気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

BC自由学園 ARL44 完成です!!

2024年08月31日 | ガルパン模型制作記

 塗装作業を行ないました。サーフェイサーを薄く吹き付けた後、ミスターカラーの60番のRLM02グレーで吹き付け塗装しました。履帯および予備履帯は28番の黒鉄色を吹き付けました。

 

 車外装備品を塗りました。ワイヤーの金属部分は28番の黒鉄色、ロッドの木製部分は43番のウッドブラウンで塗りました。

 

 ワイヤーは100均の飯田水引で作っていますが、これは塗料もよく乗って塗りやすい素材です。仕上がりも劇中車と同じパイプ状でなかなか良いと思います。

 

 車体前面部の車外装備品も同様に塗り分けてから組みつけました。

 

 前照灯は、レンズ部のA41をウェーブのアイズのクリアパーツに置き換え、A39の内部を8番のシルバーで塗ってからクリアパーツを取り付けました。

 

 尾灯はポスカの赤で塗りました。

 

 砲塔左右側面の予備履帯を取り付けました。

 

 履帯をはめ込みました。ぐるっと巻いておいて、転輪の上で両端をカチッとはめるだけで繋がりました。

 

 フランス戦車の履帯は、以前に作ったB1bisやソミュアS35もそうでしたが、本当に楽に作れます。パチパチはめて繋ぐだけで、接着剤も不要ですから、可動もします。他の国の戦車の履帯も同じように作れたらいいのに、と何度も何度も思います。

 

 校章マークのデカールは、キットに付いているものを砲塔側面の後方に左右対称に貼りました。上図は左側側面のマークです。

 

 そしてこちらは右側側面のマークです。校章マークは車体には付いていません。

 

 車体には、押田ルカの搭乗車にのみ、識別マークとみられるクラブが付いています。車体左右側面の後方と・・・。

 

 背面部の右側につきます。白い縁取りを施した青色のクラブです。

 

 最後につや消しクリアーを薄く吹き付けて仕上げました。

 

 やっぱり90ミリ主砲の超砲身が目立っていて、いかにも強そうに見えます。劇中でも同士討ちさえやらなければ、数とも相まって相当のプレッシャーを相手に与えただろうと思いますが・・・。

 

 背面部の形状は、フランス戦車にしては大雑把な輪郭を示します。戦時中の占領下にて極秘裏に開発設計が進められたことも影響しているのか、シンプルで無駄がありません。戦時型のタイプ、と表現出来るかもしれません。

 

 かくして、BC自由学園チームのARL44が、押田ルカ搭乗車仕様にて完成しました。製作日数は、2023年7月18日から7月26日までの計9日でした。他のキットと並行して製作していた時期もあったので、塗装はまとめて10月22日に実施しました。

 今回はプラッツの公式キットを使用しました。元製品はアミュージングホビーの品で、1/35スケールのキットとしては唯一です。普通に組み立てれば、ソミュール戦車博物館などに現存する実車の姿に仕上がるのでしょうが、劇中車は色々と独自の要素を含むので、それらの再現に向けての追加工作が必要でした。いずれも簡単な作業で済みました。総じて組み易く、塗装も楽なほうでしたので、初心者向けとしてもおすすめ出来るキットだと思います。

 

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伏見城の面影19 長楽寺へ

2024年08月30日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2024年4月8日の夕方、水戸の友人U氏から電話がありました。
「右京大夫、京の桜は咲き始めた?」
「ああ」
「では、今度の土日に一泊二日で行く」
「合流場所は?」
「地下鉄東山駅の出入口に8時」
「承知」

 かくして4月13日の朝、いつもの祇園四条のカプセルホテルに前泊してバスで東山三条までやってきたU氏と、上図の地下鉄東山駅前で合流しました。2月に続いて三度目の旧伏見城移築建築巡りがスタートしました。

 

 東山駅前から三条通を少し東へ進み、U氏が「ちょっと路地裏歩きがしたいね」というので上図の五軒町の路地道を歩いてやや遠回りし、神宮道へと向かいました。

 

