気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その10 大代川側線から新金谷車両区へ

2024年03月16日 | ゆるキャン△

 大代川側線の南端あたりまで来ました。御覧のようにフェンスに絡まる草が分厚くなっていて、中に留置されている14系客車も上部しか見えませんでした。これは、草枯れの季節に来たほうが良かったかな、と思いました。

 ですが、14系客車は、大井川鐡道の保有する4輌全てが大代川側線に留置されていることが確認出来ました。

 

 長いこと風雨にさらされているためか、青色の塗装も白っぽく風化しつつありました。これからも当分使われることは無いのだろうな、と感じました。

 この種の客車は、大井川鐡道においては急行かわね路号などの蒸気機関車または電気機関車が牽引する列車にしか使えませんので、急行かわね路号の客車がまだオハ35形である現在においては、使い道が無いのかもしれません。新金谷駅の側線に留置されたままの12系とともに、少しずつ荒廃が進んでいる感じでした。

 

 大代川側線の南端は草藪に覆われて見えませんでしたが、留置車輛がまだあるようには見えず、地山のような地形がうっすらと見えましたので、南端に達したものと判断して引き返しました。上図はさきに見たお座敷客車ナロ80形の南面です。

 

 電気機関車の見える位置まで戻ってきました。改めて見て、E10形かな、と考えました。大井川鐡道は3輌を保有していて、1輌はさきに新金谷車両区の機関車庫に入っているのを見ました。あと1輌の所在は、今回は掴めませんでした。

 

 車体側面にE102の車番と大井川鐡道の社章が打ってありました。昭和24年(1949)製造のE10形の2号機でした。以前は新金谷駅などで見かけたのですが、この機関車も検査切れとなったようです。

 

 付近に積み重ねてあった、鉄板状の部品です。片面が赤錆に覆われ、もう片面は黒色の塗膜が残っていましたので、たぶんこれらも蒸気機関車の外板か何かのパーツだろうな、と考えました。

 

 もときた道を引き返して、今度は新金谷車両区の東の公園に行きました。御覧のように、金谷東公園とあります。

 

 金谷東公園の南に大代川側線の踏切があるのが見えたので、その踏切の前まで行ってみました。踏切の奥の駐車場は、大井川鐡道の職員専用であるようでしたので、踏切を渡るのは控えて、左右の線路を見ました。

 

 踏切の向こうの新金谷車両区の側線には、昔よく見かけた京阪電鉄の3000系テレビカーが廃車後のボロボロの姿で倉庫の代用となっているのが見えました。平成六年(1994)に京阪電鉄より譲渡され、3月20日に同鉄道へ入線し、平成二十六年(2014)まで運用され、その三年後に廃車となったモハ3008、クハ3507のうちの後者にあたります。

 私自身は、初めて大井川鐡道に乗った時にこの京阪3000系に乗ったことがあります。それ以前に京阪本線で何度か乗っていましたから、大井川鐡道で見た時には「なんでここに」と驚いた記憶があります。それからもう25年ぐらいが経ったでしょうか。

 

 京阪3000系の北には、上図のED500形電気機関車の1号機、「いぶき501」が停めてありました。ED500形は昭和三十一年(1956)に製造され、大井川鐡道には2輌がありましたが、「いぶき502」が他社に譲渡されて後に廃車となっています。

 この「いぶき501」は、このときは修理および検査中であったようで、後で聞いた話では令和六年度中に運行を再開するということでした。

 

 ED500形「いぶき501」の北には、上図の台車っぽいのが二つ並び、さらにシートに覆われた何かがありましたが、これらについては詳細が分かりませんでした。車輪が付いていないので、解体された台車枠だけが置いてある形でした。

 

 その北には上図の南海6000系が停まっていました。最も新しい譲渡車輛ですが、長い事留め置かれたままで、後で聞いた話では令和六年度中に営業運転に投入される見込みだということでした。

 おそらく、災害不通により千頭駅に留め置かれたまま朽ち果ててゆく南海21000系1編成と置き換えられるのだろう、と推測しています。もしくは、近々検査に入る東急7200系の代替となるのかもしれません。  (続く)

 

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豊家の余香13 豊国神社唐門にて

2024年03月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 豊国神社唐門の続きです。今回の見学コースのラストでしたので、わりと時間に余裕があってじっくりと建物を眺めることが出来ました。

 特にU氏は茨城県水戸市からはるばる来ていますから、こうした見学の機会はとにかく重要かつ貴重で有る筈です。なので、これまでもそうでしたが、U氏との京都巡礼散策においては、U氏の都合に合わせてスケジュールも余裕ある内容にしていました。だいたいは夕方に新幹線で帰るので、夕食時には水戸に着くように行程を決めています。

 

 なので、U氏のほうが、私よりもじっくりと、真剣に丹念に双眼鏡も使って建築の細部を観察しているのが常でした。

 

 細部を順に見ながら、双眼鏡を覗いた姿勢のままで、「やっぱりこの唐門、伏見城の門なんじゃないのかなあ、伏見城じゃないのならば、どこにあったんだろうなあ、京都新城しか思いつかんなあ」と呟いていました。私もだいたい同じ推測を持っているので、「だな」と応じるにとどまりました。

 

 この唐門の来歴は、前述した通り、いったん二条城に移築され、その後に金地院へと渡っています。つまりは徳川家の管理下に置かれていたことになります。

 徳川家康は、大坂夏の陣にて秀頼を自刃せしめて豊臣宗家を滅ぼした後、秀吉の墓所の豊国廟を破却し、秀吉の神号も廃止しました。そして豊国廟と方広寺の敷地を没収して、德川家が祇園綾小路から移転させた妙法院の管理下に置きました。そのため、豊国廟に残されていた秀吉の遺宝類は妙法院によって収奪されていますが、方広寺自体も妙法院の脇寺となったために、遺宝類の散逸だけは免れています。

 

 そしてこの唐門も、破却されずに二条城に移されたわけですが、要するに徳川家康も、秀吉ゆかりのこの唐門建築の価値と素晴らしさを認めていたからこそ、壊さずに管理下に置くことで、せめてもの罪滅ぼしとしたのでしょう。

 そもそも徳川政権の施政方針の基本的な部分は、かなり豊臣政権のそれを継承していますので、当時の人々がそれを知っている以上、何でもかんでも豊臣家関連の要素を壊して破却して廃止して消してしまうわけにもいかなかったわけです。
 おそらくは、前政権の良い所、良い遺産は僅かながらも残して後世に伝え、戦国乱世を完全に終焉せしめた豊臣家の功績だけはきちんと正しく評価して、ささやかながらも顕彰だけは怠らないでおこう、という徳川家康の内意があったのではないか、と個人的には推測しています。
 同時に、政治的には豊臣家を抹殺したが、文化的には抹殺せずにこうして立派な建築遺産を幾つも伝え残した点に、德川家康という人物の真価をみておくべきだろう、と思います。

 

 なので、唐門の正面の蟇股の下に豊臣家の五七桐紋が燦然と煌めいているままであることの、本質的な意味がよく分かります。織田信長が切り拓き、豊臣秀吉が整えて均したこの国の近世という新たな時代を、継承して着実なものに仕上げるのが徳川家康の幕府の基本原則であるわけですから、織田家も豊臣家も完全に否定するわけにはいかないわけです。

 

 だから、この唐門もその歴史的価値の重さ深さのままに、まっとうに評価されて残るべくして残され、大切に伝えられてきたのだ、と解釈しています。いま国宝に指定されていることの本質的な意味がそこにある、と理解しています。

 なにしろ、豊臣秀吉が居てくれたから、あの大航海時代の欧米列強のアジア植民地化の怒涛の荒波から、日本だけは逃れ得て独立国家としての誇りを保ち続けられたのです。
 あの時代の、スペイン、ポルトガルによる貿易やキリスト教布教の本意が、実は日本の征服および植民地化にあると見抜いたのが秀吉でしたから、彼らによる日本人奴隷の売買も禁止し、布教も禁止の方向に進んで貿易にも制限をかける成り行きになったわけです。朝鮮に出兵したのも、実はスペイン、ポルトガルによる侵略に対抗しての軍事作戦であっただろうという説が最近に出ていますが、それにも違和感はありません。

 そういう事柄を、同時期の政治家として徳川家康はよく理解していた筈です。だから日本人奴隷の売買禁止とキリスト教弾圧、南蛮貿易の制限という三つの基本的な対外政策はそのまま江戸幕府に受け継がれたのです。
 同時に、豊臣政権の文化的な遺産は残して伝えるべく、管理下に置いて保護したわけです。豊国神社唐門がいまに現存していることの背景に、そういった流れがあったことを、我々は忘れてはいけないな、と思います。

