気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

(車輌目次表紙)伯爵高校 Ⅳ号戦車G型(1号車)(樅の木と鉄の羽の魔女版)

2024年07月20日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  グンゼ産業 (商品コードG775)

  制作期間   2023年5月24日~6月3日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 完成です!!

  総評・備考
 ガルパンの主人公である西住みほ以下あんこうチームの搭乗車となったことでお茶の間でも広く知られるようになったドイツのⅣ号戦車であるが、テレビシリーズの段階ではD型、D型改としてのF2型およびH型の3種類があり、劇場版および最終章においてはH型が最終形態としての姿をみせている。
 これに対して、コミック版では「フェイズエリカ」に継続高校チームのJ型が、「樅の木と鉄の羽の魔女」に伯爵高校チームのG型が登場してアニメ版との差別化が図られたが、G型は後にアニメの最終章で黒森峰女学園チームの車輌として加わり、テレビシリーズのF2型とほぼ同じ姿をみせた。
 そのため、公式キットはまだ出ていないものの、中身が同じあんこうチームF2型の公式キットが利用出来る。適応キットは各社より多数が出ているが、今回の伯爵高校チームの車輌のような、完全なシュルツェン装備タイプを再現出来るキットは下のキット一覧に示すように6点しかない。そのうちのミニアート品(下のキット一覧の5)はフルインテリアキットであり、内部の再現製作も楽しめる。

  公式および適応キット一覧(2024年7月現在) 黄帯が今回の使用キット  


目次へ

 

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新潟ビゲン高校 ランズベルクL-60軽戦車 作ります!! その5

2024年07月19日 | ガルパン模型制作記

 砲塔の改造の続きです。砲塔後部の拡張部分を除去すべく、ニッパーで切り取ってヤスリで形を整えていきました。

 

 砲塔前部の張り出しは、形状が異なるので、実車の画像などを参考にして改造します。

 

 張り出しの上面を上図のようにカットしました。

 

 カットした部分にプラ板を張ってL-60の初期型砲塔の形状に合わせました。

 

 砲塔後面は、熱をあてて曲げ加工したプラ板をあてて円形に整え、薬莢排出口の穴をあけました。

 

 砲塔上面の工作の状況です。プラパイプで機銃架を作り、プラ板でハッチとハッチの枠を作り、ジャンクパーツで跳弾板とペリスコープと砲塔背面のフックを作りました。

 

 改造が完了しました。なんとかL-60の初期型砲塔に近づけることが出来ました。

 

 反対側からの姿。

 

 上面の様子。ハッチは開閉自在にしようかと迷いましたが、接着固定しました。

 

 武装は、主武装がマドセン20ミリ機関砲、副武装が7.92ミリマドセン機関銃ですが、トルディⅠでは副武装が34/37A 8 ミリ機関銃に換装されているため、副武装のC1の代わりにジャンクから形状の似た7ミリ機銃のパーツをもってきて取り付けました。

 

 ちなみにL-60のスウェーデン陸軍向けの量産型つまりL-60sは、主武装がボフォース37ミリ戦車砲に強化されているので、今回のL-60aタイプとは容易に識別出来ます。

 

 この初期型砲塔と武装のL-60軽戦車をもって、新潟ビゲン高校チームは試合にのぞんでいたわけですね。  (続く)

 

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伏見城の面影15 南禅寺金地院大方丈から

2024年07月18日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺金地院の本堂にあたる大方丈の横へ回りました。U氏が「やっぱり規模が大きすぎるな。伏見城の縄張図で規模を調べてきたんだが、本丸や二の丸って今の二条城よりも狭いのな。それなのにこの建物は二条城の書院建築より大きいな」と言いました。

 確かにその通りかもしれません。加えて、上図の外観の建築様式は完全に江戸期のそれでしたから、江戸期に現地で新たに造営された建物だろうと思います。近年の研究では、寛永四年(1627)に以心崇伝によって建立されたものとみられていますが、それが正解でしょう。

 なので、この大方丈が伏見城からの移築とする寺伝は、ただの伝承にすぎないか、もしくは、移築の計画だけで終わったか、移築されたが規模が小さかったために現在の大方丈に建て直された、のいずれかの経緯を反映しているのかもしれません。

 

 大方丈の右側には中興開基の以心崇伝を祀る上図の開山堂があります。江戸期において開山の像は方丈内部の仏間に安置される形式が一般的ですが、金地院の場合はこのように開山堂が別に建てられており、鎌倉期以来の禅寺の古いスタイルが踏襲されています。また、かつては大方丈の他に小方丈もあって、その小方丈がいま正伝寺に移築されて今に伝わりますが、この大方丈と小方丈の併置も古いスタイルです。

 金地院は、もとは室町幕府第4代将軍足利義持が応永年間(1394~1428)に、南禅寺第68世の大業徳基を開山として洛北の鷹ケ峯に創建したと伝えており、それを江戸初期に以心崇伝が中興して現在地に移した経緯があります。いまの金地院が示す古いスタイルは、鷹ケ峯に創建された前身寺院の構えを受け継いでいるのかもしれません。

 

 大方丈の前面に庭園「鶴亀の庭」の白砂が広がります。 寛永九年(1632)に以心崇伝が徳川家光を迎えるために小堀遠州政一に作庭させたものであり、造営時には全国の大名からたくさんの名石が寄進されたといいます。

 小堀遠州は周知のように江戸期を代表する作庭家で、全国各地に小堀遠州の作と伝える庭園がたくさんありますが、大部分は伝承に過ぎず、ここ金地院庭園のように史料のうえで小堀遠州の作庭であることが確かめられる事例は唯一であるそうです。

 

 大方丈の内部を見学しました。上図の前縁部以外は撮影禁止でした。桁行十一間、梁間七間の大きな規模ですが、平面形式は典型的な禅院方丈の六間取りとなっています。前列中央の奥が仏間で、本尊の地蔵菩薩像を安置しています。

