気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

伏見城の面影3 常寂光寺へ

2024年03月29日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 天龍寺勅使門を見た後は、長辻通を北へ歩いて丸太町通の交差点まで行き、角の吉崎稲荷社に参拝しました。それから交差点を左折して西へ進み、市営嵯峨住宅の横、嵯峨公園の北へ右折し、次の辻で左折して歌仙洞碑の辻まで行きました。
 
 この道順は、U氏が嵐山へ行く時に好んで選んでいるコースだそうで、今回もU氏が先頭に立ってのんびりと歩きました。上図は、歌仙洞碑の辻へ向かう途中で「長神の杜」の林を望んだところです。

 

 歌仙洞碑の辻を直進して西へ進むと、小倉山の麓の緩傾斜地に入って道はゆるく登り坂に転じました。道をおおう緑のトンネルの向こうに、茶色の門の一部が見えてきました。次の目的地である常寂光寺の山門でした。

 

 常寂光寺の山門に着きました。U氏が、山門の右脇に立つ上図の標石をまず見て、「おぐらやま、じょうじゃっこうじ」と声に出して読み、私を振り返って「この小倉山ってのは、この寺の山号でもあるのかね」と言いました。そうだ、と頷いておきました。

 

 常寂光寺の山門です。現在の建物は江戸後期の再建であるそうで、門扉や袖の塀が格子状に造られています。それ以前の門は袖に土塀をめぐらした薬医門であったようですが、詳しい事は分かっていないようです。

 つまり、山門は今のほうが小さく簡素になってるわけだな、とU氏が言い、私も頷きました。個人的には以前の薬医門も見てみたかったな、と思いました。

 

 山門をくぐって受付で拝観料を払い、石畳の参道を進むと、前方の一段高い石積み基壇上に藁ぶきの仁王門が見えてきました。
 この仁王門は、もとは六条堀川に所在した本圀寺(現在は山科区御陵大岩に所在)の客殿の南門として南北朝期の貞和年間(1345~1350)に建立されたものですが、江戸初期の元和二年(1616)に現在地に移築されています。

 U氏が「この仁王門がまた歴史的に貴重であるわけだな、国の重要文化財になってないのが不思議なくらいだ」と言いました。流石に京都の古社寺の建築には関心を持って色々と勉強しているだけあって、この仁王門の本質的な価値をよく分かっています。

 あまり知られていませんが、この仁王門は本圀寺の京都での最初の門であった可能性があります。周知のように、本圀寺は日蓮上人建立の鎌倉松葉ヶ谷法華堂を前身とする法華宗の寺院で、もとは本国寺と表記しました。いまの本圀寺に改めたのは、江戸期の貞享二年(1685)に水戸藩主徳川光圀が本国寺にて生母久昌院の追善供養を行った際に自らの名から圀の一字を本国寺に与えた縁によります。
 だから本圀寺は水戸藩とも関係が深く、それで水戸藩士の子孫であるU氏も一通りの歴史や由緒を当たり前のように知っているわけです。

 鎌倉にあった本国寺が京都に移転し、皇室の勅願寺とされ、室町幕府の庇護をも受けて六条堀川に建てられたのは貞和元年(1345)三月のことでした。その後、本国寺は天文五年(1536)の天文法華の乱で焼き討ちを受けて壊滅、永禄十二年(1569)には本国寺を居所としていた足利義昭が三好三人衆により襲撃される本圀寺の変の戦場となって被害を受けています。その後、残っていた建物の一部は織田信長が足利将軍家のために建設した二条御所(旧二条城)へ運ばれています。

 なので、このもと本国寺の貞和年間(1345~1350)に建立された仁王門というのは、現存する京都六条堀川移転時の唯一の遺構である可能性が考えられます。京都移転の年が貞和元年(1345)ですから、年代的にも合いますし、建築の様式も室町期の特色がまだ出ていないので、南北朝期の様相を反映しているとみても間違いありません。

 この仁王門には、左右に金剛力士像が安置されています。寺では運慶作と伝えていますが、調査がなされていないために詳細は不明です。仁王門本来の安置像ではなく、福井県小浜市の長源寺から移されたものですので、仏像彫刻史研究の視座においては若狭地方の仏像の歴史をベースにして捉えるべき遺品だと思います。

 U氏が「若狭にはこういう金剛力士像は多いみたいだな」と言い、私も「そうやな、小浜じゃあちこちにあるもんな」と応じました。運慶作というのは単なる伝承に過ぎないけれども、中世後期の遺品であることは間違いなく、作者の系譜はだいたい慶派仏師に連なるだろう、というのが私自身の個人的な見立てです。

 

 仁王門の前から参道を振り返りました。いい雰囲気です。

 

 仁王門をくぐると、上図のように地形的には急な傾斜地となります。小倉山の西麓の中腹に境内地の中心部があるので、さらに高い所まで石段を登る必要があります。

 仁王門から上の境内地へは、真っすぐに進む階段と、右に迂回して境内地の北側に回る上図の石段の二つのルートがあります。U氏が「行きは正面から登ろう」と言ったので、上図の石段は帰りに降りました。

 

 仁王門から上の境内地へ真っすぐに進む階段です。後から新しく追加されたような、小奇麗な感じでしかも急です。

 

 登っていくと、上図の本堂の前に出ました。U氏が指さして、これか?と聞きました。そうみたいやな、と頷きました。

 

 この本堂が、寺伝によれば、 慶長年間(1596~1615)に小早川秀秋の助力によって伏見城の客殿を移築したものと伝える建物です。

 U氏も私も、この常寂光寺を訪れるのは今回が初めてでしたから、この本堂の建物も初めてみました。まことに伏見城の建築であるのか否か、と二人で並んで本堂の南面に近寄りました。  (続く)

 

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