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伏見城の面影1 天龍寺へ

2024年03月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2023年11月5日、かねての打ち合わせ通りに水戸のU氏と京都歴史散策に出かけました。10月22日の高台寺、方広寺、豊国神社巡礼の続きでした。

 前回は日帰りでしたが、今回は訪問地が多いのでU氏も泊りがけで行程を組み、4日の夜に水戸から京都まで移動して祇園四条のカプセルホテルに前泊して、5日の朝は嵐電四条大宮駅で待ち合わせて嵐山へ向かいました。

 

 U氏は、京都市内の鉄道のなかで嵐電が一番好きなのだそうです。乗る前からテンションが高かったようで、集合時間より40分余りも早く四条大宮駅に着いて駅の内外を見物していたらしく、集合時間の9時きっかりに改札口に着いた私に「ちと遅かったようだな」と笑顔でのたまう始末でした。

 なので、乗ってからも上図の路線図を熱心に見たり、駅に停まるたびに駅名標や景色をいちいち撮影し、近辺の古社寺や名所を出来るだけ挙げては嬉しそうに笑うのでした。なぜ嵐電が好きなのか、と聞いてみようと思ったことが何度かありましたが、未だに聞けていません。

 

 U氏のテンションが朝から高止まりのままだったのには、もう一つの理由がありました。今回の行程の主目的は、伏見城から各社寺へ移築されたと伝える幾つかの建築のうち、可能性が高いもの、であったからです。これは私が春から継続的に行っている旧伏見城移築遺構巡りの一環でもあって、今回はU氏のリクエストも含めて4か所を選んでいました。

 豊臣氏びいきのU氏には、伏見城といえば豊太閤殿下の居城、というイメージが強烈なほどにあるようで、今回まわる建築遺構の多くが徳川期再建伏見城の建物だと思うよ、と私があらかじめ話しておいたのにも「つまりは豊臣期の建物のコピーなんだろ、コピーを見ることである程度は豊臣期の豪華さってのも分かるんだろ」と言うのでした。

 

 嵐山は京都でも人気が高いスポットです。朝から駅前通りは御覧の賑わいでしたが、U氏と私はその雑踏を斜めに横切って、天龍寺の境内地へ踏み入りました。

 

 目当ては上図の天龍寺勅使門でした。天龍寺伽藍の正式な表門にあたりますが、一般参道が北に設けられているために現在は動線から外れていて、門の内外に観光駐車場が設けられています。
 それで、観光バスなどが停まったりすると門が見えない場合がありますが、今回は観光バスは奥の広い駐車場へ入っていたので、勅使門そのものはよく見えました。

 

 U氏「おい、あれ立派な彫刻だな」と上図の大瓶束(たいへいづか)と笈形(おいがた)を指さしました。笈形が雲状に表されて二段の曲線を描いていました。虹梁(こうりょう)を支える花肘木(はなひじき)にも草花のレリーフが施されています。

 こういった建築部材に彫刻や浮彫を豊かに表すという手法は、安土桃山期と江戸初期だけの特色でありますから、少なくともこの勅使門が平安期や室町期の建物でないことはすぐに分かります。

 

 勅使門の内側つまり北側に回りました。この門は外側と内側の装飾意匠が共通しているため、どちらから見ても門の細部の美しさを見ることが出来ます。

 

 門の天井裏に板も壁も張っていない点は、以前に御香宮神社で見た旧大手門のそれと共通しています。ですが、貫(ぬき)を支える斗供(ときょう)は一切の装飾を施していません。
 こういう実質的な構造材には、彫刻を入れたりすると材の強度が落ちる場合があるそうですので、桃山期までの建築ではあまり見られませんが、江戸初期頃の建物ではやたらに目立つようになります。

 その相違点が、安土桃山期と江戸初期との識別ポイントの一つだろうと個人的には理解していますが、復古建築にはこの識別法も応用出来ないのが悩ましいところです。

 

 ですが、上図の門扉を見ると装飾は枠材の金具のみで、これは枠材の補強を兼ねていることが分かります。門扉に装飾文様を入れたりレリーフをはめ込んだりするのは桃山期の後半期だろうと個人的には推定していますので、この勅使門の門扉は桃山期前半の古式を示しているのではないかな、と推測します。

 

 同じことは、貫の上の笈形(おいがた)の意匠にも言えそうです。御覧のように笈形の骨格そのものは本来の弓状曲線のままに保たれており、それを彫刻でより立体的に「盛って」表現するという手法が採られています。

 江戸期になると笈形自体が板状になって彫刻意匠も彫りが薄く、同時に細かくなって表現の基調が繊細になってゆきます。この勅使門の笈形は大振りで古いタイプだろうと思うので、これも桃山期前半の古式を示しているのではないかな、と推測します。

 

 さらに、上図のアングルで見上げるとよく分かるのですが、建物全体に占める装飾部分の割合が僅かです。江戸初期の豪華な門になると大部分の部材に装飾や彫り物が施されていき、例えば東照宮陽明門のような華美で絢爛たる姿になります。

 同じ桃山期の門では、前に見た大徳寺方丈の唐門や豊国神社の唐門が後半期の典型例として挙げられますが、それらの豪華さは唐門という特殊な階層のみが利用できる最高格式の門だからなのであって、こちらの勅使門は、本来はそこまで格式が高くなかった門だった可能性があります。装飾が全体的に控えめなのも、そのためかもしれません。

 ただ、四脚門なので、有職故実の慣例にしたがえば、中納言か、三位相当の高官でなければ設けることが許されない最高格式の門にあたります。そもそもこの門が、構造的にみても寺院の門建築ではなくて、公家や武家の屋敷や政庁クラスの門建築に該当しますから、現在地に移る前には京都御所に置かれていたというのも納得出来ます。

 仮にこの勅使門がもとは武家の門だったとすれば、桃山期において城館や邸第(屋敷)にこのような四脚門を設ける事が出来た武家は5人しか居ません。挙げれば、豊臣秀吉(関白太政大臣)、織田信雄(内大臣)、德川家康(大納言)、豊臣秀長(大納言)、豊臣秀次(中納言)となります。うち3人までが豊臣氏で、京都に居城を構えていたのは豊臣秀吉だけです。

 なので、相当な身分で財力も備える人で無いと建てられない最高格式の四脚門であれば、最初に建てられるべき場所の候補は、皇室関係か、政権関係の二つしかあり得ません。政権関係とは、豊臣政権そのものですから、その意味でもこの勅使門がもとは旧伏見城の門だとする伝承は、無下に否定出来ません。  (続く)

 

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