 東側の奥にある「富貴の間」は、奥を一段高めて上段を設け、床および違棚、付書院を設け、帳台構を付して天井を折上げ格天井としています。各室の襖や障子腰板の障壁画に狩野派の作です。格式の高い部屋であり、葵紋をあしらった飾金具が使用されていて、武家御殿の大広間を彷彿とさせる室空間になっています。
 このような「富貴の間」がある点も、禅院方丈としては極めて異例の造りですが、おそらくは徳川将軍家の御成を迎えるためであったのでしょう。

 

「要するにだ、ここ金地院は京都における徳川家の重要拠点でもあったわけだ、神君家康公の遺言による三ヶ所の東照宮の一つがここだし、それを遥拝する仏殿としての機能も併せ持った方丈は、将軍家の御成があっても良いように高い格式で造られてる。庭園は小堀遠州、障壁画は狩野探幽、当代一流の名人による仕事だ。最初の頃は伏見城の書院を移して使ったかもしれんが、徳川家の菩提寺となった知恩院の壮大さに比べりゃ、小さかったんだろうな、そこで寛永四年に新たに大きな建物を造営した、と、こういう流れかもしれんぞ」

 U氏がそう話しましたが、それで合っているのではないかと思います。ここに伽藍を建設し始めた時には伏見城からの移築による大小の方丈があったのかもしれませんが、徳川家の拠点に相応しい大方丈を新たに造営するにあたって両方とも撤去、小方丈のみが正伝寺に移された、と考えれば、金地院方丈が伏見城からの移築とされる寺伝とも符合します。

 

 大方丈を出て、拝観順路を進んで明智門へと向かいました。これで金地院境内を一巡したことになります。

 

 近づいてくる明智門を見つつ、U氏が言いました。

「そういえば、徳川家の拠点である金地院の中門が、明智光秀の寄進門というのも、なんか不思議な組み合わせだな」
「あれはもとの門が豊国神社へ移されたんで、明治期に大徳寺から買い取って移したものやからな」
「あっ、そうか、そうだった。この前見てきたあの唐門がここにあったわけか」
「せや」
「それもなんかすげえ景色だったのと違うかね。国宝の三大唐門のひとつだぞ」
「せやな」

 

 金地院を辞して、参道を北へ進んで上図の門をくぐりました。南禅寺主参道に面するこの門も金地院の建物で、下乗門と呼ばれます。金地院一山の総門にあたり、参詣者はここで馬や輿から降りて門をくぐる習わしでした。

 

 金地院下乗門から右に曲がって南禅寺主参道に進むと、やがて上図の門が見えてきました。U氏が「よし、あれだな」と気合を入れ直していました。かつて伏見城内にあった武家屋敷の門であったもので、慶長六年(1601)に南禅寺に寄進移築されたものです。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く39 その13  静岡ホビースクエア

2024年07月17日 | ゆるキャン△

 静岡駅に着いた後は、駅ビル内のアスティ静岡に移動して昼食をとるべく上図の石松に入りました。ゆるキャン聖地巡礼で静岡に来るとどうしても浜松餃子が食べたくなってしまいます。

 

 安定の浜松餃子定食。

 

 やっぱり、これだよね。旨し。

 

 昼食後は駅南口のホビースクエアに行きました。次に乗る列車の時刻まで一時間ぐらいあったので、久しぶりに模型の聖地に立ち寄ることにしました。

 

 アーマーモデリングでとりあげられたという作品が展示されていました。これはもしかして、終戦時に浜名湖に新型の四式中戦車チトを沈める場面では・・・?

 聞くところによると、この戦車の探索が何度か行われているにもかかわらず、いまだに発見出来ていないそうです。もしかして、水没推定地点が違うのでは?と思ったりもします。

 

 きかんしゃトーマスの大型模型。HOゲージよりも大きいので、1/50ぐらいかな。Nゲージではトミックスから出ています。中古品で買おうかな。

 

 なにかのアニメのワンシーンかな、蒸気飛行艇とありますが・・・。

 

 これがベルゲパンツァーの一種ですか。車体はパンターですな。ガルパン最終章第4話の冒頭に出ていたのは車体がティーガーⅠでしたが、ドラゴンやライフィールドモデルのキットをそのまま作っても劇中車にならないのが悩ましいところです。

 

 ウッディジョーの慈照寺銀閣。庭園が実際よりも簡素化されているので、印象が全然違います・・・。建物自体も創建当初の状態ではなくて現在の姿です。

 

 ウッディジョーの木製模型はいいですね。昔からずっと憧れています。年取ってガルパンプラモや鉄道模型Nゲージをある程度やりきった後は、この精巧かつ温もりに満ちた木製模型の世界に浸ってみたい気がします。問題は費用ですかね・・・。

 

 個人的に人生最高の聖地である、宇治平等院鳳凰堂。憧れの模型です。いつかは必ず買って作ります。広い家を見つけて引っ越してからの話になりますが・・・。

 

 この平等院鳳凰堂は、最近の修理復元で藤原時代創建当初の要素が戻されて彩色も鮮やかに復原されていますが、この模型はそれ以前の状態をうつしとっています。藤原時代仏教美術史専攻であり、定朝様式の仏像と平等院鳳凰堂を長年研究してきた身としても、少なからぬ違和感を禁じえませんでした。

 それで、この模型を作る時には、色々と手直しして、いまの復原整備された鳳凰堂の姿に仕上げてみたいという気持があります。

 

 この翼廊部分とかも、細部のあちこちで江戸期修理の要素が見えるんですね・・・。屋根の形も微妙に違いますし。藤原時代の甍のカーブはもっとゆるやかですね。

 

 こちらは奈良の薬師寺の東西両塔。慣れ親しんだ故郷の風景のひとつなので、こちらも作ってみたいです。

 