 以上の私見を簡単に述べたところ、U氏は大きく頷いたのみで何も言いませんでした。が、満足げな笑みをチラリと見せてきましたので、私もそれに合わせて微笑するのみでした。

 

 唐門を辞して、境内地の入口右側の上図の立派な社号標を見ました。これは明治期に豊国神社が再興された時に建てられたものですが、豊臣期の創建時にもそれなりの社号標が建てられていたものと思われます。

 

 最後に、上図の石積みを眺めつつ、バス停へ向かいました。かつての方広寺伽藍の外郭の石垣であったものがそのまま残されている部分で、大半は豊国神社の正面と南隣の京都国立博物館の敷地の外周になっています。

 

 ふとU氏が立ち止まり、上図の目立つ巨石が三つ並ぶあたりを眺めていました。それから小声で「ヨシ」と言い、大満足の表情をこちらに向けてきました。見るべきものは見た、考えて理解するべき事はみんな受け止めた、というような穏やかな顔でした。

「あとは御飯をどこかで食べようぜ。それから新幹線で帰るわ」
「そうか」
「今日は俺の案で高台寺を先に入れて貰ったんで、次は星野の本来のコース案でいこう」
「そうしよう」
「とりあえず、11月の第一土日で考えといてくれるか」
「承知」

 ということで、この日の豊臣家関連の社寺3ヶ所の巡礼を完了し、11月5、6日の後半コースに繋ぐ予定を決めて、京都駅ビルでの食事の後、握手して解散したのでした。  (了)  

 

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ゆるキャン△の聖地を行く38 その3  信州の土豪の館

2024年03月14日 | ゆるキャン△

 馬場家住宅見学の続きです。表門を入って右側にある、南向きの中門を見ました。

 

 中門の案内説明板です。格式のある造りから、身分の高い人のみが通れる門だろうと推測していましたが、やはり諏訪高島藩の藩主が訪れた時のみに開かれた、とありました。つまり高島藩の諏訪氏専用の門であったわけです。

 これによって、現地が江戸期には高島藩領に含まれていたことが分かりました。当時の馬場氏の「特別な家格」が具体的にどのようなものであったかは説明が無くて分かりませんでしたが、藩主専用の門を設けるぐらいですから、在地代官職とか庄屋クラスに近い家格だったのだろうと推測します。

 

 主屋の正面にあたる西側の造りです。右手に当主専用の玄関口、左手に使用人の通用口があります。江戸期までは人々の生活全般において身分の差というものがあり、それによる区分が厳然として存在しましたかから、建物の造りにもそれが反映されています。

 

 主屋の案内板です。

 

 主屋の内部をのぞいている最中に、管理事務所の位置表示を見つけましたので、それにしたがって主屋の北側に回りました。上図の長屋風の建物がありました。

 

 長屋風の建物の案内板です。もとは「ひきや部屋」つまり屋敷の建物や屋根のメンテナンスをする職人の住込み作業小屋であった建物です。それが現在は管理事務所となっていて、見学の手続きもそこで行っています。

 

 見学料を支払い、見学の栞と説明パンフをいただいて、主屋の見学順路を案内されました。まず外回りを見て北側から上図の東側に回って文庫蔵の外観を見て、その後に主屋の中へ入って下さい、ということでした。

 

 それで、主屋の東に隣接する上図の文庫蔵の前まで行きました。土蔵造りの書庫です。江戸期の豪農や豪商の屋敷には大抵このような家財や文書記録などを保管収蔵する蔵があり、米蔵や貯蔵用の蔵とは区別して「文庫蔵」や「付蔵」などと呼ばれます。

 

 文庫蔵の案内板です。

 

 文庫蔵の前から引き返して、主屋の内部に入りました。上図の北側の土間通用口が、見学用の出入口にあてられていました。

 

 土間通用口をくぐって土間に進み、左手(東側)を見たところです。「カッテ」と呼ばれた板間が見えました。漢字で書くと「勝手」ですから現在の台所にあたる空間です。中央に囲炉裏風のカマドがあり、奥に簡易流しが置かれています。

 

 同じ位置から今度は南側を見ました。手前の「ゴジョウ」と呼ばれる五畳敷きの控え室の奥に「ゲンカン」と呼ばれる十畳敷きの「玄関の間」、その奥に当主の空間である「ザシキ」つまり「座敷」が見えました。

 つまり、主屋内部は南側に当主や家族の空間が配置されていて、南に行くほど部屋の格式が高くなっています。庭園も南側に配されるため、中門から諏訪高島藩の藩主が入った時にストレートに「ザシキ」へと通されてもてなされるわけです。だから武家専用の中門が南側に設けられているのだ、と分かります。

 こういった、江戸期までの身分による空間の使い分けというのが、古民家を見て理解するうえでの重要なポイントになります。江戸期までの民家建築は、当主の身分に応じてだいたいの空間配分や部屋の配置が決まっていたようなので、全国各地の古民家を見ていると、色々と共通項や似たような要素が見られることにも改めて気づかされます。  (続く)

 

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伯爵高校 Ⅳ号戦車G型(1号車)(樅の木と鉄の羽の魔女版) 作ります!! その2

2024年03月13日 | ガルパン模型制作記

 ステップ3では車体や足回りを組み立てます。私の製作では車輪類は塗装後に取り付けます。F5のカット指示は逆になっているので、カット指示があるダボはそのままにして、反対側のダボをカットします。
 なお、このF5に関しては、前述したように起動輪を劇中車に合わせて前期型に交換した場合、これも関連のパーツに交換するか、または修正することになるかと思います。

 ステップ4およびステップ5では背面部分を組み立てます。ガイドの指示通りに組みます。

 

 ステップ3で組み立てるパーツ群です。車輪類は塗装後に取り付けますので、ここではサスペンションだけを組み付けます。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ4に進みました。この工程は次のステップ5とまとめて行ないました。

 

 ドンドン組んでゆきます。

 

 組み上がりました。今回の作中車はあまりガルパン仕様を気にせずに作れますので、実際のⅣ号戦車G型前期型を作るような感じで気楽に作業を進めました。

 

 ステップ6、ステップ7では車体上部を組み立てます。ステップ6のパーツB9は誤記で、正しくはB7です。組み立てをまとめて行ないます。

 

 ステップ6で組み立てるパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ7へ進みました。

 

 組み上がりました。ドラゴンの旧キットはパーツ割が細かくなく、パーツ数もタミヤ並みなので扱いやすいです。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その9 電気機関車とお座敷客車

2024年03月12日 | ゆるキャン△

 大代川側線の留置車輛群の続きです。白い機関車整備庫の横を回って再び線路のほうに近づきました。上図の、C12形164号機と旧型客車に続いて補機のような感じで繋がっているE31形電気機関車を見ました。

 

 E31形電気機関車は、さきほど新金谷駅の車両区で2輌を見ましたので、これで大井川鐡道の保有する3輌を全て確認したことになります。

 

 ここに留置されているのは、これも要点検または要修理であるからでしょうか。いずれにしても車検切れであるのは間違いないようです。

 ここで疑問に思ったのは、このC12形164号機と旧型客車とE31形電気機関車の1編成をここまでどうやって移動したのか、という点でした。単純に考えれば、上図のE31形電気機関車が牽引してここまで来た、となりますが・・・。

 

  大代川側線は、E31形電気機関車の南で車庫内を通っています。それで車庫に沿って更に南下しました。車庫の横にも蒸気機関車の部品らしいのが置いてありました。上図のように、なにか雑に扱われている感じですが、トーマス号の砂溜めドームと煙突のようでした。

 

 車庫の南にも幾つかの車輛が留置されていました。この区画はフェンスで囲まれていましたので、おそらく長期にわたる留置車輛の置き場であるのでしょう。

 

 ぶどう色の電気機関車が1輌と・・・。

 

 その奥にぶどう色と青色の客車が並んでいました。青色の客車は車体側面が見えないので車番は分かりませんでしたが、ブルートレインを連想させる外観なので、14系だと気付きました。
 14系の実物を見るのは初めてでしたので、双眼鏡で色々見ましたが、上図のように車体前部しか見えなくて、全体の姿を見ることが出来ませんでした。

 

