極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

オリーブの木の下でⅢ

2012年08月18日 | 時事書評

 

 

 
【オリーブの木の下でⅢ】

フランスーアイヨリはプロヴァンスの生命の糧。茄でたタラやエスカルゴ、卵、ビーツ、カリフ
ラワー、ジャガイモ、ニンジン、アーティチョーク、ヒヨコ豆などに添えて出されるオリーヴ油
のマヨネーズである。

材 料:卵黄1個分、酢 大さじ2、溶きがらし 大さじ1/2、塩 大さじ1/2、胡椒 少々、オ
    リヴ油 カップ1 1/2、マヨネーズ カップ1/2、にんにく 1/2~1片、パセリ 少々、
    レモン汁 少々
作り方:鮮度のよい卵黄1コ分、酢大さじ2 、溶きがらし・塩各大さじ1/2、胡椒少々をボウルに
    合わせ、サラダ油カップ1+1/2を少しずつ加えながら泡立て器で混ぜる。このマヨネーズ
    をカップ1/2、すりおろしたにんにく1/2~1かけ分、パセリのみじん切り・レモン汁各少
    々を合わせる。

 

実際にエクストラヴァージン・オリーヴ泊を買う際には、次の二冊が参考になる。

・アン・ドラモア著『おいしいオリーブオイル101』(日本ヴォーグ社、1999年)
・ジュディ・リッジウェイ著『世界のオリーブオイル百科』(寺沢恵美子訳、小学館、1999年)



オリーヴ泊の健康への効用については、

・ベルナール・ジャコト著『オリーヴの本』(小林淳夫訳、河出書房新社、1994年)

オリーヴ油関係の料理本は多数出ており、以下に主なものを挙げる。

・北村光世著『オリーブオイルのごちそう』(文化出版局、1996年)

・服部津貴子著『オリーブオイルとイタリア料理』(グラフ社、1997年)
・小暮剛著『オリーブオイルCOOKING』(雄鶏社、1997年)
・演崎龍一著『オリーブオイル』(世界文化社、1997年)
・川路妙著『オリーブ』(フレーベル館、1998年)
・ナヴィインターナショナル編著『パスタ&オリーブオイル』(ナツメ社、1999年)
・ダニエラ・オージック著『オリーヴオイルを使う本』(柴田書店、2000年) 




何故、オリーブの木はねじれるのか】

オリーヴの古木の樹齢は三千年というのがあるらしいことはこの本を読んでいて知る。そういえ
ば、オリーブの木は歳を経るほどに、幹が螺旋状にねじれるように育って行くが、何故、オリー
ヴだけ?極端にねじれるのか不思議に思う。高齢になれば多くの樹木の場合、木は節くれだった、
ねじれれる。要するに成長環境に木が反応し、成長条件によって生成された傷を癒すことで、環
境に適応しタフになっていくが、時には歪み異常な成長するのは、それこそ、吉本隆明流<生物
自然>ということ-火災、暴風、洪水に遭遇し遺伝子設計変更したのだと。それが、オリーヴの
螺旋状パターン- 遺伝子のような螺旋は、オリーヴを安定させ耐環境性を獲得するのだろう。
新芽が厳しい風で吹き飛ぶのを防ぐために幹に沿ってねじる。樹皮は風によって破損し、かさぶ
たを形成修復する。強風方向の樹皮や葉が反作用でより大きく成長しようとするのだと説明する。
時には、古い木の心材が出て腐っているものがあるが、これは、真菌の攻撃であい、若い木の力
よりも大きい損傷を受けることもある。しかし、損傷以上にかさぶた形成する場合もあるという。
極寒や灼熱環境で、オリーヴの樹木は屈曲、ねじれ対応し、水や栄養分の補給距離を縮小させる。
このようにして岩山のような堅牢や斑状の樹皮を形成するというのだ。待てよ?それじゃオリー
ヴの北進化も可能じゃないかと。これは新しい提案であり、これはオリーヴの遺伝子の利用技術
の提案でもある。

 

