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「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

豊家の余香10 高台寺時雨亭

2024年03月04日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 傘亭から時雨亭(しぐれてい)に移動しました。両者は屋根付きの土間廊下で繋がっていますが、伏見城にあった時からその状態であったのかは不明です。

 時雨亭は、御覧のように二階建ての建物です。傘亭と同じく高台院北政所が慶長年間(1596~1615)に伏見城から移築したものとされ、これも千利休好みと伝えていますが、確証はありません。傘亭と同じく、国の重要文化財に指定されています。

 

 一階の様子です。内部へは立ち入り禁止ですから外から見るだけになりますが、このように傘亭と連絡する土間廊下の横から出入口に進んで中へ入る形式です。

 平面規模は東西二間、南北一間で、これを四畳半大の土間と三畳大の板の間とに分けています。東奥の壁際には竈土(くど)が2口設けられており、勝手の場として使われていたようです。

 

 二階へは、上図のように土間廊下から階段で上がる形式です。時雨亭は二階がメインの造りとなっていて、内部は三畳大の板の間と三畳大の上段からなり、東端の一畳半は南北に分かれ床と竈土(くど)が設けられています。茶室を兼ねた展望所としての性格があったようで、上段の三方は外部を突上げ戸とした肘掛窓となっており、視界が広く楽しめるようになっています。

 

 二階の天井が見える角度で見上げました。御覧のように傘亭と同じく天井板を張らずに、屋根裏の小屋組みの竹が上まで見える状態になっています。傘亭と共通する屋根の造りから、伏見城にあった時にも密接な関連にあったものと推定されます。茶室としての傘亭、展望所としての時雨亭、のセット関係にあった可能性も考えられます。

 

 外側の南面を見ました。二階の窓口は大きく作られて蔀戸を跳ね上げて吊るしています。上図は半開きの状態ですが、支え棒を上にあげて固定すれば、全開となって視界が最大限に広がります。
 右側の東窓には丸窓が開けられていますが、これは床の間の壁にあたります。丸窓そのものを掛け軸に見立てて外の景色を取り入れる、粋な手法です。

 

 この時雨亭は、一説では伏見城の「御学問所」ではないかとされています。これに関してU氏が「御学問所っていうと、伏見城の山里丸にあったといわれてるらしいが、こんな簡単な小屋なんかね」と疑問を発しました。

 御学問所といえば、京都御所に現存する天皇専用の立派な建物とかのイメージが一般的にはありますから、U氏も時雨亭の簡素な造りとのギャップに違和感を覚えたようです。

 ですが、私自身は、豊臣秀吉が伏見城内にて「御学問所」として設けた施設は、時雨亭のような簡素で質素なしつらえであった可能性が高いと考えています。戦国時代の武将のなかで、秀吉ほど山里や山水といった自然の景色、いわゆる鄙(ひな)の空間に憧れて平安朝以来のいわゆる「市中の隠」の空間思想を居城に持ち込んだ人も居ないからです。

 秀吉が築いて拠点とした城郭は、姫路城、大坂城、聚楽第、名護屋城、伏見城のいずれもそうですが、城内の一角に山里丸という空間を設けています。山里の名前の通り、人工的に山里を造成して木々を植えて庭園などを配し、花鳥風月を愛でて鄙(ひな)の空間世界を楽しむ一方、諸大名をもてなして統制する重要な場所としても利用していたようです。

 そういった、自然の景色に包まれた「市中の隠」ならぬ「城中の隠」である山里丸の施設には、立派な櫓や建物よりも、現在の傘亭や時雨亭のような、茅葺の詫びた簡素な建物が似合っていただろうと思います。
 政治や合戦に明け暮れる多忙な日々の中で、つかの間の静かなひと時を自然に包まれて隠遁の気分で過ごしたであろう秀吉が、「御学問所」を伏見城の山里丸に設けるとすれば、時雨亭のような質素な建物が最も適していたのではないか、と思います。

 

 なので、この時雨亭や傘亭が、伏見城から移築されたとする伝承は、個人的には本当だろうと考えています。もとは伏見城の山里丸にあって、宇治川の船付き場も眼下に見下ろせる場所に建っていたのではないかと推測しています。ただ、文献史料などの確証を欠いているのが残念です。

