徳丸無明のブログ

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中華思想で中国を論じるということ・後編

2016-05-10 21:09:03 | 雑文
(前編からの続き)

もう少し私見を述べる。
報道されている事実を見聞きする限り、確かに中国の言動は身勝手に感じる。小生とて、つい感情的になってしまいそうになる。
だが、これは「中国人は我儘で自分勝手」というのとは、少し違うと思う。中国という国の特徴を織り込んだ上で捉えなければならない問題ではないかと思うのだ。
中国の特徴。それは人口が世界一で、近年急速な経済発展により国力を高めている、というものだ。
単独でいるよりも、集団で行動している時のほうが気が大きくなり、単独ではやらないような大胆な振る舞いをしてしまう、という経験はないだろうか。いわゆる集団心理というやつだが、これと同じ作用が国のレベルでも生じ得ると思うのである。
中国が傍若無人な振る舞いをするのは、決して中国人が傲慢なわけでも、それが中国の国民性であるわけでもなく、中国が大国であるという社会的背景が中国人を傍若無人な行為に向かわせているのではないか。それが証拠に、「個人的に接してみると、中国人の一人一人はみんな良い人」という証言は、いくらでも存在する。
かつて石原慎太郎が東京都知事時代に、「中国人は民度が低い」などと呼ばわったことがあったが、これなどは論外である。他国民を公然と侮辱する輩が都の代表に選出されていたという事実は、「日本国民の民度の高さ」を証明することにはならない。
今の中国から感じる傲慢さは、かつてのアメリカ――世界のリーダーと謳われ、地上に敵なしであった頃のアメリカ――から感じられたそれと同種のものであろう。(なので、ここで言う「大国」とは、単に人口が多いというだけでなく、経済力や軍事力の高さも構成要件とする)
また、次のような見方もある。


ビザンチン帝国、またの名を東ローマ帝国。四世紀から一五世紀まで地中海沿いに存在した。長い国境線を有し、さまざまな異民族と境界を接し、しばしば領土を侵犯され、崩壊の危機にいつも怯える。そういう内陸型の巨大国家の宿命を長く引き受けた。その国のかたちがロシア帝国へ、ついでソ連へと、ギリシア正教の移入とともに受け継がれているのではないか。(中略)
「ビザンチン型」の帝国であるソ連は、ユーラシア大陸の内側に位置する大国として、とてつもない長さの地続きの国境線を有している。その気になれば、いつでもどこからでも侵入されてしまう。やられてしまう。地続きというのはそういうことだ。真の安心がない。いつも不安である。それが歴史の記憶としてロシア人にしみついている。
ならどうするか。常に先手を打ち続けるしかない。向こうが来る前にこっちから行く。それゆえに「ビザンチン型」の帝国、ソ連はいつも際限なく間断なく広がろうとする。国の本能である。相手のあるところを侵蝕するのだからリスクを伴う。が、歩みを止め、相手に猶予を与えては、逆に侵蝕される。だから歩みは止められない。日々やるかやられるか。ギリギリのところで勝負を続ける。(中略)「ビザンチン型」の世界に属する人間にはそのように生きる習性が備わっている。
(片山杜秀『見果てぬ日本――司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦』新潮社)


「とてつもない長さの地続きの国境線を有している」のは、中国も同様である。であれば、ここで指摘されているのと極めて近い精神性を、中国社会が胚胎している可能性は高い。その心的作用の極端な発露が、世界最大の建築物たる「万里の長城」なのではないだろうか。(ひとつ注意しておくが、引用文で主張されているのは、「ビザンチン型」なる精神性が、実体として存在する、ということではない。ソ連(ロシア)を見るときに、「ビザンチン型」というフィルターを通して眺めると、それまで見えなかったものに気付ける、ということである。それは、これまでとは違った面を提示するためのフレームワークであり、実体ではない。わが国における「大和魂」のようなものだ。「全ての日本人には大和魂が備わっている」とか、「大和魂は実在する」などと断ずることはできない)
やはり、国民性だとか、国民一人一人が何を考えているかとは無関係に、「大国であること」それ自体が言動を方向付けてしまう、という作用があるのだ。そういう、一人一人の意志ではどうにもならない面をも織り込んだ上で、国際問題は考えられねばならない。
ま、感情的にならず、ひとつ冷静に、ということですな。