さて、第十五章「カリフォルニアのオリーヴ・ブーム」。

カリフォルニアのオリーヴ油ルネサンスが始まったのは1990年代初頭と遅い。

ブルース・コーンが毎年絨
毯を横切る際につける黒い油の染みに、妻の堪忍袋の緒が切れてから
間もなくのことだった。あの忌々しい林を何とかするか、切り倒すか、どっちかにしてちょうだ
い。コーンはカリフォルニア州ソノマ、グレンエレンの近くできわめて上質なワインを生産して
いた。「あの忌々しい林」とは、彼のブドウ園の名称「オリーヴ・ヒル」の由来となった林にほ
かならない。堂々たるピショリーヌ種オリーヴの古木は、とうに忘れられたソノマの植民者の手
で、十九世紀にフランスから持ちこまれたものだった。そこでコーンはきわめて上質なオリーヴ
油をつくってみようと決意した。決して突拍子もない計画ではなかった。フニペロ・セラ神父を
はじめとするフランシスコ会の宣教師たちが、メキシコからサンディエゴ・デ・アルカラ伝道所
にオリーヴの木を持ちこんだのは、1767年のことである。彼らはカトリシズムとともにオリーヴ
文化を、サンフランシスコのさらに先まで、西海岸一帯に移植した。今もサンタバーバラの伝道
所は美しいオリーヴの老樹に囲まれている。1803年、宣教師のラウセン神父は、カリフォルニア
のオリーヴ泊のすばらしさを報告している。1885年にはすでに、オリーヴ油はヴェントゥラの町
で商業的に生産されており、世界でも一流の水準にあった。スペインとイタリアから新たな品種
が導入され、質も昧も上がった。ところが二十世紀初頭、イタリア人が本国の安いオイルをアメ
リカ市場にあふれさせた。アメリカのオリーヴ生産者は、昧も何もない黒オリーヴの缶詰づくり
に活路を見出した。缶詰用オリーヴの大農園が、カリフォルニア州中部に広がるセントラルヴァ
レーに続々と出現した。しかしソノマとナパでは、カリフォルニアの入植時代にさかのぼる大木
がワイン用のブドウに植え替えられ、あるいはロサンジェルス近郊の駐車場を飾るために南へ送
られた。そして1980年代末、オリーヴ油の効用に目覚めるアメリカ人が増えると、カリフォルニ
アの人々は残っていた木に気づいた。ブルース・コーンの家系は地中海やオリーヴ油とは何の関
係もなかったが、彼は生まれながらにして魅力的な山師だった。生まれはシカゴで、靴のセール

スマンをしていたユダヤ系の父サム・コーンは、ロベルト・コナーティという名でオペラに出て、
イタリア語のアリアを歌ったこともある。ブルースは金がたまると、カリフォルニアのワイン貴
族の仲間入りをした。多くの人と同様、頭金とローン契約による出発だった。1992年のハロウィ
ーンの頃、ブルースと弟のマーティは収穫したオリーヴをトラックに積みこみ、南へ三時間の都
市モデストの採油所まで運んだ。B・R・コーンのエクストラヴァージン自体も悪くはなかった
が、それ以上に手彫りでエッチングを施した豪華なフレンチ・ボトルが何ともしゃれていた。一
年目にできた十二パック二百ケースは次の収穫までに完売した。ろくに手入れをしていない木の
オイル
それも敷地から離れた採油所で搾った素人のオリーヴ油でありながら、値段は半リットル
五十ドルで、ラ
ウデミオの倍もした。ナパに近い丘の上でラザフォード・ヒル・ワイナリーを営
むライラ・イェーガーは、
すでに1989年ブームからオリーヴを搾っていた。他のソノマとナパの
ワイン醸造所の一部も、販売用オリーヴ油の生
産に乗り出そうとしているか、検討しているところだっ
た。ブルースの成功を見て、残っていた懸念がぬぐい去られたとモート・ローゼンブラムと紹介する。