 これですか、一時期嫁さんが騒いでいた「安宅船」は・・・。個人的には織田信長の鉄甲船に興味がありますが、史料的に具体的な姿が分かっていないので、その模型化は無理でしょうね・・・。

 

 ウッディジョーの人気商品は城郭シリーズだそうです。姫路城と首里城。首里城のほうは城郭というより宮殿でしょうね。

 

 熊本城です。サークルの先輩がこれを作って、周囲の櫓や塀も含めた本丸全体をスクラッチで製作していましたが、材料は紙と木材だったそうです。展示会でそれを見た時には、電飾も仕込まれているので驚いた記憶があります。

 

 安定のタミヤコーナー。

 

 今回の展示品のなかで一番テンションがあがった品。海賊戦艦アルカディア号。中学から高校の頃は、アニメのキャプテン・ハーロックシリーズの大ファンでした・・・。

 うちゅーうーのうーみーはーー、おーーれーーのうーみー・・・と心の中で歌いつつ、ふと時計を見たら12時13分でした。わっ、いつの間にか時間が経ってるぞ、次の電車の時刻まであと8分しかないじゃないか、と慌てて退出してスカイウォークを静岡駅へ駆け戻ったのでした。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ(2輌目)

2024年07月16日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  タミヤ・イタレリNo.25 (商品コード37025)

  制作期間   2023年5月22日~5月26日、5月30日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 完成です!!

  総評・備考
 クルセーダーは、1940年にイギリスが開発した20トンクラスの巡航戦車で、のべ5,000輌以上が製造され、北アフリカ戦線で活躍した。ガルパンにおいては、砲塔を拡大して主砲を6ポンド砲に換装した最終形態のMk.Ⅲが登場し、聖グロリアーナ女学院チームの所属車輌として劇場版から最終章に至るまで数々の活躍をなしている。
 適応キットは古くはイタレリ(下のキット一覧の4)、最近ではボーダーモデルの製品(下のキット一覧の6)が知られ、イタレリの品をタミヤが「タミヤイタレリシリーズ」として販売する品(下のキット一覧の5)もある。ボーダーモデルの品はプラッツの公式キットにもなっており、3種類の公式キットが出ている(下のキット一覧の1から3)。したがって内容的にはイタレリ製品とボーダーモデル製品の2系統に分かれるが、製作の難易度は前者が低く後者が高い。初心者クラスにはイタレリ系統のタミヤ製品がおすすめである。ボーダーモデル系統は公式キットも含めて上級者向けとみておいたほうが良いだろう。
 今回の作例は、タミヤイタレリのキットを用いて、劇中車仕様における目立つポイントのみを合わせて再現製作した。メインは、砲塔天板前部のベンチレーターの位置の調整、砲塔右側面のライトの取り付け位置の調整、後部の左右のボックスのハッチの向きの統一、の三つであった。

  公式および適応キット一覧(2024年7月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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新潟ビゲン高校 ランズベルクL-60軽戦車 作ります!! その4

2024年07月15日 | ガルパン模型制作記

 ステップ11では、車体上部の各部品を取り付けて、上下の車体を貼り合わせます。作中車は今回のキットの車体とほぼ同じ姿に描かれますので、ここでもガイドの組み立て指示に沿って進めます。追加工作として、車体前面に薄い装甲板を張ります。

 

 ステップ11で取り付けるパーツ類です。エッチングパーツのライトカバーは、実際のL-60には付いていませんが、作中車には付いているので、ガイドの指示にしたがって組み付けます。

 

 組み上がりました。

 

 続いて、上下の車体を貼り合わせます。

 

 ホビーボスの製品はパーツの合いが良く、今回も綺麗に合わさりました。

 

 追加工作にとりかかります。車体前面右側の方形のグリル跡を塞ぎます。

 

 御覧のように実車でも車体前面右側の方形のグリルは無く、薄い鉄板が張られています。完全な方形ではなく、前照灯の下にも続く不整形の鉄板になっています。

 なお、車体前端に上向きの牽引ホールドが見えますが、作中車にもあるかは不明で、第二次大戦中のL-60の写真を見ると今回のキットと同じ形式の牽引フックになっている例が多いです。

 

 実車の画像を参考にしてプラ板を上図のようにカットして貼りました。

 

 これで車体部分の組み立てと追加工作の全てが完了しました。

 

 次は砲塔の製作になります。組み立てガイドの図はトルディⅠの砲塔の図になっていますのでここでは不要とし、作中車の砲塔に該当する、上図のL-60の初期型砲塔の画像をネットで探し出しまして、参考にしました。

 

 このように、砲塔のパーツは形状からして異なりますので、パーツごとに改造が必要です。トルディⅠの砲塔はL-60の砲塔の前後を拡張したタイプですので、その拡張部分をカットして元の形状に戻すことになります。

 

 砲塔底部のA32の後方の拡張部分をカットし、元の円形に直しました。

 

 元の円形に直したA32を砲塔パーツにかぶせて仮組みしました。A32の円形のラインに沿って砲塔パーツの拡張部分をカットし、元の丸い砲塔に直します。  (続く)

 

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伏見城の面影14 南禅寺金地院東照宮から大方丈へ

2024年07月14日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 金地院東照宮の拝殿の縁側に置かれていた案内文の立札です。U氏はいつものように三度くりかえして読んでいました。

 

 そして拝殿の軒下を見上げつつ、「疎垂木(まばらだるき)だな」と言いました。神社建築の垂木形式としては簡素のほうに属しますが、ここの建物では簡素化というよりも、総黒漆塗りの黒い外観に独特のアクセントをつけるために意図的に採用されているように思われます。

 

 貫の上の黒い板壁には円環形の浮彫レリーフが懸けてありますが、もとは金泥の下地に彩色を施していましたから、黒漆の上では夜空の月のように輝いて見えたことでしょう。

 