オススメ関連本・鈴木秀明『中国の言い分――なぜそこまで強気になるのか?』廣済堂新書

中華思想で中国を論じるということ・前編

2016-05-09 20:50:06 | 雑文
中国は年々海洋進出の度合いを強めており、周辺諸国との対立を深めている。
南シナ海では西沙諸島と南沙諸島でそれぞれベトナム・フィリピンと、東シナ海では、主に尖閣諸島を巡って日本と衝突している。これらは、専ら中国側が、国連海洋法条約で制定されているところの排他的経済水域(EEZ)を侵犯することで生じており(国連海洋法条約には、中国も1996年に批准)、目下、解決の見通しが立たない国際問題となっている。
これら中国の、国際秩序を踏みにじる言動は、よく「中華思想」で説明される。
中華思想とは、中国が世界の中心であり、その中心から離れれば離れるほど野蛮な土地になっていく、という考え方である。世界の中心からは、天子(王者)の王化の光が放たれており、現在野蛮な異人種にも、いずれその徳が及べば、中華の秩序の中に取り込まれるとされる。この世界感において、確たる境域を定めることは、王化の拡大する可能性の否定を意味する。なので、中華思想のもとでは、国境は存在し得ない。
だから中国は、国際的に定められた海域を侵犯するのだ、と。
しかし、小生はこれを疑問に感じる。
元々中国に中華思想があった、というのは事実だろう(それを否定する意見もあるようだが)。だがそれは、現代においても機能しているのだろうか。21世紀の今日においてもなお、中国人はウェストファリア条約を知らず、国民国家、及び国境概念を理解できず、世界地図を見たこともないのだろうか。まさかだろう。
僻地に住む一部の少数民族であればそういうこともあるだろう。だが、いくら情報統制のなされている国とはいえ、その程度の国際的常識が行き渡っていないなどとは考えられない。
中国人であっても、国境概念、領地・領海・領空という国際的区分を常識として知っているはずだ。中華思想など、過去のものでしかない。
そして、中華思想で中国を論じるのは、誤りであるだけでなく、ひとつの危険性を孕んでいる。中国側に、傍若無人に振る舞うことの大義名分を与えてしまうおそれがあるのだ。
中国の立場に立って考えてみよう。
もし、周囲の国々が、中国の言動を中華思想に基づいて理解していたら、中国側はどう思うだろうか。
「周辺諸国は、我々を中華思想で捉えているらしい。そんな訳はない。いくらなんでも、世界に明確な国境線がないなんて、この時代にそんな考え方をする訳がない。中華思想など大昔のものだ。今の中国人で、そんな世界観を抱いている者などいない。でも、周辺諸国が、中国は中華思想に基づいて行動している、と認識しているのなら、そういうことにしておこう。あえてそれを訂正する必要はない。なぜなら、中華思想がまだ生きているのであれば、『中国は中華思想なんだから仕方ないよね』と思ってもらえるからだ。我々の強権的な振る舞いを、目こぼししてもらえる。中華思想は、我々にとって実に都合がいい。だから、実際はないんだけど“ある”ということにしておこう」
中国側(の、おもに上層部)が、このように考えたとしても不思議ではない。
これが、中国の言動を中華思想で捉えることの危険性である。それは、中国の傍若無人な振る舞いを容認することに繋がってしまうのだ。
なので小生は、中国を中華思想で捉えるのはやめたほうがいいと思う。中国の、国際秩序無視の振る舞いに、免罪符を与えてはいけない。常識的に考えれば、中国の言動に何らかの歯止めをかけねばならないのに、中華思想を持ち出すことで、むしろ後押ししてしまっているのだ。これはよくない。(嫌韓に次いで嫌中が多い現状にこのような意見を述べれば、彼等に格好の攻撃材料を与えてしまうことになるので、あまり強調するべきではないかもしれないが)

(後編に続く)


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