ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

Derrida による Foucault 批判—誇張と身振り

2017-06-09 20:40:11 | Essay
Derrida による Foucault 批判というのは、理性における狂気の可能性であり、理性の外部や排除という問題ではない。それは、構造やシステムにまで拡張可能な狂気である。

逆説的にも、これは神学的には摂理と呼ばる統治に近いのではないだろうか? 人間理性の狂気と神性の摂理が、統治性のもとで合致する。一人一人が決断を含めた狂気を担うことが、ある神的な救済の条件であるかのようだ。この狂気の決断とは、メタ修辞的である。〔Kierkegaard のアイロニー〕

Derrida の Descartes 解釈においては、まさに狂気において「我思う、故に我在り」なのだ。Derrida は、そのような理性と狂気の対話の点、歴史の諸形態の全体性からの逸脱を、「誇張的なものの切っ先」と表現する。このような誇張性が修辞的な問題により鈍らされているのが、昨今のディスクールだ。

つまり、このメタ修辞的な狂気の決断を、修辞的に還元し、深みにおいて反省や他者との対話を期待すること。これが、実のところ、理性のまどろみであり、魅惑的で欺瞞的でもある独善的安心の正体ではないだろうか?

こう考えるとどうだろう? エクリチュールにおけるステイルは、メタ修辞的な誇張法を身振りとして隠している。それは、決断しないでいることも含めた、行為性の水準も、消え去りとして表現している。


■後記:

この理性の境界としてのエクリチュールとステイルの問題は、後にシニフィアンの感覚〔方向〕=センスと肉(メルロー=ポンティ)のスタイル論としてより発展的に語られた。