 神宮道に出て右折し、ゆるやかな登り坂をたどっていくと、左手に上図の青蓮院門跡の表門が見えました。

「あの泰然とした、雅な佇まいはいつ見ても変わらんなあ、かつては内紛とかゴタゴタだらけだったのが嘘みたいだなあ」
「水戸の、その内紛やゴタゴタってのは、左翼や総評(日本労働組合総評議会)のスト騒動や中核派の放火事件のことかね?」
「それもあるが、一番大きかったのは先の門主が世襲制を入れようとして天台宗と揉めた件だな。天台宗は住職の世襲を認めてなかったからな・・・。次いで多数の文化財が青蓮院の所有から離れてる件があるが、これも先の門主のときだったんで、どういう経緯があったのかと国会でも問題になってたよ」
「ふーん、そんなことがあったんか、先の門主ってヤバイ人物だったのかね?」
「なんだ、星野が知らんのは意外だな・・・、ヤバかったのは間違いないが、旧皇族だぞ。香淳皇后の弟だからな」
「えっ」
「だから、いまの上皇陛下は甥、今上陛下は大甥にあたられる」
「・・・香淳皇后の弟、ていうと、久邇宮(くにのみや)家やな、それが青蓮院の先の門主やったのか・・・」
「そう、久邇宮家の三男で、東伏見宮家に入って、戦後に青蓮院門主になってる。東伏見慈洽(ひがしふしみじごう)を名乗ってるけれど、あれもおかしいんだよな。皇室典範じゃ皇族の養子は認めてなかったし、宮内省も認めてなかったのに、臣籍降下で華族になって改めて「東伏見」の苗字を賜ったということになってる」
「ふーん、それが世襲制を入れようとして天台宗と揉めたってのは、自分の子に青蓮院門主を継がせようとしたわけか」
「そう、現にそうなってる。旧皇族の権威に天台宗が屈服させられてな、いまの門主は息子の東伏見慈晃(ひがしふしみじこう)だし、今度はその長男が次の門主になるらしい」
「ふーん、そうやったのか、天台宗の名門青蓮院が東伏見の一族に完全に乗っ取られた感じになるわけか・・・」
「そういうことだ。伝統ある由緒正しき名刹の歴史も、住職に誰がなるかで左右されちゃうわけ。旧皇族であったとしても、天台宗の三門跡寺院の格式にふさわしい人物かどうかとなれば、また別の問題だよな・・・」

 

 話しながら歩いているうちに、知恩院の裏門にあたる上図の黒門の前を通りました。

「この門を細かく見ていたのも、もう二年前になったか」(当時のレポートはこちら
「月日の経つのは早いもんやな。僕も京都に凱旋移住してからもう五年が過ぎた」
「そうか。で、あの門は、豊臣秀吉期の木幡山伏見城の城下町の門の建築遺構、という可能性で考えていいんだよな」
「ああ」
「それにしても不思議だよな。いま現存してる旧伏見城の建物ってさ、殆どが徳川家に関連する寺社に残ってるんだよな。徳川家の伏見城の建物ならともかく、豊臣期の建物なんて破壊しちゃいそうなもんなのにな」
「そうやな。徳川政権が豊臣政権の次に国政を預かる事を明白にならしめる意味で、前政権の遺品をまとめて管理するという意味合いもあったかもしれん。全てを破壊していなかったところをみると、良い建物は良いと認めて後世に残そうととする配慮はあったのかもな」
「なるほど、そういうことかもしれんな・・・」

 

 やがて上図の知恩院の三門の前を過ぎました。

「やっぱり京都の徳川家の菩提寺だけのことはあるねえ、建物も敷地の石垣の構えも、見る者を圧倒してくるような規模で意図的に造られてる気がするな」
「そりゃそうやろう、德川家は京都に二条城を構えてるけど、二条城は実質的には御殿とか迎賓館クラスの施設なんで、あれだけでは有事の際に拠点として使えない。だいいち、囲まれたら終わりや。やっぱり、防御戦に有利な山を抱える場所とか、堅固な要塞みたいな丘上の寺院でないと軍事作戦が有利に展開出来ないからな」
「うん、そういうことだな」

 

 知恩院の南門をくぐって、円山公園に入りました。

 

 円山公園の奥の高所に立つ、上図の坂本竜馬および中岡慎太郎の銅像。

「この歴史人物の片方、坂本竜馬はさ、最近の研究によって色々と史観が変わりつつあるようだな。司馬遼太郎の小説のイメージが定着しすぎて超有名人になってしまったため、史実とはかけ離れてしまってたのが是正されつつあるのかも」
「それはあるな。でもこの二人を揃えて幕末維新の二偉人とするのは、そんなに間違ってないと思うな」
「それ、筑前福岡藩の早川養敬の証言だったかな、坂本龍馬は青写真が秀逸だったけれど、中岡慎太郎を語らずしてそれは成り立たず、とかな」
「うん、そう。薩長和解の斡旋かて竜馬の功績みたいに言われてるけど、あれも慎太郎の内助の功というか、水面下での働きがすごく影響してるはずやね」
「それは竜馬本人も認めてるもんな。ええと、手紙だったっけ、確か「「我中岡と事を謀る往々論旨相協はざるを憂う。然れども之と謀らざれば、また他に謀るべきものなし」って書いてるよな」
「ええコンビやったと思うで。当時の人々もそう捉えていたやろうし」
「だから、敵対勢力から見たら最大のターゲットになるわけだな。二人揃ってるところを襲撃して暗殺してるのは、ちょっと話がうますぎるよなあ」
「当時もそういうふうに言われてたみたいやけど、よくピンポイントで暗殺出来たもんやな・・・」
「そりゃ実行犯がそれだけ優秀だったわけだろ。諸説あるけど、京都見廻組の可能性が高いというのも納得出来るな」
「新撰組は関与してなかったんかね?」
「どうだろうなあ、あっちは所詮私兵の集まりだ。京都見廻組は幕府の一種の警察組織だから情報収集能力も組織のパワーで綿密に抜かりなくやる筈。攘夷運動の2トップを一挙にやる、ってのも組織の合理的思考からくる作戦だったんだろうな」
「なるほど・・・」

