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ゆるキャン△の聖地を行く38 その2  馬場家住宅

2024年03月10日 | ゆるキャン△

 高ボッチ高原の天候が回復するまでの二時間ほどを、西麓にある国重要文化財の馬場家住宅を見学して過ごすことにしました。塩尻市の観光協会の方が「見応えありますよ」と言っていた通り、予想以上に立派な、いかにも土豪の館といったたたずまいの古民家でした。

 観光駐車場が屋敷地の背後、東側にあるので、西側の屋敷正面への見学路が北回りで付けられています。屋敷の北辺にいまも残る土塁を見ながら、上図の北西隅にて南に折れ、立派な表門と両袖に長く続く塀を望みました。

 

 正面の西側を見ました。西を通る道は、いまは田畑の中の農道になっていますが、江戸期までは中山道に繋がる幹線路の一つであったと聞きます。付近には古代からの遺跡が分布しているといい、昔は集落もあったそうですが、現在は農地が広がっています。

 

 西に開く表門です。左右に長屋が付属する立派な構えです。門の棟の両端に鯱が取り付けられていて、まるで城郭の門のようです。

 

 表門から屋敷の主屋の玄関口が見えました。江戸期の地方の陣屋建築と陣屋門のような重厚なたたずまいですが、こうした現存例は全国でも稀だろうと思います。私も各地で色々な古民家を見ていますが、これほどの規模と迫力がある構えというのは滅多に見た記憶がありません。

 

 しばらく表門の下に立ち止まり、上図の額縁のような門口の景色を眺めました。

 

 見学案内板です。観覧券は管理事務所で、とありますが、その管理事務所が表門の内外には見当たりませんでした。主屋のほうにあるのだろうか、と考えて、とりあえず見学順路を探しました。

 

 表門を入って主屋の前庭に入りました。右側には上図の立派な門が見えました。格式のある造りなので、もしかして身分の高い人だけが通れる門なのか、と考えました。ここの当主は江戸期には在地の豪農だったらしいので、庄屋か名主を勤めていたのかな、と推測しました。

 その推測に立つ場合、この立派な門は当主より身分が上の人しか通れない筈、と考えます。該当するのは近在の大名家つまり松本藩の松平戸田氏、もしくは高島藩の諏訪氏ぐらいか、と考えました。

 

 表門の内側に設けられた馬場家住宅の案内図です。どうやら江戸期以来の建物がほぼ全て揃って残っているように思われました。なるほどこの保存度は歴史的に貴重で価値がある、国の重要文化財に指定されるわけだ、と納得しました。

 

 見学順路に沿って北側へ回ると、先に外から見た北辺土塁が竹林の下に白っぽく浮かび上がって見えました。綺麗に残っていて、土塁だという実感、説得力があります。

 

 こちらにも案内板がありました。説明文の下のほうに「堀があったのかどうかは、現在のところわかっていません。」とあるので、発掘調査は未実施のままだな、と気付きました。土塁のどこか一点を中心に内外へ5メートルぐらいトレンチを入れて掘ってみれば、堀の有無は確認出来る筈だからです。

 こうした中世戦国期の土豪の居館タイプが、ここのような平地に築かれた場合、土塁を築くと同時に、堀をほるのが一般的です。堀をほって生じた土で土塁を築くからです。土木工事の観点から言うと、土塁と堀は密接に関係してワンセットとみなされるのが普通です。

 なので、ここ馬場家住宅の土塁にも、昔は堀がともなっていた可能性が高い、と思います。上図の北辺土塁の外側の地面がやや窪んで見えるのは、堀の痕跡ではないのでしょうか。

 

 屋敷地の北にある小屋ふうの建物です。何の建物かな、と思って近づきました。

 

 案内説明板です。なるほど、厩か、「灰部屋」も兼ねていたのか・・・。

 

 内部は民具や農具類の保管展示室になっていました。

 

 表門の両側の長屋を見ていなかったことに気づいて、いったん表門のところに戻りました。両側に続く長屋のいずれも、戸口が開放されていて中に入れるようでした。

 

 案内説明板です。明治期には役場が置かれたのか・・・。長屋の片方に巡査が詰めて、もう片方には大工の一家が住んでいたのか・・・。

 

 その、大工の一家が住んでいた片側の長屋に入ってみました。土間から板間に続き、奥に畳の部屋があります。なかなか立派だな、と感心しました。

 

 現在は機織り機が置かれています。大工の一家の息吹を感じさせる大工道具類が全く見当たりませんでした。  (続く)

 

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