オリーヴ讃歌

私(モート・ローゼンブラム)はある朝、ハイウェイ19号線でソノマに住む姉ジェーンのとこ
ろに行く途中、偶然「オリーヴ・ヒル」を発見した。食文学作家M・F・K・フィッシヤーが愛
した小さな家を過ぎたあたりで、私はとっさにブレーキを踏んだ。オリーヴの大木が誉蒼と繁る
林が、道路から上品な邸宅の方へ広がっていた。どうやら招かれざる客を嫌う人々が住んでいる
ようだ。なに、かまうものか、記者は鼻をつっこむのが仕事だ。私道の突き当たりで、一般客用
の裏口にまわるよう指示された。裏口はテイスティング・ルームに通じていた。たまたまこの年
はコーンがオリーヴ泊生産を始めた年にあたっていた。エクストラヴァージンはきわめて上等で、
ぴりりとした昧が際立ち、口当たりも良く、色は透明なグリー・ンイエローだった。早い時期に
摘んだため、フランスのピショリーヌより刺激が強い。気に入った。それにしても1リットル百
ドルは高
すぎないか? コーンはそのほかにも、近隣の農場から買ったオリーヴで低価格のオイ
ルをつくって売っていたが、そちらはハーブでも潰けこんだ方がよさそうな、何の特徴もないブ
レンドオイルだった。同じように14.5インチの漁色の瓶に入っているが、ラベルは手彫りではな
く機械によるエッチングで瓶に彫り刻まれていた。来意を告げると、インターコムが作動し、ブ
ルースが裏の建物からのっそりと出てきた。ハンサムな顔立ちにがっしりした体格、全身に限り
ない自信をみなぎらせたブルースは、見るからに高利貸しから貸し倒れ金の取り立てが来そうな
タイプである。重たげに垂れたまぶたも、わんぱくデニスのような目の輝きは隠せず、あとであ
っと驚くような何かを企んでいるのではないかと思わせる。彼はオイルドという新たな役割をの
んきにおもしろがり、これまでの成果に満足しているように見えた。一年後に立ち寄ってみると、
コーンは納屋で1フィートもあるコヒバの葉巻をくゆらせながら、次の目標に思いをめぐらせて
いた。四輪駆動のホットロッドである。すでにパワーアップしたトヨタのエンジンを、改造した
ウィリスのジープのシャシーに押しこんだこともあった。オリーヴ油ベンチャーは、共同経営者
のグレッグ・ライシンガーの手でさらに発展していた。薄茶がかった金髪をうしろで編んだ、至
極感じのいいライシンガーは、経営の専門家で、オリーヴ業もたちまち独習した。ライシンガー
はカリフォルニア・オリーヴオイル協会の会長にも選ばれており、同協会の会員は1995年末まで
に175人に上る。実際に活動しているのは25人ほどで、多少なりともオリーヴ油を販売している
生産者は一握りである。この団体は、ラザフォード・ヒルのライラ・イェーガーの旗振りで、友
愛的なサークルとして誕生した。駆け出しのオリーヴ油生産者たちが、成功へ向けて情報を交換
し、品
質基準を定め、失敗を慰めあえる場所である。彼らは北イタリアや南フランスにも旅をし、
力を合わせてカリフォルニア産オイルの向上に取り組んでいる。「オリーヴ・ヒル」は、毎年6
月、全生産者が集うカリフォルニア・オリーヴ油祭りを主催するようになった。それ以外でも、
テイスティング目当ての熱心な愛好家が何千と集まってくる。コーン家のテイスティング・ルー
ムはじきに母屋全体を乗っ取ってしまうだろう。