 

 色々と話しているうちに、最初の目的地である長楽寺の参道に着きました。前回の京都巡りにてU氏が「次に行こうぜ」とリクエストしていた時宗の古刹です。

 

 参道入り口の右脇に立つ案内板です。この種の案内板の前でU氏は必ず立ち止まり、真剣な目つきで三度読みます。内容的に正しいかどうかの判断はいったん横に置いて、まずは書かれてある情報を仕入れておく、というスタンスです。

 

 それから参道を登って上図の山門の前に至り、二人で並んで一礼しました。その後にU氏が門の右側の立札を指差しましたので、つられて視線を向けました。

 

 U氏が指差した立札です。

「お、寺の後山に水戸藩士の墓地がある、と話していたんはこれのことか・・・」
「さよう、われらが水戸藩28万4千石の、赫奕たる歴々の勇士が静かに眠る清浄の聖地である」
 わざと低い声音で重々しく答えるU氏でした。

 

 それから山門をくぐりました。

 

 この時期、春季特別展が「建礼門院秘宝展」と題して開かれていました。そのためか、拝観料が追加されて千円になっていました。

「なんと、千円も取るとはこれ如何に。水戸藩28万4千石の光輝なる尊王精神を何と心得ておるのか・・・」
 今度は声高に周囲に聞こえるように誰も居ない境内に言い、憤慨するU氏でした。  (続く)

 

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BC自由学園 ARL44 作ります!! その8

2024年08月29日 | ガルパン模型制作記

 ステップ13では砲塔の前面部や砲塔側面左右の予備履帯を組みつけます。予備履帯は塗装後に取り付ける予定ですが、片方だけ位置をややずらす必要があります。
 ステップ14では砲身を組み立てます。ラストのステップ15では砲塔および砲身を組み立てて、履帯を組み立てます。全てガイドの指示通りに進めます。

 

 ステップ13で組み付ける砲塔前面部や予備履帯です。予備履帯は塗装後に取り付ける予定ですが、取り付け位置がやや異なります。指示通りに付けると左右で非対称の位置になりますが、劇中車の予備履帯は左右対称の位置に付くので、右側の履帯をやや後ろにずらして左側の履帯と対称の位置に合わせます。それで上図のようにA36の位置もやや後ろにずらして取り付けてあります。

 

 砲塔前面部を組みつけました。

 

 ステップ14で組み立てる砲身のパーツ類です。90ミリDCA45艦載対空砲にマズルブレーキを付けて戦車用に置き換えた超砲身のパーツが印象的です。

 

 組み上がりました。

 

 ラストのステップ15に至りました。砲身を砲塔に組みつけました。接着はしていません。

 

 なぜかというと、砲身があまりにも長すぎるため、付けたままでは収納が大変になります。上図のように取り外し自在にしたうえで、収納時には砲身を外して仕舞えるようにしました。

 

 最後の作業は履帯の組み立てです。片面64個を使用しますが、以前に作ったB1bisと同じ形式の履帯で、パチパチとはめ込むだけで繋がります。接着剤も不要なので楽です。

 

 片側の64個を、10個の6本、4個の1本で組みました。

 

 両側の必要分を繋いで、まだ上図右のようにパーツが余りました。

 

 左右の履帯を繋いで上図のように組み上げました。

 

 片側を試しに車輪に巻いてみました。ピッタリというより、僅かに緩みがある程度でおさまりました。履帯は塗装後に取り付ける予定です。  (続く)

 

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BC自由学園 ARL44 作ります!! その7

2024年08月29日 | ガルパン模型制作記

 砲塔の組み立ての続きです。ステップ12に進んでパーツ類を切り出して準備しました。ガルパン仕様への追加工作が四ヶ所にあります。また左側面のアンテナと架台のパーツ番号が抜けていますが、アンテナはC36、架台はC32です。

 

 追加工作の一ヶ所目は、上図の砲塔右側面のボックスB17です。蓋の線がモールドされていますが、パーツのサイズがやや小さいです。

 

 劇中車のボックスは御覧のように縦の寸法が長いです。上面の蓋部分が僅かに出っ張ります。

 

 モールドされている蓋の線を削り取って、上に厚いプラ板を被せて蓋としました。

 

 追加工作の二ヶ所目は、上図の砲塔ハッチ横の機銃架とみられるパーツC35です。劇中車の同部品と比べると形状が異なります。

 

 劇中車の同部品は、御覧の通りもっと大きなサイズで、円筒状になっていて上面に穴が開口しています。これに合わせます。

 