 モチーフは鳳凰のようです。かなり剥落していますが、もとは色とりどりに塗られて鮮やかな姿であったと思われます。徳川政権の初期にて庇護した社寺の建築装飾はだいたいこのようなタイプです。日光東照宮しかり、妙義神社しかり、三峰神社しかり、です。

 

 ですが、徳川政権の関与した社寺建築においても、この拝殿のような漆黒の建物は稀です。背後の石の間や本殿が極彩色であるのとは対照的です。何らかの意図があったものと推測されますが、基本的には神仏習合期の神社の仏教的な建物形式になっていることに着目すべきでしょう。

 

 背後の石の間や本殿は、御覧のように朱柱の一般的な社殿建築の姿を示しています。拝殿と同じく寛永五年(1628)の建立で、国の重要文化財に指定されています。

 

 石の間を見ました。このように、拝殿と本殿の間の石の間を建物として構成し、拝殿と本殿とに繋いで造る形式を「石の間造り」といいます。石の間自体は本来は土間であって、平安期には既にみられたようですが、建物がつく形式となったのは安土桃山期からのようです。慶長四年(1599)に京都阿弥陀ヶ峰に建てられた豊国神社が「石の間造り」の古い例であったとされています。

 京都で似たような「石の間造り」の現存例を挙げるとすれば、北野天満宮社殿が思い浮かびます。

 

 続いて本殿を見ました。拝観順路からはちょっと離れているので、双眼鏡で見たりしましたが、典型的な江戸初期の極彩色の社殿建築です。桃山期の流行をそのまま踏襲しているように見えますが、意匠的には形式化の兆しがほの見えます。木組みなどに施された彩色の基本デザインは、平安期以来の伝統的な繧繝(うんげん)の系譜上にあります。

 

 本殿の横から土塀の小さな出入口を抜けて下へ石段を降りると、正面に開山堂の側面部が迫ってきますが、その右手に視線を向けると上図の大方丈が見えてきました。

 

 U氏が立ち止まり、私を振り返って問いかけてきました。

 「右京大夫、あの大方丈が、もと伏見城の書院だったと寺では伝えてるわけだが、どう思う?」
 「どうも、違うんじゃないかな・・・」
 「やっぱり、そう思うか」
 「ああ、規模的には大きすぎるんじゃないかって気がする。桃山期までの書院造はだいたい複数の建物を連ねるからね、二条城二の丸御殿みたいに。伏見城の書院も幾つか並んでたタイプだから、個々の建物は小さかったと思うんで・・・。でもあの大方丈は、規模が大きいし屋根も高い、あれで空間的には一つの書院として完結してる。江戸期の禅寺の一般的な方丈のタイプやな・・・」
 「俺もあれは一個の書院方丈で、江戸期の新造の建物かなと思う。この前見てきた正伝寺の方丈な、もとはここにあったんだろ?それを正伝寺へ移築したのは、あの大方丈を建てるためだったんじゃないかと思う」
 「そう、そう」

 意見が一致したところで、再び歩き出して、大方丈へと歩み寄りました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く39 その12  静岡へ

2024年07月13日 | ゆるキャン△

 白糸の滝および音止の滝、お鬢水を見てバス停に戻りました。上図の、来た時に降りたバス停ですが、これは行きの路線のバス停だったと気付いて、反対側の帰りの路線のバス停へ向かいました。

 

 こちらが帰りの路線のバス停でした。次の便の時刻9時20分まで7分ありましたので、周辺の景色を見て撮りました。

 

 やっぱり富士山が綺麗に見えているので、何枚でも撮ってしまいます・・・。

 

 どこから富士山を撮影したかの記録の意味で、上図のように白糸の滝の案内看板を入れて撮ったりしました。

 

 9時20分のバスに乗り、30分後の9時50分に富士宮駅前に戻りました。上図右が今回泊まった富士急富士宮ホテルです。

 

 駅前のコンビニで買い物をして、嫁さんに定期の連絡をした後、10時5分に富士宮駅に入りました。

 

 駅のホームから見える富士山。富士宮駅はこういう景色が楽しめますから全然退屈しません。

 

 富士宮駅の駅名標です。

 

 駅の側線には保線工事用の車輌が停まっていました。以前に大井川鐡道でも似たような車輛をみかけましたが、この種の車輌は地域ごとに形式がバラバラであるような気がします。同型車輛をどこでも見かける、という感じではないように思いますが、どうなのでしょうか。

 模型のNゲージでは、こういう感じの保線工事用の車輌は、トミックスやカトーなどの大手メーカーからは出ておらず、津川洋行やグリーンマックスのキットしか出ていないようです。

 

 ですが、上図のような長い荷台車は津川洋行やグリーンマックスのキットにあったかなあ・・・。

 

 保線工事車両を見物しているうちに、次に乗る列車がやってきました。10時23分発の特急ふじかわ4号、373系の3輌編成でした。この車輛も去年の冬にNゲージのトミックスの製品を購入しましたが、ヘッドマークのインレタシールをまだ入れていないので、いまだに手元で走らせていません。

 

 いつも快適な特急ふじかわの車内。乗って数分もすれば、ウトウトしてしまいます。車やバイクでの聖地巡礼もいいですが、鉄道やバスなどの公共交通機関を利用したほうが、移動中に何か食べたり、ゆっくり寝られるので楽ですね。

 

 窓から見えた富士山。

 

 11時2分、終点の静岡駅に着きました。

 

 静岡駅の駅名標です。

 

 そういえば、特急ふじかわのヘッドマークは何色だったっけ、と気付いて再度前面部を見に行きました。青色でした。

 トミックスの373系のセットには、ふじかわの青色のヘッドマークのほか、373系が運用された特急の「伊那路」や「東海」のヘッドマークも幾つか入っていますので、購入後に好きなのを切り取って貼ることになりますが、まだ貼っていなかったので、実車を見て確かめたわけです。

 