 14系は、 もとはJR北海道の「はまなす」用の車輛であったもので、2016年に大井川鐡道が4両(スハフ14 502・557、オハ14 511・535)を購入しました。翌2017年6月から運用される予定でしたが、イベント時に展示されただけで、2024年になってもまだ運用に入っていないそうです。
 私自身は、この14系の車輛もNゲージで買いました。スハフ14形、オハ14形を1輌ずつ「入線」済みです。

 続いて手前のぶどう色の客車を見ました。

 

 草藪に包まれているので車体の上部しか見えませんでしたが、草の隙間からなんとか車番を見つけました。上図では分かりにくいですが、ナロ80-1と読めました。

 

 するとこれが大井川鐡道の名物車輛として知られたお座敷客車のナロ80形ですか・・・、これも初めて見ました。

 

 写真で見た通り、二等車を示す青色の帯が窓下に引かれてあります。その青色も褪せた感じでしたので、長いこと留置されたままであるようです。

 

 「お座敷車」のプレートも見えました。その名の通り、車内は畳敷きであるそうです。一度乗ってみたいです。

 

 全体図はこんな感じでした。フェンス周囲に草藪が育っているので上半分が見える程度でした。

 

 その南に繋がっている同じ客車の車番は、ナロ80-2と読めました。

 

 つまり、大井川鐡道が保有するナロ80形の2輌が揃って留置されているのでした。こちらは草藪が薄かったので、車体の全容が大体分かりました。このお座敷客車が再び使用される日はくるのでしょうか。  (続く)

 

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豊家の余香12 豊国神社唐門

2024年03月11日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 方広寺の梵鐘と鐘楼の天井画を見学した後、南続きの豊国神社境内地に入りました。U氏が「ここは豊太閤殿下に敬意を表して正式に鳥居から参ろうぞ」と言うので、いったん上図の西向きの鳥居の前まで行ってから二人で並んで恭しく一礼し、ゆっくりと石段を登りつつ鳥居を見上げながらくぐりました。

 

 続いて参道の左手に鎮座する上図の豊臣秀吉坐像に一礼しました。 高さ約1.1メートルの清水焼の陶像で、西洋写実彫刻風のリアルな姿に表されています。

 太平洋戦争中に皇紀二千六百年記念事業の一環として制作されたものですが、阪神大震災の際に隣の石灯籠が倒れて台座に当たって粉々に砕け、像本体も一部破損したそうです。その後修復が行われ、台座はかつて豊国廟にあった旧灯籠のものを転用して2019年より現位置に置かれています。

 U氏が「これも京都の近代美術の優れた一作品だよな」と言いました。確かにその通りで、銅像が多い京都の近代彫刻の中ではかなり珍しい作品です。歴史的著名人の一人である豊臣秀吉を表現している点も珍しいです。京都市内にて明治期以降に作られた戦国武将の像としてはおそらく唯一かと思われます。似たような作品があると聞いたことが無いからです。

 しかも伝統的工芸品に指定されている京焼の清水焼ですから、名のある作家によって製作されたものと思われますが、戦時中の国威発揚のために造られたためか、作者の名前は明らかになっていないそうです。

 

 豊臣秀吉像の横の参道から、豊国神社の唐門を望みました。今回の豊臣家関連社寺の建築遺構めぐりのラストでした。ここでまた二人で恭しく一礼しました。

 U氏は茨城県の人ですから、常陸国佐竹氏びいきです。したがって典型的な関ヶ原合戦西軍派でもあり、つまりは豊臣家びいきであるので、高台寺でも方広寺でも一礼していましたが、ここ豊国神社では最も丁寧にお辞儀していました。豊太閤をお祀りする神社であるからでしょう。

 

 案内説明板です。

 

 豊国神社唐門です。 元は南禅寺塔頭金地院にあったのを、明治期の豊国神社再建にあたって移築したものです。金地院に移される前は二条城の唐門であったといい、これを以心崇伝が寛永四年(1627)に江戸幕府から譲り受けたものであり、その前は伏見城にあったとも伝わります。

 つまり、最初は伏見城の門であった、と伝わりますが、真偽のほどは不明です。ただ、これだけの典型的な桃山期の豪華な唐門を江戸期になってから建てられるとも思えませんので、伝承はむしろ本物かもしれません。

 

 周知のように、京都においては西本願寺、豊国神社、大徳寺の唐門が国宝に指定されており、これらは国宝三唐門と呼ばれています。国宝であることが共通なのではなく、豊臣期の豪華な唐門建築である点で共通していてその歴史的価値の高さから国宝に指定されている、という意味での「国宝三唐門」の呼称です。

 上図の破風内の「目無し鶴」と呼ばれる鶴の彫刻や欄間の竹笹の意匠などは、江戸期の東照宮陽明門の動植物彫刻に比べると大きくて立体感に富み、欄間のフレームから意図的にはみ出すようにして彫られています。形式にうるさい江戸期の意匠では、ああいうふうに飛び出す表現がタブーなので、やっぱり桃山期の大らかで雄大な気分というものは違うな、と感心します。

 

 上図の門扉の豪華さも見応えがあります。さきの「国宝三唐門」つまり西本願寺、豊国神社、大徳寺の唐門が豊臣期の豪華な唐門建築である点で共通していると述べましたが、最も立派なのがこの豊国神社唐門の装飾意匠です。

 西本願寺唐門はもと京都新城の門、大徳寺唐門はもと聚楽第の門、と推定されていますが、ここ豊国神社唐門が伝承通りに伏見城の門であったのならば、秀吉が最も費用をかけて贅沢に造ったのが伏見城だと語られている点とも一致します。大坂城よりも立派だったといわれる伏見城ですから、その門がどれだけ立派だったのかは、この豊国神社唐門を見れば一目瞭然、ということになるでしょうか。

 

 左右の門扉の下部には「鯉の滝登り」の彫刻があります。上図は向かって右側の門扉で、前の画像が左側の門扉になります。この「鯉の滝登り」の彫刻は中国の「登竜門」の故事を表して「立身出世」を意味しています。
 
 なので、この唐門をくぐると出世出来るとされていますが、通常の拝観は唐門の前までで、それより中へは立ち入り禁止になっています。唐門を通れるのは、正月三が日のみだそうです。

 

 それで、上図の拝殿や奥の明治十三年(1880)建立の本殿は、唐門から望んで拝するのみでした。

 

 なので、豊国神社において間近に見学可能な古建築は、この唐門のみとなります。最も、豊臣期の建築遺構はこれが唯一ですから、伏見城の建物であったかどうかはともかく、豊臣期の代表的な門建築の一例として捉えておけば間違いないでしょう。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く38 その2  馬場家住宅

2024年03月10日 | ゆるキャン△

 高ボッチ高原の天候が回復するまでの二時間ほどを、西麓にある国重要文化財の馬場家住宅を見学して過ごすことにしました。塩尻市の観光協会の方が「見応えありますよ」と言っていた通り、予想以上に立派な、いかにも土豪の館といったたたずまいの古民家でした。

 観光駐車場が屋敷地の背後、東側にあるので、西側の屋敷正面への見学路が北回りで付けられています。屋敷の北辺にいまも残る土塁を見ながら、上図の北西隅にて南に折れ、立派な表門と両袖に長く続く塀を望みました。

 

 正面の西側を見ました。西を通る道は、いまは田畑の中の農道になっていますが、江戸期までは中山道に繋がる幹線路の一つであったと聞きます。付近には古代からの遺跡が分布しているといい、昔は集落もあったそうですが、現在は農地が広がっています。

 

 西に開く表門です。左右に長屋が付属する立派な構えです。門の棟の両端に鯱が取り付けられていて、まるで城郭の門のようです。

 

 表門から屋敷の主屋の玄関口が見えました。江戸期の地方の陣屋建築と陣屋門のような重厚なたたずまいですが、こうした現存例は全国でも稀だろうと思います。私も各地で色々な古民家を見ていますが、これほどの規模と迫力がある構えというのは滅多に見た記憶がありません。

 

 しばらく表門の下に立ち止まり、上図の額縁のような門口の景色を眺めました。

 

 見学案内板です。観覧券は管理事務所で、とありますが、その管理事務所が表門の内外には見当たりませんでした。主屋のほうにあるのだろうか、と考えて、とりあえず見学順路を探しました。

 

 表門を入って主屋の前庭に入りました。右側には上図の立派な門が見えました。格式のある造りなので、もしかして身分の高い人だけが通れる門なのか、と考えました。ここの当主は江戸期には在地の豪農だったらしいので、庄屋か名主を勤めていたのかな、と推測しました。