 プラ棒とプラ材を組み合わせて上図のように作りました。二段の段差も再現しました。

 

 追加工作の三ヶ所目は、上図の砲塔ハッチC26のセッティングです。

 

 キットの組み立てガイドの指示通りに組むと、上図のようにピッタリと閉じた状態になります。

 

 ですが、劇中車においては上図のように覗き窓が機能する分だけハッチを上にあげています。上図のシーンの車輌だけでなく、他の僚車も同様でしたので、試合中はこのようにハッチを少し上げているもののようです。この状態に合わせます。

 

 上図のように、パーツの内側に細長くカットしたプラ板を仕込みました。

 

 それでセットすると、劇中車の状態になりました。覗き窓が機能する分だけハッチが上がっています。

 

 追加工作の四ヶ所目は、上図の砲塔背面のラックC15の横棒の修正です。キットのパーツでは3本ですが、劇中車では2本になっています。

 

 ラックC15の横棒の数を3本から2本に修正して組みつけました。

 

 次第に砲塔の姿が劇中車の仕様に仕上がってきました。ステップ12の工程が完了しました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く40 その8  群馬県立歴史博物館へ

2024年08月28日 | ゆるキャン△

 高崎駅ビル内の「水香苑」にて水沢うどんの昼食をいただいた後、駅の観光案内所へ行って観光地図や資料を貰いました。ゆるキャンの榛東村エリアの聖地巡礼は午前中で完了しましたので、午後はフリータイムとなりました。

 それで、どこへ行こうかと考えを巡らし、ずっと昔、平成の初め頃に、大学時代の知人に誘われて行った妙義神社に参拝しようかと考えましたが、資料を見て妙義神社までのバス便が廃止になっていることを知り、諦めました。ならば、群馬県の歴史博物館へ行くか、と思いつきました。

 私はもともと文化財学専攻で仏教美術史が専門ですが、歴史全般や文化財にも関心がありますので、全国各地を旅行してたいていの史跡、神社仏閣、城郭、建造物、博物館施設を回っています。それで各都道府県の県立博物館へは必ず行くことにしていますが、群馬県の歴史博物館は行ったことがありませんでした。いい機会だ、と思ってすぐに行き方を調べ、高崎駅東口からバスが出ていることを知りました。

 早速バス停へ移動し、待機していた14時30分発のバスに乗り込み、29分後の14時59分に上図の「群馬の森」バス停で降りました。

 

 下車後に時刻表で帰りのバスの時刻を確認しました。博物館の見学にはだいたい一時間余りをかけることが常なので、17時までの時間帯にバスがあれば、と思いながら探すと、16時54分発がありました。これにしよう、と決めました。

 高崎駅から群馬の森までの路線は、上図の通り岩鼻線で系統は16番です。運賃は200円でした。

 

 バス停は、群馬の森の西口のすぐ前にありましたので、東へ進めば公園のゲートに至って上図の公園内に入りました。

 群馬の森は、正式名称を「アイ・ディー・エー群馬の森」といい、1968年の「明治百年記念事業」の一環として全国に森林公園設置が設置された際に、群馬県が高崎市内に設けた県立総合公園です。

 

 公園内は御覧のように広々としています。もとは陸軍が1882年に設置した「東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所」の敷地で、1923年に「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」と改称し、1940年に「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」と再改称して、1945年の終戦まで黒色火薬やダイナマイト、軍用火薬、民間用の産業火薬の生産・供給を行なっていました。

 そのため、公園内には爆風避けの土塁や当時の建物や壁の一部が残されています。公園の案内マップを見て、近くにある工場跡の建物と射撃場のコンクリート造トンネル跡へ寄ってみましたが、柵が巡らされて立ち入り禁止、夏の草藪にほぼ覆われていて殆ど見えませんでした。外側の塀や門の跡はなんとか見る事が出来ました。

 

 現在の群馬の森の公園内には、芝生広場やあそびの広場、わんぱくの丘、かたらいの丘などの設備があるほか、ウォーキングコースやサイクリングロードもあり、群馬県立近代美術館や群馬県立歴史博物館などの文化施設もあります。
 上図は、群馬県立近代美術館とその前庭の馬の銅像です。

 

 群馬県立近代美術館の東隣に、目指す群馬県立歴史博物館が建っていました。御覧の通りのオシャレな三角錐ふうの耐震防火建築です。

 

 群馬県立歴史博物館といえば、令和二年に国宝に指定されたばかりの「綿貫観音山古墳出土品」が一括して展示されていることで知られます。私自身も長いこと見たいと思っていた、古代の東国を代表する考古学資料の一つです。

 上図は、出土した埴輪群像の一部、三人の女子像です。綿貫観音山古墳の横穴式石室の開口部から前方部にかけて中段テラスに配列された形象埴輪群の一部で、被葬者の首長権継承儀礼の場面で並んで奉仕する女官を表しているのであろうと考えられています。

 

