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フーコー『言説の領界』を巡り——ラカンの中期ディスクール(論)の射程

2015-06-12 16:50:12 | 精神分析について
「すべての理論は灰色で、緑なのは生の黄金の樹だ」——ゲーテ『ファウスト』のメフィストフェレスの台詞

「道徳系譜学にとって青色より百倍も重要であるべき色がある。それは灰色である。つまりそれは、記録、実際に確認できること、本当に存在したもの、要するに、人間的道徳の過去について解読困難な象形文字で書かれた長いテクストなのだ!」——ニーチェ『道徳の系譜』の「はしがき」



「あたかも言説は、……セクシュアリティと政治がその最も恐るべき支配力のうちにいくつかを特権的なやり方で行使する場所の一つであるかのようなのです。」

フーコーが言うには、言説はただ単に欲望を表明する(あるいは隠す)ものであるばかりでなく、欲望の対象ともなり、ただ単に闘いや支配のシステムを物語るものであるばかりでなく、闘いの目的およひ手段でもあり、奪取が目指される権力でもある、と。


フーコーは「注釈」が、自分の仕事(「考古学」)とは真っ向から対立するものと述べている。真理やテクストといったものに、皆さん窃視症的なんじゃないか? 例えば、テクストに真理があると想定して読む作業は、欺瞞が潜んでいる。

テクストで読むべきものは、書かれていないもの、不在、穴以外はないでしょうに。それに、精神分析の解釈は真理に向けられているのでしょうか? 全然、違います。精神分析は、患者=主体に解釈や注釈の仮面を被せるのでしょうか? 全く問題外です。

テクストを説明すること、テクストを作者の名(ラカン!)の元に所持すること。恥ずかしくないのでしょうか? あるいは、その欲望とは何でしょうか? ご自身の難聴ぶりから、あなた方はテクスト作成術を通して、また別の虚構、真理、幻想を制作するでしょう。


《注釈は、ディスクールの偶然性を、“反復”と“同じもの”というかたちでの“同一性”の作用によって制限していました。これに対し、作者の原理は、その同じ偶然性を、“個人性”と“私”というかたちでの“同一性”の作者によって制限するのです。》

またフーコーは、制限の原理を discipline=ディシプリンとしても問題にしている。「諸々の科学的モデルに倣って自らを組織し、整合性と論証性を目標として、科学として受け取られ、制度化され、伝達され、ときには教育されることもあるような、諸言説の集合」(『知の考古学』)。

真理への意志の中で作用しているのは、ギリシア以来、欲望と権力以外の何ものでもないとフーコーは言う。

真理への意志は、認識にしか行き着かない。自己保存から来る制限により生まれたのでは?(観察者的なポジション、展望的な視座など)

フーコーは“言説の管理”を可能にする、複数のグループを例示している。

〈言説をめぐってはたらくあらゆる拘束力、すなわち、言説の力を制限する拘束力、言説の偶然的な出現を統御する拘束力、語る主体の選別を行う拘束力〉

《言説の管理は、言表の形式もしくは内容のみかかわり、語る主体にかかわることはないでしょう。ところが実のところ、教説〔ドクトリン〕をめぐる帰属関係は、言表と語る主体とを同時に問題にします。》

ディシプリン discipline とドクトリン doctrine の対比。


〈……三つの決断を下す必要があります。……それはすなわち、まず、我々の真理への意志を問いに付すこと、次に、言説に対してその出来事としての性格を返還すること、そして最後に、シニフィアンの至上権を取り除くことです。〉Foucault, L'ordre du discours



「憎しみの関係は性生活を〈手本〉とするものではないことは明らかである。これは自己保存と確保を求める自我の闘いに由来するものなのである。」Freud, 1915