 その推測に立つ場合、この立派な門は当主より身分が上の人しか通れない筈、と考えます。該当するのは近在の大名家つまり松本藩の松平戸田氏、もしくは高島藩の諏訪氏ぐらいか、と考えました。

 

 表門の内側に設けられた馬場家住宅の案内図です。どうやら江戸期以来の建物がほぼ全て揃って残っているように思われました。なるほどこの保存度は歴史的に貴重で価値がある、国の重要文化財に指定されるわけだ、と納得しました。

 

 見学順路に沿って北側へ回ると、先に外から見た北辺土塁が竹林の下に白っぽく浮かび上がって見えました。綺麗に残っていて、土塁だという実感、説得力があります。

 

 こちらにも案内板がありました。説明文の下のほうに「堀があったのかどうかは、現在のところわかっていません。」とあるので、発掘調査は未実施のままだな、と気付きました。土塁のどこか一点を中心に内外へ5メートルぐらいトレンチを入れて掘ってみれば、堀の有無は確認出来る筈だからです。

 こうした中世戦国期の土豪の居館タイプが、ここのような平地に築かれた場合、土塁を築くと同時に、堀をほるのが一般的です。堀をほって生じた土で土塁を築くからです。土木工事の観点から言うと、土塁と堀は密接に関係してワンセットとみなされるのが普通です。

 なので、ここ馬場家住宅の土塁にも、昔は堀がともなっていた可能性が高い、と思います。上図の北辺土塁の外側の地面がやや窪んで見えるのは、堀の痕跡ではないのでしょうか。

 

 屋敷地の北にある小屋ふうの建物です。何の建物かな、と思って近づきました。

 

 案内説明板です。なるほど、厩か、「灰部屋」も兼ねていたのか・・・。

 

 内部は民具や農具類の保管展示室になっていました。

 

 表門の両側の長屋を見ていなかったことに気づいて、いったん表門のところに戻りました。両側に続く長屋のいずれも、戸口が開放されていて中に入れるようでした。

 

 案内説明板です。明治期には役場が置かれたのか・・・。長屋の片方に巡査が詰めて、もう片方には大工の一家が住んでいたのか・・・。

 

 その、大工の一家が住んでいた片側の長屋に入ってみました。土間から板間に続き、奥に畳の部屋があります。なかなか立派だな、と感心しました。

 

 現在は機織り機が置かれています。大工の一家の息吹を感じさせる大工道具類が全く見当たりませんでした。  (続く)

 

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伯爵高校 Ⅳ号戦車G型(1号車)(樅の木と鉄の羽の魔女版) 作ります!! その1

2024年03月09日 | ガルパン模型制作記

 数あるガルパンコミックのなかでも絵が美麗なことで知られる「樅の木と鉄の羽の魔女」です。既に連載を終了して単行本も上下の2巻で完結していますが、私のプラモデル製作のほうはまだ完結に至っていません。

 作中に登場する伯爵高校チームの7種類の車輌のうち、これまでに制作したのは35(t)戦車、38(t)戦車A型、38(t)戦車E型、Ⅲ号戦車N型、Ⅲ号突撃砲G型の5種類です。そして現時点でキットが手元に有って製作可能なのは、あと1種類でした。

 

 すなわち、上図の伯爵高校戦車道部部長にしてチーム隊長の毬奈・コンスタンティネスクの搭乗車でした。左上に1号隊長車、Ⅳ号戦車G型と明記されています。

 

 そのⅣ号戦車G型の作中車です。大洗女子学園あんこうチームの搭乗車H型仕様を思わせる完全なシュルツェン装備型で、相違点も数ヶ所しか見当たらないほぼ同型の車輌です。

 

 細かく探せば、幾つかの相違点が見られますが、目立つ箇所といえば、砲塔左右の発煙筒、主砲の同軸機銃のガード、前面の予備履帯ぐらいでしょうか。いずれも実際のG型に見られる要素ですが、厳密には1943年4月から5月にかけて生産された前期型の特徴を示しているようにみえます。

 

 ですが、色々と探してみたところ、G型の適応キットは色々とあるけれど、初期型や中期型や後期型が殆どで、作中車のような前期型の完全なシュルツェン装備タイプの適応キットは非常に少ない事が判明しました。私の知る限りでは、ドラゴンのスマートキットCH6594番、ボーダーモデルのBT001番、ズベズダのZV3674番の3点ぐらいで、しかもその3点が、私が探し回っていた時期には、模型店の店頭にも通販サイトにも見当たりませんでした。

 

 その代わり、上図の、ドラゴンの旧製品をグンゼ産業がOEMにて販売していた時期の品が、たまたま立ち寄った大阪のブックオフで1500円で売っているのを見つけました。このキットは厳密には後期型にあたりますが、完全なシュルツェン装備のタイプです。足りない部品は、手持ちのジャンクに大体ありましたから、これで作ろうと決めて購入しました。

 

 中身です。開封された品であったので、袋入りではありませんでしたが、使用された形跡も無く、全てのパーツが揃っていました。

 

 組み立てガイドです。これを見れば元製品がドラゴンの旧キットのシリーズであることが分かります。現行の製品群に比べれば精密さにやや欠けるかもしれませんが、タミヤやズベズダよりはまだマシなレベルに見えました。

 

 いかにもドラゴンの組み立てガイドですね。

 

 ステップ1では、車輪類と下部車体を組み立てます。ガイドの指示通りに進めます。ガルパンのⅣ号戦車にはつきものの、誘導輪のスポークの6本への改造も、今回は必要ありませんでした。作中車の誘導輪のスポークは史実通りの7本であるからです。

 

 手始めに車輪類を組み立てました。作中車の足回りは描写シーンが非常に少ないので分かりにくいですが、起動輪に関してはあんこうチームのD型と同じ前期型であることがコミック下巻124ページ3コマ目の描写から知られます。誘導輪のほうもF型以降のタイプであるのが下巻134ページ2コマ目の描写から分かります。

 したがって、作中車は外観上はだいたいG型の前期型に等しいことが分かります。いわゆるガルパン仕様とおぼしき独自の要素は見られないように思いました。

 今回の使用キットは後期型でしたので、起動輪も後期型の通常タイプになっています。製作当時、手元にはD型の起動輪のパーツが残念ながらありませんでしたので、仕方なく上図のようにキットのパーツをそのまま使用しました。
 誘導輪のほうは前期型も後期型も共通ですから問題はありませんでした。転輪のハブキャップも中期型で、キットのパーツと同じでしたのでそのまま使いました。

 

 仕上がりました。起動輪だけが作中車と違うのが残念でした。それで、起動輪だけは接着せずに取り付けて、完成後に前期型タイプの起動輪が入手出来次第、交換出来るようにしよう、と考えました。

 その場合は、履帯がベルト式であれば好都合ですが、今回のキットのパーツは連結式の組み立てタイプでした。なので、完成後に起動輪だけを外して交換する、という方法は履帯の解体も伴うので諦めざるを得ませんでした。なかなか思い通りにはゆかないものでした。

 残る方法は、今回のキットの組み立てと塗装作業が完了するまでに、なんとかして前期型タイプの起動輪を入手する事でした。模型サークルの次の定期会合日には、確かキットやパーツの譲渡交換会も予定されていたな、と思い出してひとまず様子を見ることにしました。

 

 下部車体と上部転輪の組み立てに進みました。こちらはストレート組みでした。

 

 組み上がりました。ドラゴンの旧キットシリーズは、現行シリーズほどにパーツの分割が細かくないので、組み立て作業が楽でした。ガルパン戦車をプラモデルで作って楽しむ時に、今回のようなドラゴンの旧キット等の、簡単に組めるキットを選ぶのもひとつの方法であるだろう、と思います。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その8 貨車と蒸気機関車と客車と

2024年03月08日 | ゆるキャン△

 大代川側線ヤード内外の蒸気機関車の部品群を大体見て回りましたので、線路に近づいて留置されている車輌を見ました。まずは上図のチキ300形貨車と呼ばれる25 tトン積二軸ボギー長物車を見ました。

 

 側面に「チキ303」の車番がペイントされています。もとは国鉄で運用されていたチキ300形貨車を譲り受けたもので、昭和37年(1962)と昭和38年(1963)に2両ずつ、計4両を譲り受けて、チキ301から304までの車番をあてたそうです。そのうちの303番車のみが昭和55年(1980)まで残って廃車となりましたが、以後も新金谷車両区に置かれて現在に至っています。

 

 現在、チキ303は、新金谷駅構外側線や大代川側線での資材運搬に使用されているそうです。さきに見た蒸気機関車の部品なども運んでいたりしているのでしょうか。

 