 これが綿貫観音山古墳の復原模型です。実物は群馬の森の北約600メートルに位置して国の史跡に指定されています。造営当初の外観と埴輪群像の配置がよく分かります。

 古墳の墳丘の長さは97メートル、後円部は径61メートル、高さ9.6メートル、前方部の幅は64メートル、高さ9.4メートルを測ります。二段に築成されており、二重の馬蹄形の周堀を持ちますが、上図の模型では周堀は後円部のみに明瞭です。

 

 出土した埴輪群像の一部です。馬と従者の列をかたどっており、馬は軍用としての装いに表されています。被葬者の経済力および軍事力のありさまが伺えます。群馬県だけに馬の群れが多かったのか・・・?(アホかお前は)

 

 埴輪群像のなかでもひときわ大きな武人像です。「貴人の埴輪」とされ、鎧をまとい剣を帯びていますが、甲ではなくつば広の帽子のようなものをかぶっています。被葬者の首長権継承儀礼の場面で参列する人々のなかに位置しており、被葬者の一族か関係者にあたるのかもしれません。

 

 ここの出土品が凄いのは、古代の中国や朝鮮からの製品も含まれていて国際色豊かな様相を示しているからです。
 墓の副葬品の総数は500点を越えますが、そのうちの銅製水瓶(すいびょう)は、中国の北斉様式の遺品です。また獣帯鏡(じゅうたいきょう)は朝鮮の百済の武寧王陵より出土した獣帯鏡と同笵(同じ鋳型から製作された)関係にあります。さらに装飾馬具は朝鮮の新羅の製品で、突起付冑などは朝鮮の伽耶系の遺品です。

 また、上図の金銅大帯は国内でも出土例が稀で、鈴を複数取り付けて垂らしている例は、この綿貫観音山古墳の遺品が唯一です。古墳の築造年代が六世紀後半とみられることとあわせると、被葬者は六世紀代のヤマト王権の関係者かまたは関与していた当地の有力者であったかと推定されます。国際色豊かな副葬品の数々は、被葬者が対外交渉に関わったか、または半島へ行き来したことによって入手したか、もしくはそれらを与えられる地位にあったことを推測させます。

 いずれにせよ、当時のヤマト王権の東アジアとの交流を示す重要な遺品群であることは間違いなく、その価値が認められての国宝指定であったわけです。
 ちなみに群馬県の国宝は、他に旧富岡製糸場の建築群があるだけですので、綿貫観音山古墳出土品の存在感がいかに大きなものであるかが分かります。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く40 その7  上州名物水沢うどん

2024年08月27日 | ゆるキャン△

 しんとう温泉でゆっくり休んで過ごした後、12時20分に退出して隣の榛東村役場へ戻りました。再度中へ入って、エントランスロビーにある村の地図や観光マップ、観光チラシなどを資料として貰いました。

 

 役場前の群馬バスのバス停には12時27分に着きました。バスの時刻は12時30分でしたが、どのくらい遅れるだろうか、と予想したりしました。

 

 ですが、時間きっかりにバスがやってきました。行きに利用した日本中央バスとは異なって、群馬バスは時間厳守であるようでした。利用者目線のバス運行に徹しておられるようで、有り難い事でした。

 

 そして、これまた時刻表きっかりの13時16分にJR高崎駅西口バスターミナルに着きました。榛東村役場から46分で終点に着いたわけです。

 この高崎駅前からの群馬バスの路線は伊香保温泉や榛名山にも通じていますので、作中にて各務原なでしこ達が榛名湖観光を終えたのちにバスで高崎駅に移動しているのも頷けます。

 その後3人は特急「草津四万」にて長野原草津口駅まで行きますが、榛名湖から渋川駅経由でも特急「草津四万」にて長野原草津口駅へ行くことは可能です。渋川駅経由のほうが移動時間も短くて楽なのですが、榛名湖から渋川へ行くにはバスを伊香保温泉で乗り換える必要があり、そして3人が買いたかった荻野屋の釜めしは、渋川駅では販売していません。

 しかも、榛名湖から高崎駅へはバス1本で直接移動出来て、高崎駅内には荻野屋の釜めしの売店もありますから、各務原なでしこ達も高崎駅へ移動しているわけです。あと、高崎駅前にスーパーマーケット(イオンスタイル高崎駅前店)があってキャンプ用の食材の買い出しが出来るのも理由の一つでした。

 また、作中で各務原なでしこ達が釜めしや弁当を買った高崎駅内の改札口横の売店(駅弁屋上州1号売店)が、残念ながら2023年秋に閉店していたことを今回の聖地巡礼中に現地で確認しました。隣のコンビニNewDaysの拡張によって店舗が無くなってしまっていました。
 ですが、釜めしや弁当は、そのコンビニNewDaysで引き継いで販売していますので、買う場所そのものは変わっていません。また駅内の別の売店(駅弁屋上州2号売店および3号売店)でも釜めしが買えるそうです。

 