 よく見ますと、青い海のように見えたのは富士川の水流のデザインですね・・・。水色は空で、白い複数の横線は雲ですかね・・・?  (続く)

 

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(車輌目次表紙)聖グロリアーナ女学院 マチルダⅡ(劇場版・最終章)

2024年07月12日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  タミヤ ミリタリーミニチュアNo.300 (商品コード35300)

  制作期間   2020年12月5日~12月8日

  製作記事   関連記事

  総評・備考
 第二次大戦中のイギリス戦車の1/35スケールキットは、他国の戦車に比べて少ないとされるが、マチルダⅡも例外ではない。ガルパンにも登場して各試合で活躍するが、残念ながら公式キットは未だに出ていない。キットそのものがタミヤとICMからあわせて4種類しか出ておらず、入手が容易なのはタミヤの新キットのみとされる。
 ガルパンの劇中車はテレビ版仕様と劇場版以降の仕様とに分かれるため、どちらを作るかで適応キットも分かれる。今回は最終章仕様にて製作したが、劇場版仕様と共通であるので製作の段取りも同じであった。適応キットはタミヤの新キット(下のキット一覧の2)である。テレビ版仕様の適応キットはタミヤの旧キット(下のキット一覧の1)とされる。いずれも劇中車に仕上げるには多少の改造や追加工作を必要とするが、全体的には劇場版仕様のほうがキットとの相違点も少なくて作業量も少ない。劇中車が付ける牽引ホールドのパーツはいずれのキットにも入っていないため、他キットからの転用に頼らざるを得ない。初心者向けではないが、あえてチャレンジすることで得られる経験値は大きいだろう。 

  公式および適応キット一覧(2024年7月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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新潟ビゲン高校 ランズベルクL-60軽戦車 作ります!! その3

2024年07月11日 | ガルパン模型制作記

 ステップ7では背面部と履帯を組み付けます。私の製作では、履帯は塗装後に取り付けますので、ここではステップ7の工程は飛ばします。
 ステップ8では、上部車体に内側から取り付けるパーツを5個つけます。そのうち、前面につけるC2は作中車でも実車でも無く、そのあたりは鉄板で覆われていますので、一応、裏返しで付けて前面装甲上にて出っ張らないようにしました。

 

 ステップ7の背面部を取り付けた状態です。

 

 ステップ8に進みました。

 

 前面につけるC2だけを裏返して取り付けました。またA2は作中車では描写がなされているシーンが見当たらず、実車にも見えないので、取り付けないでおきました。

 

 ステップ9では上部車体と左右のフェンダーを組み立てます。フェンダーのステーはエッチングパーツになっており、ガイド図ではL字形に折り曲げて付ける指示がありますが、実車ではフェンダー天面部にのみ付いていて、車体側面部には付いていません。それで、エッチングパーツは全てプラ板に置き換えます。前端のPE20だけが2本並んだ形状ですが、これも1本に直してプラ板で貼り付けます。

 さらにL-60の初期形状に戻して合わせるため、操縦手ボックスの張り出しの左側を縮めます。今回のキットのトルディは、L-60の操縦手ボックスを拡大した改修型であるからです。この操縦手ボックスの張り出しの形状は、作中車では把握出来ていなかったためか、曖昧に描かれてトルディの拡大された状態に近いように見えます。

 

 ステップ9で組み合わせる上部車体と左右のフェンダーA1、A12です。2本の白い棒板は、ステーのエッチングパーツを置き換えるプラ板です。あらかじめエッチングパーツの幅に合わせてカットしてあります。

 

 

 組み上がりました。ステーのエッチングパーツを全てプラ板に置き換えました。実車もこの形状です。

 

 続いて、L-60の初期形状に戻して合わせるため、上図の操縦手ボックスの張り出しの左側を縮めます。今回のキットのトルディは、L-60の操縦手ボックスを拡大した改修型であるので、それを改修前の元の形状に戻すわけです。

 

 カットしてプラ板で貼り直して、L-60の操縦手ボックスの形状に仕上げました。

 

 ステップ10では、車体上部各所の部品を取り付けます。操縦手ハッチのA17はさきの改造に合わせて小さく直します。

 

 ステップ10で取り付ける車体上部各所のパーツ類です。

 

 操縦手ハッチのA17以外を組み付けました。

 

 操縦手ハッチのA17です。

 

 操縦手ハッチのA17は、さきに改造した操縦手ボックスの形状に合わせてカットして作り直します。

 

 ハッチも縮めて合わせました。これで操縦手ボックスの改造が完了しました。  (続く)

 

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伏見城の面影13 南禅寺金地院の東照宮

2024年07月10日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺金地院の拝観順路は、明智門から左に折れて上図の弁天池の東から南に回って、南の高台に鎮座する東照宮へと続いていました。

 

 弁天池の東側で、道が僅かに登り坂になっていました。U氏が「東照宮が金地院のなかで一番高い位置にあるってことは、江戸期までの神仏習合形態のなかでいうと、東照宮が主で金地院はそれに属する神宮寺の位置にあったんだろうな」と言いました。

 

 金地院が東照宮の神宮寺であったかどうかは、徳川家の公式史料にも以心崇伝(いしん すうでん)の「本光國師日記」にも記載が見られないので分かりませんが、上図の金地院方丈を江戸期の古絵図にて「御祈祷殿」と記していますので、方丈が東照宮の遥拝施設としての役目も併せ持っていて、金地院と東照宮がワンセットの宗教的空間に置かれていた歴史をうかがわせます。

 

 道の突き当りから左には、上図の東照宮の山門にあたる楼門が見えました。先に前を通って見た建物です。

 

 反対側の右に進み、上図の石畳の参道を北へたどりました。

 

 程なく上図の東照宮門をくぐりました。東照宮門の破風屋根は傷んで要修理状態のようで、応急的に防水シートで覆われていました。

 