 現在も使用しているのならば、なんで廃車扱いにしているのだろうか、書類上は存在しないことになっているのに今も使用しているのはどういう事情によるのだろうか、と不思議に思ったりしました。

 それ以前に、これのNゲージの製品はあるのだろうか、と首を傾げました。Nゲージでも大井川鐡道の関連車輌を可能な限り集めている最中でしたが、このチキ300形貨車は模型店でも通販でも見当たりませんでした。
 ですが、新金谷駅プラザロコのNゲージ展示コーナーには、このチキ300形貨車のNゲージ品もあります。過去の絶版製品なのか、それとも自作スクラッチの品なのか、そのへんは問い合わせても分かりませんでした・・・。

 

 チキ300形貨車に続いて、上図の蒸気機関車を見ました。さきに大代川側線の踏切付近から見えた機関車です。赤いナンバープレートが印象的でした。初めて見る機関車かなと思っていましたが・・・。

 

 ナンバーを見るとC12形164号機でした。以前に新金谷車両区の転車台にて展示されていた車輌でした。

 

 その展示車がこちらに移動されているということは、いよいよこの機関車の動態復元作業が近づいてきたからかな、と予想しました。しかし、現時点で発表されているだけでもC11形227号機が検査修理中、最近にC56形135号機、C11形217号機が引き取られて修理中、と聞いていますから、とてもC12形164号機の作業にまで手が回りそうには思えませんでした。

 

 C12形164号機の後ろには旧型客車1輌とE31形電気機関車が続いていました。1編成のSL列車のように見えましたが、いずれも要検査、要修理の車輌ばかりであるのでしょう。

 

 旧型客車はオハ35形22でした。おお、かわね路号セットの客車の本物だ、と気付きました。既に購入したカトーのNゲージの「大井川鐵道SL「かわね路」号」セットには旧型客車が3輌入っており、その1号車がオハ35形22です。

 やっばり模型の実物を見るのは楽しいです。このオハ35形は、昭和14年(1939)から製造された戦前の客車のタイプで、大井川鐡道には昭和55年(1980)に譲渡されたそうです。もう80歳にはなっているでしょうか。各所に赤い錆止めの仮塗装がしてあるので、今後検査に入って修理を受けるものとみられます。

 

 側線の脇にはウニモグの装軌併用作業車も置かれていました。以前に新金谷車両区横の駐車場で見かけたことがあります。最近はこちらで資材輸送などに従事していたようです。

 

 保線用の予備レールも沢山置いてありました。長さからみて、これを運べるのは上図左奥に見えるチキ303しか無いだろうな、と考えたりしました。長い事置かれて雨ざらしになっているためか、すっかり赤錆に覆われていましたが、これでもれっきとした新品のレールなのでしょう。  (続く)

 

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豊家の余香11 方広寺の大仏殿跡と鐘楼

2024年03月07日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 高台寺を出て北回りに歩いて安井北門通から東山通へ出ました。南へ進みつつ、U氏が「どうする、歩くのか?」と聞いてきましたが、まもなく市バス206系統がやってくるのが見えましたので、指差して「あれに乗ろう」と応じ、近くの「東山安井」バス停で乗り込みました。

 乗ってからU氏が「少しは時間がとれるな」と満足そうに言い、窓から清水道界隈の大混雑と観光客の波を眺めていました。五条通を南へ渡ってすぐの「馬町」バス停で降り、バス停のすぐ南の路地を西へ進んで100メートルほど歩いて、上図の案内板の立つ公園に着きました。豊臣秀吉が創建した方広寺の大仏殿の跡です。

 

 案内板の方広寺伽藍推定復元図です。創建当初の広大な伽藍は全て地中に埋もれ、大仏殿が建っていた主要部はいまは豊国神社の境内地、南側は京都国立博物館の敷地となり、北側に方広寺が規模を縮小して境内地を維持しています。

 

 安土桃山期から江戸期にかけて活躍し、江戸期を通して幕府の京都大工頭を世襲した中井家に伝わる絵図によって、かつての方広寺大仏殿の姿が知られています。現在の奈良東大寺大仏殿はこの方広寺大仏殿を手本にして再建されたため、姿が良く似ています。この絵図の方広寺大仏殿は、現在の東大寺大仏殿よりも左右に広がった大きな建物であったことが分かります。

 

 その方広寺大仏殿の跡は、上図のように公園になっています。正式名称は「大仏殿跡緑地公園」といいます。公園の中央に土壇のように見える高まりがありますが、これは公園整備の際の単なる盛り土で、遺跡自体は平成12年の発掘調査で確認されたあと地中に埋め戻されています。

 

 我々が訪れた時には、公園内の芝刈り作業が行われていて、上図のように夏草が少しずつ刈り取られていました。奥には豊国神社の社殿群の背面が望まれました。ここ大仏殿跡は、豊国神社の背後に位置するからです。

 U氏が「ここに大仏殿が現存しとったらならば、京都観光の一番の目玉になっただろうな。奈良観光の一番の目玉が東大寺大仏だから、ここも同じように海外からの観光客で賑わっただろうな」としみじみと話しました。

 そうだな、と応じました。もし方広寺大仏殿が残っていれば、間違いなく京都最大の木造建築ですから、いまの清水寺界隈のものすごい大混雑が、こちらの方広寺エリアへも拡大してもっと凄まじいことになっていたかもしれません。

 

 案内板には、大仏殿跡の確認された遺構の図面と、主な遺構の説明がありました。U氏はこれもじっくり読んでいて、「これもまた豊臣家の夢の跡か、なにわのことも、夢のまた夢か・・・」と秀吉の辞世の句をもじった感慨をもらしていました。

 

 「大仏殿跡緑地公園」から細い路地道を西へ進み、上図の現在の方広寺の境内地に入りました。右奥が本堂ですが、非公開でしたので、左の大きな鐘楼へと向かいました。

 

 鐘楼内には、学校の教科書にも出てくる、有名な方広寺の梵鐘の実物が懸かっています。 慶長十九年(1614)に京都三条釜座の名越三昌により鋳造されたもので、高さが4.2メートル、重さは82.7トンを測ります。いわゆる「国家安康」の銘が撞座の左上にあり、国の重要文化財に指定されています。

 

 案内文です。いわゆる方広寺鐘銘事件の経緯も簡単に述べられますが、U氏は「これ、史実とはちょっと違うんだろ」と言いました。
 その通り、江戸幕府のブレーンを務めた金地院崇伝の日記「本光国師日記」によれば、問題の銘文に関して徳川家康は豊臣家側に責任は無く、梵鐘から「国家安康」の部分をすりつぶせば良い、との内意を持っていたことが明らかです。

 ですが、家康の内意とは別に、周囲が無謀に必要以上に騒ぎ立てて問題を複雑化させてしまい、その流れを家康も止められないまま、豊臣家との関係もこじれて大坂の陣に至ってしまった、という流れだろうと思われます。

 U氏が「いまでも、日本人ってのはさ、似たような輩がネット上でも狂い踊って無責任にあることないこと騒いで煽って、事態を悪い方向へ持っていっちゃうケースがあるわな」と言ったのは、まったくの正論でした。

 

 それよりも我々が今回注目したのは、上図の鐘楼の天井の「迦陵頻伽」絵図でした。前掲の案内文にもあるように、もと伏見城の奥御殿の化粧室の天井画であったものを、現在の鐘楼の再建に際して寄進してはめ込んだものであるといいます。それまでは方広寺に保管されていたようですが、本物であれば、よく残ったものだと思います。

 そういえば、現在の本堂も、京都府教育委員会の報告書によれば、豊臣秀頼が慶長十九年(1614)に方広寺の大仏殿を再建した際の関連堂宇として成立した可能性があるといい、つまりはこれも豊臣家ゆかりの建物であったのかもしれないとされています。
 そして隣接する豊国神社の唐門もまた伏見城からの移築遺構とされていますから、高台寺と同様にここ方広寺にも豊臣期の遺品が色々と伝わっていることが分かります。伏見城の奥御殿の化粧室の天井画ぐらい伝わっていてもおかしくはないだろう、と思います。

 いまの鐘楼の天井画としては立派過ぎる出来栄えの「迦陵頻伽」絵図ですが、それ以前に鐘楼の天井に「迦陵頻伽」を配するという事例が稀です。私自身が記憶している限りでも、全国各地の有名無名の寺院の鐘楼の天井に絵画が配されていたケースが全く思い浮かびませんので、ここ方広寺の天井画は特殊な遺品だと理解しています。絵の描線のタッチや曲線の抑揚が、江戸期の絵図よりも繊細で優美に見えますので、桃山期のものであることは間違いないでしょう。