 さて、バスターミナルから駅ビルの外観を見上げて確認し、ペデストリアンデッキへ上がりました。少し西側へ移動して上図のアングルを撮りました。

 

 作中の右のコマのアングルでした。左の垂れ幕の書店名が「ながさわ」に変えてありますが、あとは同じです。駅ビルの時計が13時55分ですので、各務原なでしこ達が群馬総社駅まで乗ったJRの列車の時刻が14時前後だったのだろうと推測出来ます。

 が、左のコマで「そこから北上すること約40分」とあるのは間違いです。高崎駅から群馬総社駅までは15分しかかからないからです。約40分というのは、横川駅から高崎駅を経て群馬総社駅までの所要時間だろうと思います。横川駅から高崎駅までが約30分かかるからです。

 今回の聖地巡礼にて実際に乗って確認したところ、横川駅から高崎駅までが28分、高崎駅から群馬総社駅までが15分でしたので、あわせて43分がJR線の横川駅から高崎駅経由で群馬総社駅までの移動時間となりますが、さらに高崎駅での乗り換え時間が数分プラスされます。すぐに乗り換え出来たら43分、ということになります。

 

 さて、高崎駅に戻ってきましたので、駅ビル内5階の食事処コーナーへ行き、あらかじめ調べてあった上図のお店、水沢うどんの「水香苑」に寄って昼食にしました。伊香保に本店をもつ「水香苑」の支店で、店名は「高崎モントレー店」といいます。

 

 なぜならば、作中にて各務原なでしこがキャンプの夕飯の1品目に水沢うどんをチョイスしているからです。日本3大うどん、というのは諸説あるようですが、一般的には香川県の讃岐うどん、群馬県の水沢うどん、秋田県の稲庭うどん、ということになっています。

 そして私自身は、香川県の讃岐うどんは四国旅行などで高松、琴平、観音寺、丸亀、善通寺などで色々と食べており、秋田県の稲庭うどんも山形県に住んでいた頃に秋田へ旅行に三回ほど行って湯沢や角館などで食べたことがあります。群馬県の水沢うどんだけ、一度も食べたことがありませんでした。
 なので、今回は絶好の機会でした。作中で3人がキャンプ場にて味わった水沢うどんを食べるのも、今回の聖地巡礼の重要な目標の一つだったからです。

 

 で、今回はランチAセットをいただきました。うどんはざるで頼んで、天ぷら3種と日替わりおにぎりと小鉢2品が付きました。タレは「ごまくるみ」を選びました。うどんの量は並で、1100円なり。

 

 これが水沢うどんですか・・・。太麺タイプですな・・・。

 

 そしてタレの「ごまくるみ」。初めて食べた感想は、ゆるキャン風に言うなら「マジうま!!」の一言に尽きました。

 「水香苑 高崎モントレー店」の食べログでの案内情報はこちら

 ちなみに、水沢うどんは伊香保が本場だそうで、伊香保温泉にも多くの名店や老舗があるそうです。次回の群馬キャンプ編の聖地巡礼でその伊香保温泉にも行く予定なので、美味しい水沢うどんがまた味わえるわけです。楽しみです。  (続く) 

 

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嵯峨野観光鉄道に行きました 下

2024年08月26日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 11時2分発のトロッコ列車の案内アナウンスが流れたので改札口に行きました。嫁さんが係員にスマホの予約画面を提示すると、改札口前に列が5つ出来ているうちの中央、3列目に案内されました。我々の乗る車輌が3号車だからでした。

 トロッコ列車は客車が5輌あって、1号車から5号車まであります。席は全部が予約制なので、あらかじめオンラインまたは窓口で購入します。乗車前にホームへ案内されますが、列ごとに順番にホームの指定位置へと誘導されます。

 

 ホームのすぐ隣がJR山陰線つまり嵯峨野線の駅でした。山陰線の新旧の線路の位置関係がよく分かります。嵯峨野観光鉄道の路線は、旧山陰線の線路を活用していますが、駅を出てすぐの箇所で、現山陰線の一部を通ります。

 

 10時57分、トロッコ列車がホームに近づいてきました。後ろに並んでいた嫁さんが小声で「わー」と言い、私の背中を軽くつついて、良いアングルの写真撮ってね、と催促してきました。言われるまでもなく、既に私のデジカメは連写モードに入っていました。

 

 ホームに入ってきた列車の先頭はディーゼル機関車のDE-10形でした。「嵯峨野」のエンブレムが渋い感じでした。嫁さんが「あれと同じ機関車が梅小路機関区にもあるんですよ、予備機だとか聞きました」と後ろで言いました。

 なるほど、予備機があるのか、この嵯峨野観光鉄道が西日本旅客鉄道(JR西日本)の完全子会社である関係で、車輌はJR西日本の車輌でも使用出来るようになっているわけか、と理解しました。

 