「カリフォルニアは世界に通用する独自のオリーヴ油をつくるべきだとわれわれは考えている」
1995年の終わりに三度目の訪問をしたとき、ライシンガー
は言った。「イタリアそっくりのオイ
ルをつくるのが目標ではないはずだ」彼ほど人好きのしな
い人間の口から出たら、挑発ととられ
そうな台詞である。カリフォルニアのオリーヴ・ルネサン
スは、主としてぴりっとしたフラント
イオ種とレッチーノ種を輸入し、トスカーナの丘陵地帯の
ような辛口タイプのオイルをつくるこ
とで推し進められてきたからだ。「アメリカ人はオイルの
違いを見分けられるように、もっとオ
リーヴ納について学ぶ必要がある。この国の料理は、簡単
でエレガントで、体にいいものにした
方がいい。オリーヴ納はまさにうってつけだ
」ただ問題は、
ライシンガーも認めるように、どの
品種を使ってカリフォルニア・オイルをつくるべきか、まだ
答えが見つかっていないことだ。彼
はヨーロッパをまわって、フランス産の方が自分の好みに合
うことを知った。「もっと繊細で、
一口目のぴりっとくる刺激がない」そう言うと、ドラギニャ
ンの古い石造りの採納所でつくられ
たファブリス・ゴデのサン‥カシヤンの瓶を掲げた。ゴデはヌニェス・
デ・プラド兄弟を崇拝し、
同種のオイルをつくっている私の隣人である。ライシンガーはマダム・アリオーヌ
のオイルも好
きだというが、私と同じ印象をもったようだ。「見事な商売人だね。ラヴェンダー・オイルが儲
かるとなったら、きっと乗り換えるよ」狭い世界だ。コーンも同意見で、フランスから新たな苗
木を購入するつもりである。現在、「オリーヴ・ヒル」はフランスのピショリーヌー種に依存し
ている。ライラ・イェーガーは「野生オリーヴ園」のすぐそばの苗木園に、ブテイヤン種とアグ
ランドー種の苗木三百本を注文したところだ。近々、もとからある樹齢二百年のスペインの木々
の仲間入りをすることだろう。他の数か所のブドウ園もフランスの品種を導入しようとしている。

 

しかし業界の大物二人は、ゼロから出発し、それぞれイタリアの苗本数千本を輸入することから
始めた。彼らは今、オリーヴ油ブームの波に乗りたがっている小規模生産者に苗木を売る計画を
ひてている。大物のひとり、リジリー・エヴァーズは、サンフランシスコのノースピーチにある
インターネット・ソフトウェア会社を経営する起業家で、自転車のロックの発明者でもあり、つ
い最近ダヴェロという銘柄で最初のオリーヴ泊を生産した。イタリア産の若木三千本からとれた、
きわめてシャープで苦みのあるオイルである。「カリフォルニアがしなければならないことは、
最初に戻って品種の組み合わせを工夫することだ」ライシンガーは指摘する。「向こうには大市
場がある。しかし最大の問題は、つねに高品質のオイルを安定供給できるかどうかだ。東部の人
がカリフォルニアのオイルは良くないという噂を問いたら、こちらは長い間ダメージを被ること
になる。われわれは世界でも一流のオイルをつくらなければならない。非常に高い目標だが、当
然のことだ。一流になれないなら、わざわざやる価値はない」 カリフォルニアの生産者にとっ
て、これは容易なことではない。数世代にわたる過剰な潅漑と剪定不足のため、ほとんどの本は
水っぽい実をつける。コーンの三百本のピショリーヌから五パーセント以上の油がとれることは
まずない。カリフォルニアの主要五品種は、油用というよりむしろテーブルオリーヴ用である。



フランシスコ会の宣教師が最初に植えたのはミッション種だった。頑丈なメキシコ産で、もとも
とは征服者とともにスペインから新人陸にやってきた。カリフォルニアでは最初ミッション種が
優勢だったが、1875年、アンダルシア人がマンザニロ種を持ちこんだ。その十年後、スペインか
らの移民がセビラノ種を植えた。今もセビーリャ周辺でよく見られる大粒の品種で、ゴルダルと
もいう・同じ頃、イタリア人がアスコラーノ種をもたらした。その後、1905年には農家がチュニ
ジアのバルニ種を導入した。このほか少なくとも六十品種がカリフォルニア中に散らばっており、
レディング・ピショリーヌ種から、ギザのピラミッドの近くに生えるアギザ・シャミ種まで幅広
い。(同上『オリーヴ賛歌』)

 

ナショナルな、ラッショナルな煽りには、注意深く警戒しなければならない。そういうようにテ
レビ映像は忠告しているようだ。「易きに着かず」これが近代戦争史から学んだことだ。そんな
ことを考え、冗談半分警告半分で今日の巻頭図、CPGS(Conventional Prompt Global Strike:
通常兵器型即時全地球攻撃)構想のシンボルFalcon HTV-2(Hypersonic Technology Vehicle-2)
を掲載した。

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