 その場合は、ここ方広寺の創建当時の御堂の天井画が残った可能性が一番に考えられますが、伏見城からの移築の伝承があるというのは無下に否定出来ませんから、可能性としての問題にとどめておくのが良いでしょう。  (続く) 

 

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ゆるキャン△の聖地を行く38 その1  松本から崖ノ湯口へ

2024年03月06日 | ゆるキャン△

 2023年10月29日、長野県ゆるキャン聖地巡礼の三日目の朝は晴れでした。松本市エリアの山間部は午前中は雨または曇り、午後から晴れ、という予報でしたので、この日の巡礼スポットである高ボッチ高原へ向かうタイミングを、予定より遅らせようかと思案しました。

 上図の宿の「ホテルMマツモト」を予定通りの9時前に出ました。予約していたタイムズさんのレンタカーの利用時間が9時からだったからです。

 

 今回利用したタイムズさんの松本駅前店です。「ホテルMマツモト」の西隣のアルピコプラザ立体駐車場の1階にあり、歩いて1分もかからない至近距離にあります。手続きを5分程度で済ませ、9時10分ぐらいに出発しました。

 

 今回のレンタカーは上図のMAZDA3でした。最近のタイムズさんのコンパクトカーは、山梨でも静岡でもこのMAZDA3が配属されているようで、乗る機会が多くなりました。今回で三度目かな、と思いました。運転し易く、わりとパワーがある感じで山道でもスイスイ走れますから、高ボッチ高原へのドライブにはピッタリでした。

 

 高ボッチ高原へは、諏訪市から行くのが近いですが、令和3年8月豪雨災害により、諏訪市からの唯一のアクセスルートである市道高ボッチ線東山ルートで崩壊および土砂崩れが発生し、それ以降ずっと令和6年4月頃まで通行止め規制がかかっていました。その掲示情報はこちら

 この市道高ボッチ線東山ルートに関しては、2019年4月の巡礼時にその東山公民館横の入口まで行っています。劇中にも出ている案内看板などを撮ったりしていますが、その直前に事故があったとかで閉鎖されたため、登ることが出来ませんでした。当時の巡礼レポートはこちら

 それで、今回のアクセスルートは松本市から行く市道高ボッチ線崖の湯ルートが唯一でした。だから松本市に泊まってレンタカーも松本市で利用したわけですが、さらに重要だったのが、松本市駅前からのアクセスが、県道295号線および289号線を南下するだけの楽なルートである点でした。県道289号線の「崖ノ湯口」で高ボッチ高原への案内標識にしたがって曲がれば、そのまま市道高ボッチ線に進めます。市道高ボッチ線の入口までの移動所要時間は30分ぐらいです。

 そんなわけで、割とのんびりと松本盆地を南下して、南東東方向に次第に向かう感じで東の山々の裾を通って登って、上図の「崖ノ湯口」信号交差点を通り、市道高ボッチ線へ入る手前の路側スペースに車を停めました。空の分厚い雲がまだまだ灰色に広がっていたからでした。

 

 松本駅前のタイムズさんを出てから34分で、県道289号線の「崖ノ湯口」付近まで到達しましたが、御覧のように高ボッチ高原の山々はまだ分厚い雲に覆われたままでした。思わず溜息をついてしまいました。

 車を路側に停めて外に出て、どうしたものかと暫く思案していると 塩尻市の公用車らしきワゴン車が市道高ボッチ線から降りてくるのが見えました。
 何かピンとくるものがあったので、手を挙げて挨拶すると、するすると近くに停まってくれて、作業着姿の運転手がウインドーを下げて察したように「もしかして・・・、高ボッチ高原に行かれますか?」と訊ねてきました。塩尻市の観光協会の職員の方でした。高ボッチ高原の朝のパトロールから戻ってくる途中だ、ということでした。

「ええ、これから行く積りなのですが、上はまだ天気が悪いですか?」
「頂上の駐車場を回った時に小雨が降ってましたんでね。でも昼前から雲も切れて晴れてくると思いますよ」
「あっ、晴れますか。それは良かった。雨が続いてたらどうしようかと迷ってました」
「そうですか、いまはまだちょっと小雨ですからね、時間をずらして、そう、二時間ぐらいはね、ずらして行かれたら如何でしょう」
「それが良さそうですね・・・、それまで、どこか近くに観光地みたいな所があれば・・・」
「それなら、そこの馬場家住宅を見学されては如何ですか。もう開館してますから入れますよ」
「馬場家住宅・・・、信州地方の古民家建築のあれですか?」
「そうです。土豪の館という感じの立派な民家ですよ」

 それで場所を教えて貰ったところ、来た道を1キロほど戻った、県道289号線の西側でした。お礼を言って見送って、車に戻ってUターンして、道を引き返しました。まもなく「馬場家住宅」の標識が見えてきました。

 

 広い観光駐車場に車を停め、駐車場入り口の上図の案内板を見ました。土豪の館、と言われたので興味津々でしたが、国の重要文化財なのか、と驚くとともに、知的好奇心が一気に湧きあがってきました。こういう文化財、古民家建築には興味があるからです。

 時計を見ると9時42分でした。よし、ここを見学して、それからゆっくりと高ボッチ高原へ登って11時半ぐらいに頂上に着けば、二時間ほどはずらせる、その頃には晴れるだろう、と考えました。

 

 駐車場の横に歩道があったので降りてみました。その横の草薮の刈り取られた跡が一直線に見えて綺麗でしたが、次の瞬間に、ハッ、となりました。草薮の刈り込みの意味するもの、草薮の中に横たわるものに気付いたからです。

 

 これは、土塁じゃないか・・・!

 

 歩道に沿ってぐるりと角を回って見ました。馬場家住宅の裏玄関口らしき切れ目を経て、さらに上図のように土塁が続いて見えました。

 これは凄い、中世戦国期の土豪の居館の土塁の典型的な遺構じゃないか、形がハッキリと分かるほどによく残ってるなあ、と感動してしまいました。

 私自身は、第一専攻が藤原期仏教美術史ですが、第二専攻として十数年ほど中世戦国の城館も研究していた時期がありました。その頃は奈良県在住でしたから、対象を大和国の中世城郭や城館に絞り込んでその大部分を調査して回りましたが、これほどの綺麗な土塁に出会った機会は稀だったからです。

 

 早速、案内板を見つけました。国の重要文化財に指定されていますから、文化財保護法の規定により、こうした案内板は設置が義務づけられています。国民の共有歴史遺産として税金で維持保存する以上、国民に保存経過を還元し案内するのが決まりです。

 案内板の図によると、土塁は北辺と西辺の部分が残っているようです。南の表門の両側は土塀になっていて、東辺は草薮になっていますが、土塁の痕跡らしき高まりが残ります。当初は土塁がぐるりと巡っていたのでしょう。

 

 一帯は歴史公園として整備されているようで、西側には北西に鎮守の森があり、それ以外は広い芝生地が広がっていました。西の道を隔てて畑が広がり、遠くには信州の山並みが望まれました。

 

 同じ位置から南を見ました。駐車場からの遊歩道がここで南に折れて、いかにも時代劇に出てきそうな立派な土豪の館の大きな門の前へと続いていました。

 この、いかにも中世戦国期の面影をとどめるような、重厚な館の佇まいが、たまらなく素敵でした。これは凄いじゃないか、教えて貰ってラッキーだったな、とワクワクしながら門へと向かいました。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その7 蒸気機関車の部品類 下

2024年03月05日 | ゆるキャン△

 大代川側線のヤード内にレールと一緒に並べてあった、三つの運転席の部品を見ました。いずれも修理またはレストア中の機関車のそれのようでしたが、北側の上図の運転席は、機関車のナンバーが側面にチョーク書きされていました。

 

 御覧のように、C56-135と読めます。C56形135号機です。かつて兵庫県加東市の播磨中央公園に静態保存されていた機関車で、令和3年に大井川鐵道へ譲渡され、令和4年に搬入されて動態復元を目指してのクラウドファンディングが実施されています。

 動態復元へのレストア工事期間は令和5年1月から令和7年12月までの予定であるそうですが、私が訪れたのは令和5年11月ですから、既にレストア作業が進行しているようでした。だから運転席が外されて置かれていたわけです。

 