 私たちが乗った客車3号車の車内です。SK100形といい、JR西日本から譲受したトキ25000形貨車の改造車であるそうです。貨車を客車に改造して観光列車用に供している点は、大井川鐡道井川線の客車と同じでした。が、こちらは客席が木製でクッションが全くありませんので、嫁さんが「痛くならないかなあ」と不安げに話していました。

 

 そしてトロッコ亀岡駅までの全線を往復で乗り、トロッコ嵯峨駅に戻ってきたのが11時56分でした。途中の保津渓谷の景色は嫁さんがスマホとタブレットでドンドン撮っていましたので、私がデジカメで撮ったのは上図の1枚だけでした。

 

 11時56分にトロッコ嵯峨駅に戻って下車した直後に、ディーゼル機関車のDE-10形の横を通って改札口へ行くので、横から機関車を何枚か撮りました。

 

 ディーゼル機関車のDE-10形です。こんな近くで撮るのは初めてでした。

 

 「嵯峨野」のエンブレム。1991年つまり平成3年の開業であることが分かります。

 

 製造元の日本車輌の銘板。昭和46年といえば、私は5歳で、当時の父は日本車輌の技術者で名古屋製作所に勤務していたと記録にあります。当時の名古屋製作所では機関車の製造を行なっていたそうですから、このDE-10形1104号機の製造に父も関わっていたのかもしれません。

 

 その父は既に故人となりましたが、その勤務現場で製造されたDE-10形1104号機は、いまも現役です。

 

 嫁さんが「ね、あれもスロープロウですか?」と小声で訊いてきました。そうだよ、と頷いておきました。

 

 改札口のすぐ手前に、このDE-10形1104号機の先頭が位置していましたが、明らかに観光客へのサービスのためでしょう。大抵の乗客はこの機関車を撮ったり記念撮影したりするので、撮り易い位置に停めているのだと思います。

 嫁さんが「これのNゲージ欲しいなあ」と言うので、君はDE-10形を持ってるやないか、と返したら「え?持ってましたっけ?」と首を傾げつつ、改札口を通っていきました。
 去年の夏に初めてNゲージの線路買いに河原町のポチへ行ったやろ、あのとき川さんに案内して貰ったやろ、そのときに動力不良の中古機関車を500円ぐらいで買ったろ、と説明すると、「あー、あれですか、茶色の機関車。あれDE-10やったんですか」と思い当った表情になり、「持ってるんなら、買う必要無いですねー」と納得していました。

 

 かくして嵯峨野観光鉄道のトロッコ列車往復を楽しみました。場所が嵐山だけに、これからどうする?と訊きましたが、嫁さんはもう大満足だったようで、「帰りましょう、帰ってランチ食べましょう」と言うのでした。

 

 それでまっすぐJR嵯峨嵐山駅に入ってホームで帰りの列車を待ちました。次のトロッコ列車が発車していくのが見えました。それを見ていた嫁さんが「いま気付いたんですけど、あのトロッコ列車って、あれ1編成だけで他に無いんですね、あの1編成でがんばって毎日往復して運行してるんですねえー」と感心していました。

 嵯峨野観光鉄道の路線は片道7キロちょっとしかありませんから、往復でも15キロ未満で所要時間が1時間未満です。機関車の整備は梅小路機関区で行なっているうえ、予備機もあります。だから平成3年の開業以来の機関車と客車の1編成だけで充分なのでしょう。  (了)

 

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BC自由学園 ARL44 作ります!! その6

2024年08月25日 | ガルパン模型制作記

 ステップ9の続きです。右フェンダー側に通すワイヤーは、キットでは撚糸が入っていてそれを170ミリの長さに切って使うことになっていますが、劇中車のワイヤーは撚りが入っていないパイプ状のものなので、それに近い素材をダイソーで見つけて仕入れました。上図の「飯田水引」です。

 飯田水引は、その名の通り、長野県飯田市で江戸期から作られる水引の一種で、300余年の歴史を数える伝統産業品として知られ、全国で生産される水引の約七割を占めています。最近はダイソーで100円で売られていますので、入手も容易になっています。
 上図の品は、プラスチック製とみられる細い線に極細の糸を巻き付けており、一見して表面がフラットでパイプ状に見えます。

 

 試しにセットしてみました。御覧のように1/35スケールのワイヤーに程よい太さと滑らかな表面をもっており、曲げ加工も簡単に出来ます。曲げると、その曲げた形のまま、元に戻らないので、色々な曲線や折れが作れます。

 

 全体としてこのような感じで取り付けました。たるみ部分も簡単に表現出来るので、なかなか使える100均アイテムだなと思います。今後製作するガルパン車輌のワイヤーは、この飯田水引をつかうことに決めました。

 

 ステップ10に進んで砲塔の組み立てに取り掛かりました。ガイドの指示通りに組みました。

 

 組み上がりました。

 

 内側から見るとこんな感じです。インテリア部分は完全に省略されています。

 

 ステップ11に進みました。ガルパン仕様への追加工作が三ヶ所で加わります。

 

