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per l/a psicoanalisi

Il fantasma, un concetto fondamentale per la psicoanalisi?

2016-09-05 23:00:15 | 試訳
〔以下は、「幻想、精神分析についての基本的概念?」という論考からの抜粋である。番号は、文章の纏まりと区切りに応じて、引用者が示した。〕


1.

私たちを現実性 la realtà から逃れるままにされることからはなれて、幻想がその場面に現実性を与えることは、フロイトが、幻想的な局面の方が事実的な局面よりも記憶におけるトラウマ的価値がより多いことを識別した契機において、うまく特定した事柄である。
彼はその時、ある無意識的な力が人間に、経験と記憶に再び型を作ることを仕向けることを認識し、そこで原初的欲望 il desiderio primario の効果を認める。
諸幻想は、このアルカイックな欲望の効果とアクチュアルな諸欲望の原型 la matrice になる。
夢 i sogni、言い間違い i lapsus、失策行為 gli atti mancati の起源においてあるのは、知覚と記憶を変形するそれらである。それらは、マスターベーション的な諸活動を誘発し、白昼夢の中で自らを表現し、ついには偽装した〔マスクをかぶった〕方法で、主体の職業的、関係的、また情動的な諸選択によって自己実現しようと努力する。


2.

幻想は、S/◇a により与えられた公式である、シニフィアン的な構成 una composizione significante 以外ではなく、二つの特性を持つことを意味している。フレーズ una frase、斜線を引かれたものとしての主体 S/ を生じさせる発話 un enunciato と、他方は対象a の現前 la presenza d'un oggetto a である。

確かに、幻想の機能は、その現実化は禁止され、より根本的には不可能であるので、空想の生 le vie della rêverie についての淫な享楽についての探究を呈することにある。
その現実化は、ランガージュと同様の事実のために不可能であり(ランガージュは主体を、存在と思考のあいだで根本的に分割する)、このため、私はあなた方に、ラカンがなすデカルト的“コギト cogito”の解釈を参照させる。実際、存在の完全性の概念は、完全に現実化された享楽への主体のこの狙い mira である。
しかし、存在は(デカルトが信じていたこととは逆に)ランガージュが表す思考に反対するので、治療の手段(ランガージュ)は存在の(したがって享楽の)ある喪失を意味する。
主体はそれ故に、言葉の知 il sapere delle parole と彼が取り戻そうと空想する失われた享楽 un godimento perduto とのあいだで、根本的に分割されている。
そして、それらの局面の一つを介して、このような(ランガージュのせいで不可能であるよりも神話的な)享楽を現実化することを誘惑し、他方ではこの享楽の執行停止〔権限剥奪〕を考慮する、幻想の逆説的で矛盾したアスペクトがここにある。
これがトラウマ(主体が認めようとはしないで、ファルスに同一化することで避けようと試みるこの分割)である。
ファルスへのこの同一化は、幻想への堅固さ〔コンシステンス〕を与えるだけでなく、エディプス・コンプレックスの違った二つの状況(母の享楽と、父の機能を提出するこのような享楽の禁止)のあいだの、中間また中心的なポジションを占めるだろう。


3.

治療が中断されるのは、この点で頻繁である。なぜなら、その知で“武装され”、幻想に対する防衛でその諸症状からしばしば解放された主体は、その幻想を現実化できるだろうからであり、そして招き入れる歓喜の瞬間の向こう側のこのような現実化は、行為よりも、可能な行動について、婚姻、父性、母性、社会的成果の刻印を与えながら、時折ポジティヴな効果を持つからである。
しかし、幻想の構成に先行するこの段階で、主体はいまだ、それの原因になることについて完全に無知である。幻想の構成の時間が本質的であるのは、このためである。


4.

幻想の横断 traversata del fantasma(つかの間の時間なので横断)の用語を提出した時に、ラカンが主張したことは、その経過において、主体は彼の幻想は、現実的なもの il Reale の支えきれなさを前にしたあるスクリーン〔防御、保護、遮蔽〕でしかない事実の尺度を受け入れるだろうということである。その中で、主体がある単純な切れ目でしかないものに縮減され、対象がある無、ある対象の欠如に縮減される、脱存在 desêtre (de-essere) の時。
生に欠かせないこの克服(ある幻想の再構成の結果)は、Melman の公式によれば、主体に彼の幻想に関して再び分割されることを許すに違いなく、こうした幻想とその機能についてのある知のおかげで、主体にもはや遊び道具(盲目の犠牲者)にならないこと、そして、より代価の高い〔大きな犠牲を負う〕様式に与しないことも、大他者 l'Altro は存在しないので、大他者を存在させるためにもはや犠牲にならないことを許すだろうということである。


5. 〔残された幾つかの問題について〕

- まず初めに、幻想と無意識のあいだの諸関係。一つの知 un sapere が可能であるのは、確実に無意識の形成物からである。R. Chemama とJ.P. Hiltenbrand の叙述はそこからそれについて、より正確に語る。私の方からは、しかしながら幻想はその中で、治療のあいだに構成されることを要求する、(解釈に向けた主体ではない)一つの閉集合 un insieme chiuso を構成する尺度において、無意識の形成物とは違うことを提示しようと思う。
- 幻想と症状のあいだの関係の問題。それは単純ではない。しかしながら急いで、フロイトが注記したように、諸症状は幻想から派生すると言いましょう。苦しみによって、身体はある矛盾した享楽 un godimento contraddittorio へ統一性を与えることを試みる。苦しむことは人間に、固有の存在と、同時に彼の無実の試練をもたらす。何故なら、苦しむ人はいつも、出来事を彼の運命のせいにすることができるからであり、したがって人間はこのように、彼の諸症状に愛着をもっている〔執着している〕からである。
- 他の問題は、幻想と構造のあいだの関係のそれである。それぞれの主体にとっての根本的構造として、そしてそれはラカンがマテーム S/◇a の文字によって強調したかったことであるかぎりで、幻想は普遍性の部分に住まうのだから、部分的には幻想と構造は同じ事であるでしょうと私は言いたい気にさせられる。このようなマテームに基づき、彼は私たちにヒステリー者の幻想と強迫症者の幻想の特殊な幾つかの公式を与えた。Patrick De Neuter はヒステリー者の幻想について、J.M. Rebeyrol は恐怖症のそれについて、そして G. Balbo は倒錯のそれについて話すでしょう。


Janine Marchioni-Eppe
Associazione lacaniana internazionale TORINO


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