 C56形135号機の運転席の内部を見ました。内部の配管や小機器が付いたままになっています。子供の頃、父が蒸気機関車の製造法について簡単に教えてくれましたが、確か、おおまかには台車と動輪とボイラーと運転席と石炭庫と水タンクの6つの部品に分かれていて、これらを組み合わせたら機関車が出来上がる、という内容だったと思います。

 

 なので、上図の運転室内の様々な小部品も、運転席という一つのユニットの構築パーツとしてセットで組み付けられているのだろうな、と思いました。

 

 運転席の底部はありませんでした。車台が床面にあたるので、そこに運転席をかぶせてセットするわけです。

 大井川鐡道には現時点で千頭駅にC56形44号機がいて、これはジェームスに扮したままで静態保存状態になっています。現時点では公式サイトで「ただいま運行しておりません」とあって、未だに動態扱いになっていますので、今回C56形135号機を導入してレストアすることで、C56形44号機の後継機として営業運転させる計画がある、ということなのかもしれません。

 ちなみにC56形44号機は、大井川鐡道が保有する蒸気機関車のなかで唯一、Nゲージでの商品化がなされていません。その理由は、太平洋戦争中にタイ・ビルマ方面へ送られて戦時輸送に使われ、戦後はタイ国鉄に供与されてあちらの仕様になっていて、そのまま帰国して昭和54年に大井川鐡道に引き取られており、日本の通常のC56形とは各所で形状がことなるから、とされています。目立つのが運転席の屋根の形状、石炭庫のサイドの形状ですが、あとは日本の仕様に戻されていると聞きます。

 なので、C56形135号機が復活すれば、こちらは純然たる日本の仕様ですから、C11形190号機と同じように復活記念のNゲージ製品が発売されるものと予想しています。出たら、必ず買います。

 

 中央の運転席はトーマス用のものでした。C11形の運転席なので、おそらくC11形227号機の部品でしょう。

 

 南側の運転席もC11形の運転席でした。こちらはナンバーのチョーク書きが見当たりませんでした。この時点で修理中なのはC11形227号機の他は、令和5年に富山県高岡市から搬入されたC11形217号機がありますから、トーマス用の青い運転席がC11形227号機のものであれば、こちらはC11形217号機のものである可能性が高いです。

 

 中央の運転席の内部を見ました。トーマス用の青い運転席です。

 南側のの運転席の内部を見ました。天井が白く塗られていますので、令和5年まで富山県高岡市で静態保存されてきたC11形217号機じゃないかな、と思います。

 

 中央の運転席の内部には何らかの操作ハンドルやレバーが付いたままになっていました。

 

 レールの横に置かれていた、大きな台形の部品です。何の部品かは分かりませんでしたが、並べ方からみて2個でワンセットのような雰囲気がありました。

 

 これも何の部品なのか全然分かりませんでした。ここまで見て、ふと時計を見ると早くも30分余りが経過していました。蒸気機関車の数多くの部品を間近に見るのが面白過ぎて、しばらく時の経つのを忘れていたのでした。
 それで、大代川側線の車輛のほうを見に行くことにしました。  (続く)

 

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豊家の余香10 高台寺時雨亭

2024年03月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 傘亭から時雨亭(しぐれてい)に移動しました。両者は屋根付きの土間廊下で繋がっていますが、伏見城にあった時からその状態であったのかは不明です。

 時雨亭は、御覧のように二階建ての建物です。傘亭と同じく高台院北政所が慶長年間(1596~1615)に伏見城から移築したものとされ、これも千利休好みと伝えていますが、確証はありません。傘亭と同じく、国の重要文化財に指定されています。

 

 一階の様子です。内部へは立ち入り禁止ですから外から見るだけになりますが、このように傘亭と連絡する土間廊下の横から出入口に進んで中へ入る形式です。

 平面規模は東西二間、南北一間で、これを四畳半大の土間と三畳大の板の間とに分けています。東奥の壁際には竈土(くど)が2口設けられており、勝手の場として使われていたようです。

 

 二階へは、上図のように土間廊下から階段で上がる形式です。時雨亭は二階がメインの造りとなっていて、内部は三畳大の板の間と三畳大の上段からなり、東端の一畳半は南北に分かれ床と竈土(くど)が設けられています。茶室を兼ねた展望所としての性格があったようで、上段の三方は外部を突上げ戸とした肘掛窓となっており、視界が広く楽しめるようになっています。

 

 二階の天井が見える角度で見上げました。御覧のように傘亭と同じく天井板を張らずに、屋根裏の小屋組みの竹が上まで見える状態になっています。傘亭と共通する屋根の造りから、伏見城にあった時にも密接な関連にあったものと推定されます。茶室としての傘亭、展望所としての時雨亭、のセット関係にあった可能性も考えられます。

 

 外側の南面を見ました。二階の窓口は大きく作られて蔀戸を跳ね上げて吊るしています。上図は半開きの状態ですが、支え棒を上にあげて固定すれば、全開となって視界が最大限に広がります。
 右側の東窓には丸窓が開けられていますが、これは床の間の壁にあたります。丸窓そのものを掛け軸に見立てて外の景色を取り入れる、粋な手法です。

 

 この時雨亭は、一説では伏見城の「御学問所」ではないかとされています。これに関してU氏が「御学問所っていうと、伏見城の山里丸にあったといわれてるらしいが、こんな簡単な小屋なんかね」と疑問を発しました。

 御学問所といえば、京都御所に現存する天皇専用の立派な建物とかのイメージが一般的にはありますから、U氏も時雨亭の簡素な造りとのギャップに違和感を覚えたようです。

 ですが、私自身は、豊臣秀吉が伏見城内にて「御学問所」として設けた施設は、時雨亭のような簡素で質素なしつらえであった可能性が高いと考えています。戦国時代の武将のなかで、秀吉ほど山里や山水といった自然の景色、いわゆる鄙(ひな)の空間に憧れて平安朝以来のいわゆる「市中の隠」の空間思想を居城に持ち込んだ人も居ないからです。

 秀吉が築いて拠点とした城郭は、姫路城、大坂城、聚楽第、名護屋城、伏見城のいずれもそうですが、城内の一角に山里丸という空間を設けています。山里の名前の通り、人工的に山里を造成して木々を植えて庭園などを配し、花鳥風月を愛でて鄙(ひな)の空間世界を楽しむ一方、諸大名をもてなして統制する重要な場所としても利用していたようです。

 そういった、自然の景色に包まれた「市中の隠」ならぬ「城中の隠」である山里丸の施設には、立派な櫓や建物よりも、現在の傘亭や時雨亭のような、茅葺の詫びた簡素な建物が似合っていただろうと思います。
 政治や合戦に明け暮れる多忙な日々の中で、つかの間の静かなひと時を自然に包まれて隠遁の気分で過ごしたであろう秀吉が、「御学問所」を伏見城の山里丸に設けるとすれば、時雨亭のような質素な建物が最も適していたのではないか、と思います。

 

 なので、この時雨亭や傘亭が、伏見城から移築されたとする伝承は、個人的には本当だろうと考えています。もとは伏見城の山里丸にあって、宇治川の船付き場も眼下に見下ろせる場所に建っていたのではないかと推測しています。ただ、文献史料などの確証を欠いているのが残念です。

 以上の内容を話すと、U氏は少し考えて首を傾げたあと「伏見城の建物って、治部少輔(石田三成)が伏見城合戦で鳥居元忠の東軍を攻めた時に全部焼き払ってるんじゃなかったか?豊臣期の建物は全て焼かれたんじゃないのか?」と言いました。

 その通り、石田三成が慶長五年(1600)八月の伏見城合戦後に真田信幸にあてた報告では「悉懸火不残一宇焼払候事」とあり、また佐竹義宣にあてた報告では「一宇も不残焼捨候事」とあって、要するに「(伏見)城内悉く火をかけやけうちにいたし候」となっています。

 しかし、石田三成が悉く火をかけて焼き払った「城内」とは、本丸、二の丸以下の城郭主要部を指すのであって、城の防御区域に含まれない外郭部は含まれていなかった可能性があります。その外郭部には、山里丸も含まれるのですから、その範囲までは石田三成の焼き討ちが及んでいなかった可能性があります。

 

 なので、山里丸が戦禍に巻き込まれていなければ、そこにあったと言われる「御学問所」や「茶室」も難を逃れ得たことになります。これらの残っていた建物を、北政所が高台寺に移築したのが、現在の時雨亭や傘亭であるのではないか、と個人的には推測しています。同じ高台寺に移築されている庭園の「観月台」も、たぶん同じ山里丸にあったのだろう、と考えています。