 東照宮門をくぐり、上図の拝殿の前に進みました。U氏が「こりゃすげぇな、総黒漆塗りの仏教式の拝殿じゃないか、こういうの初めて見たな」と感動の声を上げました。
 御覧のように、神社の一般的な拝殿の建物の形式ではなく、神仏習合期の仏教式の拝殿建築としての姿を示しています。京都でもなかなか見られない、貴重な神仏習合期の建築遺構です。

 

 その正面の破風の真下の壁には、神仏習合期の堂宇には一般的に掛けられていた懸仏(かけぼとけ)の円盤が見えました。U氏が「懸仏が普通にかかってるじゃんか、おー、初めてみたぞ。神仏習合の状態を保ってるなんてすげえなあ」と言いました。

 懸仏とは、神仏習合期において、神社の鏡に現れた本地仏像の姿を表したものです。江戸期までは各地の社寺の社殿や仏堂などに普通に掛けられていたもので、明治期の神仏分離にて分離撤去または破却廃棄の対象となって多くの遺品が失われてしまいました。いま現存する遺品の多くは、神仏分離政策が停止された後に場所を移して祀ったか、倉庫などに仕舞われて再び使用されなかったものが殆どです。

 

 ここ金地院東照宮の懸仏は、寛永五年(1628)の創建以来の状態をそのまま保っているようです。明治の神仏分離期にも撤去されなかったもののようですが、それはここの東照宮が江戸幕府徳川氏の創設した三東照宮の一にあたる重要な神社であったことが関係していたのかもしれません。

 周知のように、徳川家康の遺言によって創建が指示された東照宮は三ヶ所あります。江戸幕府の公式史料である「徳川実紀」に収められた家康の元和二年(1616)4月2日の遺言を原文で読みますと、「(遺体は)久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州(三河国)大樹寺に置れ、御周忌終て後下野国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし。京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし」とあります。

 すなわち、遺体を久能山東照宮におさめよ、周忌後に日光東照宮へ位牌を移せ、京都では南禅寺の金地院に小堂を営んで東照宮とせよ、という意味です。そして金地院の東照宮には江戸期を通じて京都所司代の番所が置かれ、創建当初は日光東照宮と比されていましたから、徳川政権の重要な祭祀拠点であったことがうかがえます。

 

 その家康の遺言に従って創建された「南禅寺中金地院」の「小堂」がいまも現存しているわけですから、この拝殿や奥の本殿は江戸幕府草創期の宗教施策の様相を如実に物語っているわけです。国の重要文化財に指定されていますが、国宝に昇格してもおかしくないと思います。

 

 拝殿の内部を見ました。天井には狩野探幽の筆による「鳴龍」が描かれています。以心崇伝の「本光國師日記」寛永七年(1630)三月十二日条に「狩野采女へ状遣ス。拝殿之龍杉しやうし絵之義申遣ス」とあって、拝殿の龍と杉障子の絵を狩野探幽に依頼したことが分かります。そのうちの「龍」が上図の「鳴龍」ですが、杉障子の絵のほうは奥にあるのか、暗がりでよく見えませんでした。

 また、上図のように拝殿内部の欄間には土佐光起の画、青蓮院宮尊純法親王の書になる「三十六歌仙」額が掲げられています。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く39 その11  白糸の滝からお鬢水へ

2024年07月09日 | ゆるキャン△

 美しい虹がかかった白糸の滝の朝の光景を、ずっと眺めていて、ふと時計をみると8時55分でした。残り25分になっていました。

 

 もう少し眺めていたかったのですが、帰りのバスに乗れなくなってしまいますので、意を決して退出することにしました。

 

 退出の前に、記念の自撮り。

 

 20年ぶりの白糸の滝、最高でした。富士山の太古の火山活動によって形成された雄大な大自然の地形の妙、と言えましょう。

 

 後ろ髪を引かれる思いで、帰りの園路も後ろ向きに歩いて、少しでも長く滝を見続けて心に刻み込みました。

 

 さて、どっちへ行くのか・・・と上図の道標を見上げました。たぶん、駐車場へ向かえば良いかな、460メートルか、と思案しました。いま歩いている帰路の園路は20年前には無かったと思うので、最近の整備事業によって新たにつけられたものだろうと考えました。

 昔は滝のすぐ近くまで行って、また引き返して駐車場に戻ったと記憶していますが、その駐車場がいまでは「富士山・白糸ノ滝テラス」に転じているのでした。
 なので、現在の駐車場は、20年前の駐車場とは別の位置にあることになりますが、それはバス停の横の広い駐車場のことかな、と思いました。

 

 道を登って駐車場へ行く途中に展望場がありました。白糸の滝の西側の断崖上に突き出るようにして設けられています。

 

 展望場からは、白糸の滝の馬蹄形の滝壺が見下ろせました。

 

 さきに滝の近くまで行った時には分かりませんでしたが、上から見る水の色は透き通った綺麗なエメラルドグリーンでした。

 

 富士山も御覧のように真正面に見えました。

 

 何度見ても素晴らしい。見飽きません。こういう景色が見られる家に住んでみたいものです。
 それで、いま嫁さんとすすめている家探しの件で、山梨県や静岡県を候補地に入れたら「ゆるキャンだけで家の場所決めるの、止めて貰えます?」と軽く笑われました。模型はガンガン作るけれど、アニメやアニメの聖地巡礼には全く関心がない人です。

 

 展望場から駐車場へ行く途中に、上図の「お鬢水」の標識がありました。初めて見る名前なので、立ち寄ってみました。

 

 現地の案内説明板です。なるほど、白糸の滝の上にある水流の池ですか・・・。

 

 「お鬢水」は昔から神泉として祀られており、上図の昭和41年設置の古い説明板には3柱の祭神が記されてありました。

 

 これが「お鬢水」です。小さな水溜まりといった感じの池でした。右手の低い方に浅く水が流れていました。

 

