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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

豊家の余香9 高台寺傘亭

2024年03月01日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 霊屋の見学を終えて、拝観順路に戻り、霊屋の前で東にあがる上図の階段を登りました。登りながら、U氏が「霊屋が一番高い所にあるのかと思ってたが、もっと上に茶室があるわけか」と言いました。

 実際には高台寺の敷地は東の山にも広がっています。境内地の拝観順路はさらに高い場所まで回りますが、その東側は国が買い上げて国有林となっています。高台寺山国有林と呼ばれ、面積は75ヘクタール余りに及びます。森林法にもとづく風致保安林、土砂流出防備保安林であり、古都保存法にもとづく歴史的風土特別保存地区、鳥獣保護法による鳥獣保護区ともなっています。

 

 茶室の建つ平場に登りました。茶室は二つの建物が並んでいます。上図は北側に位置する茶室で、正式名称は「安閑窟(あんかんくつ)」といいますが、一般的には傘亭(かさてい)と呼ばれます。高台院北政所が慶長年間(1596~1615)に伏見城より移築したと伝えられています。

 

 つまりはもと伏見城の建物であったことになりますが、一説では豊臣秀吉が伏見城築城の際に千利休に命じて作らせたといいます。しかし、千利休は伏見城の造営が始まる文禄三年(1594)の三年前に自刃していますから、この説は矛盾しています。それとは別に、秀吉が利休を偲んで作らせたとの説もありますが、これも確証を欠いています。

 それ以前に、伏見城合戦で全焼壊滅したとされる伏見城に、まだ豊臣期の建物が残っていたのかどうか、という疑問があります。この傘亭が秀吉ゆかりの茶室であるならば、慶長年間の徳川氏による再建期においてまだ焼け残っていた建物であったことになりますが、それも確証はありません。

 なので、由来については今のところは不明、となります。ただ、桃山期の典型的な平屋建て宝形造の数寄屋風の茶室の遺構であることは確かであり、国の重要文化財に指定されています。

 

 この茶室は入り口が西面と南面の二ヶ所にあります。南面は土間廊下に繋がりますので、上図の西面の入口から内部をのぞきました。

 内部は、隅に上段の一畳を敷いて、隣に一畳分の土間を置き、土間の周りに六畳の座敷に台目二畳分の板間を張った形式です。特色は窓の多さで、東西南北の各面に様々なサイズの中連子窓を配置していて、茶室にしては割合に内部に光が良く入る構造になっています。天井は茅葺の下地材の竹と屋根組みがそのまま見えて、開いた傘を下から見上げたように見えます。それが傘亭の通称の由来です。

 

 傘亭の窓の多さは、外側から見てもよく分かります。窓が連続して繋がっている感じで、壁面が僅かです。上図は北側の様子で、窓の半分に連子を入れないで蔀戸を付けて上に跳ね上げて支え木で留めています。とにかく四方に窓が付いて視界も広いので、周囲に何らかの見どころが多かった場所に建てられた茶室だろうと思います。

 この傘亭が、伝承通りにもと伏見城の建物であったならば、庭園か、見晴らしの良い高所にあったのかもしれません。

 

 傘亭の南口からは、上図のように屋根付きの簡素な土間廊下が続いて南の時雨亭に連絡しています。この土間廊下も傘亭とセットの建物であったようで、ともに伏見城から移されてきたと伝わります。国の重要文化財に指定されています。

 

 傘亭の南口に土間廊下が繋がっている様子です。土間廊下の接続部で傘亭の建物も内側に屈折しています。土間廊下から見て左側に躙り口(にじりぐち)が見えますので、突き当りの出入口は、本来は明り取りの機能を兼ねたものと思われます。

 

 土間廊下の反対側、西側にまわって傘亭を見ました。左側の張り出し部分に小さな屋根が付きます。この張り出し部分は板間で、炉が設けられていますので、いわゆる竈土(くど)構えの茶室のタイプにあたります。

 竈土(くど)は竈(かまど)の排煙施設のことで、これを設けた茶室は、千利休の師匠である武野紹鴎(たけのじょうおう)が考案し流行らせましたが、竈(かまど)があるので火を使うと煙が充満しやすくなるのが欠点でした。

 その煙を外に出すべく天井を張らずに、小屋組むき出しの高い屋根を載せて煙突効果を狙った結果が、傘亭の名の由来ともなっている、開いた傘を下から見上げたように見える屋根裏のタイプであるわけです。窓が多いのも、排煙の機能を兼ねていたのかもしれません。

 

 傘亭の見学を終えて、土間廊下で繋がっている南側の時雨亭に向かいました。  (続く)

 

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