 なぜそのように考えるのかというと、同じ伏見城の山里丸にあったとされる建物が他にも現存しているからです。いま滋賀県大津市の園城寺にある国重要文化財の中世期の三重塔は、もとは奈良県吉野郡の比蘇寺(現在の世尊寺)にあった東塔を慶長二年(1597年)に豊臣秀吉が伏見城に移築したものであり、これが山里丸に残っていたのを、慶長六年(1601)に徳川家康が園城寺に寄進して現在に至っています。

 この三重塔が伏見城山里丸にあった頃は、いまの安土城の捴見寺三重塔のように相当目立っていた筈です。それが伏見城合戦で石田三成が「一宇も不残焼捨候事」と報告しているにもかかわらず、残っていたわけですから、山里丸そのものが戦場の範囲外だったと考えられるわけです。
 なので、三重塔よりも小さく、庭園や木々の間に隠れていた「御学問所」や「茶室」が残ったのは当然だろうと思います。

 

 なので、上図の時雨亭、傘亭、そして屋根付きの土間廊下は、豊臣期に伏見城山里丸に設けられた「御学問所」や「茶室」に該当し、それが伏見城合戦にも巻き込まれずに残存し、これを徳川期の伏見城再建に際して北政所が貰い受けて高台寺に移築した、という流れだったのだろう、と推測しています。徳川家康としても、秀吉ゆかりの建物ですから、伏見城にずっと置いておくよりは、北政所の高台寺に引き取って貰ったほうが良いと判断したに違いありません。

 このことをU氏にも説明して見解を問うたところ、「なるほど、実にシンプルなストーリーだな、最も有り得るな、それでいいんじゃないかな、歴史のロマンってのは案外シンプルな事実の積み重ねだと思うからな」と納得していました。

 

 かくして、二人ともなにか満足した気分になって、拝観順路の下り道をたどりました。高台寺境内地の南側が、嵐山の竹林にも劣らない美しい景色をもつことはあまり知られていませんが、ここでも上図のような「竹の小径」の雰囲気が味わえます。

 むしろ、こっちのほうが「竹の小径」らしいんじゃないか、とU氏が言いました。嵐山の「竹の小径」は枯れ竹や倒れ竹も混じっていて、ある意味荒れ気味なので、ここ高台寺の手入れも行き届いた竹林のほうが、綺麗な感じに見えます。隠れた名所の一つでしょう。

 

 拝観順路の終点は、上図の大方丈の正門たる勅使門でした。以上で、なかなかに知的好奇心をそそられて考察も楽しめた、高台寺の見学を終わりました。
 再び「ねねの道」へ降りて、東山通りへと下り、次の目的地へ向かいました。  (続く)

 

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聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ(2輌目) 作ります!! その7

2024年03月03日 | ガルパン模型制作記

 ステップ17では砲の取り付けなどを行ないます。ベンチレーターA73の表面の刻字を消します。吊り下げ用フックB76の取り付け位置を劇中車に合わせます。
 ステップ18ではハッチや雑具箱などを組み立てます。ハッチは全て接着固定し、リベットの劇中車仕様再現は省きます。雑具箱に付けるシャベルB81は、留め金具のみを残して切り取ります。

 

 ステップ17で組み立てる部品類です。

 

 ベンチレーターA73の表面に刻字モールドがありますので、これを消します。

 

 削り取って消しました。

 

 組み上がりました。このクルセイダーのガルパン仕様で最も目立つ砲塔天面のベンチレーターの位置移動は、かなり難しい作業の一つとされていたようですが、ガンプラ用のパーツ転用、という嫁さんのアイデアにより、簡単な作業で出来るものとなりました。

 ガンプラ用のパーツには、戦車の改造にも使えるものが少なくないのですが、模型雑誌やガルパン関連の製作記事では、なぜかそういった他パーツ転用の手法を紹介していません。そういう発想がはなから無いのでしょうか。

 

 ステップ18の工程に進みました。

 

 ガイドの指示通りに組み立てました。今回のキットは前回のボーダーモデルの品と違って劇中車仕様の再現は目立つ箇所のみに絞っていますので、細部やリベットの再現は省きました。
 3つのメーカーの品を順に作るので、ボーダーモデルの品は劇中車仕様、今回のタミヤの品は目立つ箇所のみ劇中車仕様、次に作る予定のイタレリの品はほぼストレート組みにして、それぞれの差異を見える化します。

 

 ステップ19では、砲塔の各所の部品を取り付けます。ここでのガルパン仕様工作は、B71の天面のリベット除去、のみです。あとの細部は目立ちませんので工作は省きます。

 

 ステップ19で組み立てる部品類です。

 

 ガルパン仕様への追加工作は、上図のB71の天面のリベットの除去でした。20個のリベットを全てカットしました。

 

 組み上がりました。

 

 ラストのステップ20です。砲塔を車体にセットしてアンテナ類を取り付けますが、収納のことを考慮してアンテナは基部のみ取り付け、または取り外し自在としました。
 また、砲塔と車体との段差は劇中車に合わせずにそのままとしました。前に製作したボーダーモデルの品にて劇中車仕様を再現しましたので、それとの差別化の一環でした。

 

 組み付けるアンテナは上図のB92、B94の2本ですが、前者は基部のみにして取り付け、後者はダボ穴に取り付け自在とし、収納時に外せるようにしました。

 

 組み上がりました。

 

 残りのガルパン仕様への追加工作として、右側フェンダー前端のミラー基部の追加をプラ板で行ないました。

 

 以上で塗装前の組み立てと追加工作の全てが完了しました。塗装は、次のイタレリの品を作り終えてから、ボーダーモデル以下の3点のキットをまとめて行う予定です。  (続く)

 

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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その6 蒸気機関車の部品類 中

2024年03月02日 | ゆるキャン△

 大代川側線の東側の広い空き地は、蒸気機関車の部品などの仮置き場になっているようでした。様々な部品が数多く並べられ、置かれていましたが、最も大きな部品は上図の石炭庫と呼ばれるものでした。タンク式機関車のそれですから、大井川鐡道においてはC11形のそれが挙げられます。

 上図は背面の様子で、ナンバープレートが外されており、ナンバーのメモも見当たらなかったので、どの機関車の石炭庫であるかは分かりませんでした。

 

 前面部を見ました。石炭庫からの積み出しハッチや給水管、給水バルブなどが付いています。これの前に機関室が付くわけです。なかなか見られるものではありませんので、しばらく見入っていました。

 

 それから線路の方へ行きました。先に見えた蒸気機関車と、その前のチキ300形とみられるボギー長物の貨車が見えてきました。蒸気機関車の後ろには客車が繋がっていました。その手前左手にはレールの他に、蒸気機関車の運転席や石炭庫の部品が置かれていました。

 

 こちらの石炭庫は、トーマス号のペイントのままでした。現在運行しているC11形190号機とは別のトーマス号の部品とみられますが、つまりはC11形227号機のものでしょうか。

 

 その石炭庫の下端付近に「仮ボルト」のチョーク書きがありました。仮ボルトって何だろう・・・。

 

 トーマス号用の石炭庫の前面です。先に反対側の空き地で見てきた石炭庫とは、ちょっと形状が違うように感じましたが、よく観察してみると、全ての部品が外されている状態だと分かりました。

 

 同じトーマス号の左右の水タンクもありました。これがあるということは、トーマス号用の部品は、現在運行中のC11形190号機と合わせて2セットが存在するということかな、と考えたりしました。

 私の知る限り、大井川鐡道においてトーマス号を担当したのは、以前はC11形227号機、現在はC11形190号機、の2輌だということですから、ここにある部品はC11形227号機のものということになります。C11形227号機は現時点で修理中と聞いていますから、ボイラー以外のパーツをここに置いているのでしょうか。

 

 近くにフェンダーらしき細長い板、石炭庫の前面板らしき部品がありました。

 

 あちこちが赤錆でボロボロになっていますが、これも再利用するのでしょうか。

 

 運転席の部品に近づきました。よく見たら、1個ではなくて後ろにも2個が並べてありました。

 

 運転席は3輌分が並んでいました。中央はトーマス号のペイントのままでしたから、これはたぶんC11形227号機のものでしょう。

 

 奧の真新しい機関車整備庫を見ました。線路が真っすぐに続いていました。あの中に、修理もしくは整備中の機関車が置いてあるのでしょう。特別見学会とかがあれば、行きたいものです。  (続く)

 

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