 「お鬢水」の奥には、水流の痕跡というか、水が少なくなって枯れた堆積溶岩の切れ目が見えました。降雨期や増水期にはここにも水流が戻って、白糸の滝への支流が見られるそうです。

 つまり、普段はこのように水流が枯れて「お鬢水」が池として静まるわけか、と納得しました。それで滝にかかわる水神への祭祀の拠点として昔から崇められてきたわけか、と理解しました。

 

 「お鬢水」の礼拝所に回ると、正面の池の向こうに岩窟が穿たれて、3柱の祭神の石祠がまつられていました。水面は静かに止まって鏡のように見え、上の景色が逆さまに映っていました。

 増水期には岩窟のすぐ下まで水が溢れるようで、岩窟の真下の岩肌には水の流れた痕跡が見えました。そこまで水位が上がれば、「お鬢水」に近づくことも出来なくなります。その時期には道を閉鎖して立ち入り禁止にするのだろうな、と思いました。  (続く)

 

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(車輌目次表紙)聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ

2024年07月08日 | ガールズ&パンツァー

  使用キット  ボーダーモデル (商品コードBT012)

  制作期間   2023年5月10日~5月19日、5月30日

  製作記事   その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10 完成です!!

  総評・備考
 クルセーダーは、1940年にイギリスが開発した20トンクラスの巡航戦車で、のべ5,000輌以上が製造され、北アフリカ戦線で活躍した。ガルパンにおいては、砲塔を拡大して主砲を6ポンド砲に換装した最終形態のMk.Ⅲが登場し、聖グロリアーナ女学院チームの所属車輌として劇場版から最終章に至るまで数々の活躍をなしている。
 適応キットは古くはイタレリ(下のキット一覧の4)、最近ではボーダーモデルの製品(下のキット一覧の6)が知られ、イタレリの品をタミヤが「タミヤイタレリシリーズ」として販売する品(下のキット一覧の5)もある。ボーダーモデルの品はプラッツの公式キットにもなっており、3種類の公式キットが出ている(下のキット一覧の1から3)。したがって内容的にはイタレリ製品とボーダーモデル製品の2系統に分かれるが、製作の難易度は前者が低く後者が高い。初心者クラスにはイタレリ系統のタミヤ製品がおすすめである。ボーダーモデル系統は公式キットも含めて上級者向けとみておいたほうが良いだろう。
 今回の作例は、なるべく劇中車仕様に合わせて再現することを目指して、劇中車に最も仕様が近いボーダーモデルの品を使用して製作した。ただし履帯は連結式で組み立てが非常に難しいタイプであるので、タミヤイタレリのベルト式パーツに換えて作業量の軽減を図った。

  公式および適応キット一覧(2024年7月現在) 黄帯が今回の使用キット  


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新潟ビゲン高校 ランズベルクL-60軽戦車 作ります!! その2

2024年07月07日 | ガルパン模型制作記

 ステップ3では、引き続き足回りなどを組み立てます。今回の製作では作中車にあわせて改造するのは砲塔部分だけですので、足回りはそのままストレート組み、車体上部の各所に若干の追加工作を行ないます。ここでは組み立てガイドの指示通りに進めます。

 

 ステップ3の工程は3段階に分かれています。上図は1段階で取り付けるパーツ類です。

 

 組み付けました。

 

 続いて2段階で取り付けるパーツ類です。上部転輪が片側2個含まれます。アイルランド陸軍に現存する実車を見ますと上部転輪は鋼製のようでゴム部が見えません。
 作中車の描写では、上部転輪が鋼製かどうかは分かりにくいですが、実車同様と思われます。それで塗装は車体とセットで行えばよいので、ここで組み付けます。

 

 組み上がりました。

 

 3段階で取り付けるパーツ類です。以前にStrv m40L軽戦車を製作した際にも苦労したサスペンションアームB12が含まれます。ホビーボス製品の常で、細かいパーツの取り付け位置がよく分からなかったりしますが、このB12もガイド図をみる限りでは水平に付けるのか、少し斜めに下ろすのかが分かりにくいです。しかも細いので、取り付け時に僅かにズレると、車輪の取り付け部分が綺麗に一直線に揃いません。

 以前にStrv m40L軽戦車を製作した際は、少し斜めに下ろす形で取り付け、車輪の取り付け部分が綺麗に一直線に揃うように定規をあてて調整しましたので、今回も同じ段取りで進めました。が、10個のB12が全て同じ状態ではなく、なかには僅かに反ったり、曲がったりしているパーツもあったので、今回もそれらを修正する作業に追われました。

 

 なんとか組み上がりました。車輪の軸部を綺麗に揃えないと、車輪の並びも揃いませんし、連結式履帯の組み付けもうまくいかなくなりますので、この工程は重要でした。

 なぜここまで丁寧に作業したかというと、今回のキットの連結式履帯は華奢で壊れやすいからです。前にStrv m40L軽戦車を製作した時も、組み立て後に履帯が何度かボロボロと崩れたり外れたりして、その都度修理をしたからです。

 

 ステップ4では車輪類を組み付けます。転輪は塗装後に取り付けます。
 ステップ5では履帯を組みます。個人的にはいつまで経っても慣れない難しい作業で、とにかく苦手ですが、今回のはガルパン車輌キットのなかでも華奢で壊れやすい部類に属するので、真剣に取り組みます。
 ステップ6では、背面部の排気管を組み立てます。

 

 ステップ4の車輪類の組み付けが終わった状態です。起動輪と誘導輪は組み付けましたが、転輪は塗装後に取り付けますので、ここでは仮組みでした。

 

 ステップ5、最も難しい履帯の組み立てに進みました。丁寧に根気よく、般若心経を唱えて無心無我の境地に精神を落ち着かせつつ、少しずつ組み、壊れたりしないかチェックしながら進めました。向かいのテーブルでガンプラを作っていた嫁さんは、笑いを堪えるのに必死だったそうです。