 以上の内容を話すと、U氏は少し考えて首を傾げたあと「伏見城の建物って、治部少輔(石田三成)が伏見城合戦で鳥居元忠の東軍を攻めた時に全部焼き払ってるんじゃなかったか?豊臣期の建物は全て焼かれたんじゃないのか?」と言いました。

 その通り、石田三成が慶長五年(1600)八月の伏見城合戦後に真田信幸にあてた報告では「悉懸火不残一宇焼払候事」とあり、また佐竹義宣にあてた報告では「一宇も不残焼捨候事」とあって、要するに「(伏見)城内悉く火をかけやけうちにいたし候」となっています。

 しかし、石田三成が悉く火をかけて焼き払った「城内」とは、本丸、二の丸以下の城郭主要部を指すのであって、城の防御区域に含まれない外郭部は含まれていなかった可能性があります。その外郭部には、山里丸も含まれるのですから、その範囲までは石田三成の焼き討ちが及んでいなかった可能性があります。

 

 なので、山里丸が戦禍に巻き込まれていなければ、そこにあったと言われる「御学問所」や「茶室」も難を逃れ得たことになります。これらの残っていた建物を、北政所が高台寺に移築したのが、現在の時雨亭や傘亭であるのではないか、と個人的には推測しています。同じ高台寺に移築されている庭園の「観月台」も、たぶん同じ山里丸にあったのだろう、と考えています。

 なぜそのように考えるのかというと、同じ伏見城の山里丸にあったとされる建物が他にも現存しているからです。いま滋賀県大津市の園城寺にある国重要文化財の中世期の三重塔は、もとは奈良県吉野郡の比蘇寺(現在の世尊寺)にあった東塔を慶長二年(1597年)に豊臣秀吉が伏見城に移築したものであり、これが山里丸に残っていたのを、慶長六年(1601)に徳川家康が園城寺に寄進して現在に至っています。

 この三重塔が伏見城山里丸にあった頃は、いまの安土城の捴見寺三重塔のように相当目立っていた筈です。それが伏見城合戦で石田三成が「一宇も不残焼捨候事」と報告しているにもかかわらず、残っていたわけですから、山里丸そのものが戦場の範囲外だったと考えられるわけです。
 なので、三重塔よりも小さく、庭園や木々の間に隠れていた「御学問所」や「茶室」が残ったのは当然だろうと思います。

 

 なので、上図の時雨亭、傘亭、そして屋根付きの土間廊下は、豊臣期に伏見城山里丸に設けられた「御学問所」や「茶室」に該当し、それが伏見城合戦にも巻き込まれずに残存し、これを徳川期の伏見城再建に際して北政所が貰い受けて高台寺に移築した、という流れだったのだろう、と推測しています。徳川家康としても、秀吉ゆかりの建物ですから、伏見城にずっと置いておくよりは、北政所の高台寺に引き取って貰ったほうが良いと判断したに違いありません。

 このことをU氏にも説明して見解を問うたところ、「なるほど、実にシンプルなストーリーだな、最も有り得るな、それでいいんじゃないかな、歴史のロマンってのは案外シンプルな事実の積み重ねだと思うからな」と納得していました。

 

 かくして、二人ともなにか満足した気分になって、拝観順路の下り道をたどりました。高台寺境内地の南側が、嵐山の竹林にも劣らない美しい景色をもつことはあまり知られていませんが、ここでも上図のような「竹の小径」の雰囲気が味わえます。

 むしろ、こっちのほうが「竹の小径」らしいんじゃないか、とU氏が言いました。嵐山の「竹の小径」は枯れ竹や倒れ竹も混じっていて、ある意味荒れ気味なので、ここ高台寺の手入れも行き届いた竹林のほうが、綺麗な感じに見えます。隠れた名所の一つでしょう。

 

 拝観順路の終点は、上図の大方丈の正門たる勅使門でした。以上で、なかなかに知的好奇心をそそられて考察も楽しめた、高台寺の見学を終わりました。
 再び「ねねの道」へ降りて、東山通りへと下り、次の目的地へ向かいました。  (続く)

 


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