する問題である。


それは、自国の船も何度も遭難して、中国や朝鮮、日本などに漂着し救助された。逆に、中国や朝鮮、日本その他の国々の船も遠い昔から、遭難しては琉球に漂着する。そういう場合、必ず漂流者を救助して丁重に保護し、しかも、相手の国にまで送り届けるのが慣例であった。


琉球王国の膨大な外交文書を収録した「歴代宝案」という古文書の中には、漂流者の取り扱いに関する文書が、とても多い。


外交の重要な一分野だった。外国からの漂流者を丁重に扱ってこそ、自国民の漂流者もまた助けてもらえる。東アジアの国々とそういう関係をきずいていた。それは海に生きる民、島国にとっては不可欠のルールでもある。その伝統は脈々と生きている。


江戸幕府は当時、鎖国政策をとっていたが、対外貿易の窓口として、長崎の対オランダ、対馬の対朝鮮、函館の対蝦夷、そして琉球の対中国との貿易は公認していた。


琉球は中国への朝貢の際、中国が必要とする物産を持ち込み、買ってもらう朝貢貿易で大きな利益を得てきた。中国から、国王の任命のために冊封使を乗せた御冠船(うかんしん)が那覇の港に来る時も、さまざまな中国物産を積んできて琉球王府が買い付けていた。


この中国貿易は薩摩支配下でも続くばかりか、中国貿易を薩摩の管理下に置き、そこから利益をあげようとしたのだ。


だから、日本は鎖国政策をとっていても、琉球では国家事業として対外貿易が堂々と営まれていた。琉球はそういう特殊な位置にあったのである。


万次郎がどこまで琉球についての事情を知っていたのかはわからないが、万次郎が琉球を上陸地点に選び、それを足がかりにして帰国しようとしたのは、なかなかの見識である。


万次郎が無事に故郷に帰ることができ、さらに江戸にまで招かれたことをみても、彼がたんに幸運だっただけでなく、的確な情報を得て、賢明な選択をしたことを証明している。


万次郎は、上陸以前にも一度、琉球の離島にいったん上陸したことがあった。一八四七年に、フランクリン号に乗り込み、捕鯨航海をした際、琉球諸島に属する島の沖合に錨を降ろして上陸したのである。


島民と出会ったが、相手の言葉がわからず、がっかりした。でも島で牛二頭をもらい、お返しに木綿を贈った。この島は、慶良間(けらま)諸島の渡嘉敷(とかしき)島だと長田亮一氏は書いている。


万次郎は、これより前にグァム島に寄港したさい、他の捕鯨船の船長から、日本の鎖国政策について、厳しい非難を受けた。


だから、「捕鯨船のために、日本の海岸に平和な補給地が欲しい、万次郎は早くからそうした意見だった」(中浜明氏著、前掲書)。それは、グァム滞在中に、万次郎を救出してくれたホイットフィールド船長宛てに出した手紙にも表れている。


「当地を出ましたら西北をさして、日本の琉球諸島に向かいます。そして無事上陸できたらと望んでいます。捕鯨船が補給を受けられるよう、港を開くようにさせたいと思ってもいます」と手紙で記している。


実際には、この思いはこの時には実現できなかった。でも万次郎が琉球に強い関心を持ち、開国への希望を持っていたことを示している。


HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に)  月刊誌「高知人からの転載




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