 

 約1時間の苦行苦闘の末、なんとか悟りを開き・・・いや、履帯を上図のように組み上げました。塗装後に車輪に組み付けるので、3分割で仕上げました。
 これでだいぶ楽になったぞ、と一瞬思いましたが、実際にはまだ砲塔の改造を控えていましたから、気分的に楽になったのは一時のみでした。

 

 ステップ6で組み立てる、背面部の排気管のパーツ類です。

 

 組み上がりました。  (続く)

 

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伏見城の面影12 南禅寺金地院の明智門

2024年07月06日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺金地院の山門をくぐり、右脇の拝観受付で拝観料を払った後、U氏が「さあ、まずはあれだな」と上図の庫裏に向かって左手に建つ門の建物を指差しました・

 

 U氏が指さした門の建物です。境内地の中門としての位置にあります。
「あれだ、あれがもと大徳寺の、現在の唐門の位置にあったという明智光秀の寄進門だな・・・」
「うん」

 

 傍らの説明板にも、天正十年(1582)に明智光秀が大徳寺に寄進建立し、明治元年(1868)に南禅寺金地院の現在地に移築した旨が書かれてありました。

 去る5月に大徳寺の特別公開に行った折、この明智門が移築されて後に移されてきた国宝の唐門をU氏と共に見ましたが、その際にガイドの方が「もとはここに明智光秀が寄進した唐門があって明智門と呼ばれていました」と説明していました。そのときの記事はこちら

 

 「これがもとは大徳寺方丈の唐門だったわけか。なんかえらく質素にみえるな」
 「ああ、いまの豪華絢爛な国宝の唐門とは全然違うね。むしろこっちのほうが、大徳寺方丈の佇まいには相応しいね」  
 「そりゃそうだろう、光秀ほどの文化教養人ならばこそ、大徳寺方丈との調和を重視してこういう設えにまとめたわけだ」
 「そういうことやね」

 

 「ただ、規模的にはこっちがちょっと小さいのと違うかな」
 「やっぱりそう思うかね。僕もそれを思ったんよ」
 「この柱とかも、華奢という感じで細いな」
 「まあ、あっちの現在の唐門はもとは聚楽第の門やったと伝わるし、本質的には城郭向けの門やったから部材も太くて堅牢なんやろうな」
 「うむ」

 

 「こっちのは、いかにも寺院中枢部の唐門という雰囲気だな」
 「せやな」
 「彩色の痕跡とか、無いみたいだな。素木づくりの門だったのかな」
 「だろうね、胡粉の痕もまったく見えへんし、大徳寺方丈の正門にあたる唐門だったから、装飾意匠は最低限におさえて目立たなくしてるしね」

 

 「門扉も丁寧にしっかり造られてるね」
 「上部が連子窓になってるの、当初からの状態のまんまなんだろうかね・・・」
 「ん?・・・ああ、なるほど。大徳寺方丈の唐門やった時は連子窓やなかった可能性があるな。基本的に方丈の玄関門は板戸で内部が見えないように造るからね・・・」
 「だろう?ここへ移築してからさ、ここは中に庭園とかあるだろ、そういうのが門を閉じててもある程度見えるように連子窓に改造したのと違うかね?」
 「その可能性はあるな・・・。よし、調べてみる。この門の修理報告書とか出ていれば、詳細は分かる筈」

 

 「屋根裏の木組みだけに装飾の彫り物が施されてるぞ。本当に目立たない、最低限の装飾だ」
 「こういうのが戦国期当時の粋ってもんやったかもしれん。もしくは光秀の美意識やったかもしれん」
 「うむ。派手好みの秀吉とは対照的やな。桃山建築の豪華絢爛さは秀吉個人の好みからきてるんだろうな」
 「信長の時期にも贅沢な建物はあっただろうけど、細部まで色とりどり、ピカピカってのは安土城でも無かったらしいからね。信長のオシャレの感覚は品格があるって感じ。秀吉のオシャレは農民が贅沢な羽織着て単純に喜んでる感じ」
 「まさしく」

 

 明智門をくぐって内側から見ました。太陽の位置の関係で、正面から見ると逆光になったので、内側から見ると上図のように綺麗に見えました。前後とも同じ形の唐破風屋根なので、棟瓦も前後に載せられています。

 

 唐門の内側に広がる庭園の園池です。寛永九年(1632)に崇伝が徳川家光を迎えるために小堀遠州に作庭させたもので「鶴亀の庭」と呼ばれます。国の特別名勝に指定されています。隣には弁天池があります。

 

 明智門は、その「鶴亀の庭」および弁天池を一巡する散策路の起点に位置しており、左手に進むのが拝観順路となっているので、先に弁天池の周りをまわって東照宮に行き、そこから方丈へと回って「鶴亀の庭」を見る、という流れになります。

 

 U氏が唐破風の上の棟瓦を見、スマホで撮っていましたので、私も同じように撮りました。撮影後もU氏がしばらく見上げていたので、横から問いかけました。

 「水戸の・・・、もしかして、明智氏の桔梗紋があるかどうかを確かめたのか」
 「実は、そうなんだ。でもあの通り、桔梗紋は無いなあ・・・」
 「もとは大徳寺に寄進した門だから、普通は大徳寺の寺紋になるのと違うか。いまは南禅寺金地院に在るから、その寺紋に換えられるやろうし・・・」
 「そう、そうなんだな。でも今は寺紋すら入ってない。普遍的な三つ巴紋だ」
 「でも、寄進建立の当初の棟瓦かどうかは分からんぞ。移築してるんなら、小修理というか改造も受けてるだろうし」
 「そういうことだな・・・」

 U氏はちょっと残念そうに、上げていた視線を下ろしました。おそらく、明智光秀建立の確かなしるしを、断片でもいいから、捉えたかったのに違いありません。  (続く)

 

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