 追加工作の一ヶ所目は、砲塔天面右側のペリスコープの天板です。上図はオリジナルの状態ですが、劇中車のペリスコープの天板は横に長く張り出しています。

 

 劇中車の状態を見ますと、砲塔天面左側(向かって右側)のペリスコープの天板はキットのそれと同じく左右に張り出しませんが、右側(向かって左側、押田ルカの手前)のそれは左右に張り出しているのが分かります。

 

 そこで右側ペリスコープにてプラ板を上図のように張って形状を合わせました。

 

 追加工作の二ヶ所目は、上図の砲塔天面右側後方の穴です。この穴が劇中車にはありませんので、埋めます。

 

 プラ棒を差し込んでカットし、ヤスって埋めて均しました。

 

 追加工作の三ヶ所目は、上図の砲塔側面のA2の取り付け穴です。劇中車にはA2が見えず、キットの指示通りに取り付けると予備履帯の下にA2も見える状態になります。

 

 ですが、劇中車の砲塔側面の予備履帯の下には何も見えません。他のアングルからみてもA2に該当する部品が見えませんでした。それでA2は不要として、その取り付け穴をパテで埋めました。

 

 あとのパーツはみんな指示通りに組み付けて、ステップ11の工程を終えました。  (続く)

 

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BC自由学園 ARL44 作ります!! その5

2024年08月25日 | ガルパン模型制作記

 ステップ9では車体上部を組み立てます。ガルパン仕様への追加工作が二ヶ所で加わります。
 ステップ10からステップ12までは砲塔の組み立てを行ないます。ステップ11およびステップ12でガルパン仕様への追加工作が三ヶ所ずつ、あわせて六ヶ所加わります。

 

 ステップ9で組み立てるパーツ類です。このうち、A18およびA19、B10のパーツをガルパン仕様へ改造します。

 

 最初にエッチングパーツを全て瞬間接着剤で貼り付けました。

 

 ガルパン仕様への改造に進みました。まずは上図のパーツA18およびA19、エンジン排熱グリルの防護板とみられる部分です。御覧のような形状で、両端に切り欠きがあり、ハンドルが2つずつモールドされています。下がA18で上がA19、両者は同じパーツのように見えますが、よく見ると鍵穴の位置が微妙に異なっています。

 

 劇中車においては、A19に該当する防護板の両端の切り欠きが無く、A18に該当する防護板のハンドルがありません。これに合わせて改造します。

 

 改造後のパーツA18およびA19です。A19の両端の切り欠きをプラ板で補完し、A18のハンドルを二つともカットしました。

 

 組みつけました。ガルパン仕様への追加工作の一ヶ所目が完了しました。

 

 追加工作の二ヶ所目は、上図のB10のパーツの改造です。ロッドかパールのような棒が3本並びます。

 

 いったん取り付け位置に仮組みしてみました。劇中車の同部品と比較しての相違点は三つあり、上図の通りとなりました。

 

 

 比較に使った劇中車の画像です。この部分の様子が明瞭に分かるシーンはこれぐらいでした。前述のようにキットのB10とは三つの相違点があります。これに合わせて改造します。

 

 最初に上図のようにカットして始めました。B10は劇中車の部品より長いので、各所で棒を切り詰めて長さを合わせてゆきました。

 

 改造後のB10です。全体としては約7ミリほど短くしました。

 

 改造の目安として、上図のようにB10の先端が右側面のハッチのヒンジ部と同じ位置にくるようにしました。

 

 残りのパーツを指示通りに取り付けて、残るは右フェンダー側にワイヤーを通す作業となりました。これは次回に述べます。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く40 その6  しんとう温泉へ

2024年08月24日 | ゆるキャン△

 榛東村役場を出て、庁舎の背後の公園に登り、その高所に位置する上図の東屋に行って一休みしました。眺めが良い場所で、北東方向に赤城山が見えますから、と教えられたからでした。
 ザックから、嫁さんが袋にまとめてくれたおやつのナッツ類を取り出し、アーモンド、マカダミアナッツ、生くるみ、ピスタチオを5粒ぐらいずつ食べ、お茶で流し込みながら、赤城山はどのへんかな、と遠くに視線を向けました。

 

 その赤城山が北東方向に見えました。榛名山、妙義山と並び、上毛三山の一つに数えられています。

 平成の初め頃に、大学時代の知人に誘われて、彼の地元である碓氷郡松井田町(現在の安中市松井田町)へ行き、彼の実家が氏子になっている妙義神社に参拝したことがありますが、その際に境内地から妙義山の奇岩屹立の威観を見上げ、その後に展望所から「あれが赤城の連山や」と示されたのが、赤城山を見た最初でした。

 その時とあまり変わらない雰囲気でしたが、この日はやや霞んでいたので、「万葉集」に「かみつけの くろほのねろ」と詠まれた赤城山の神秘的なイメージが何となく感じられました。赤城山は古代には黒保峰、黒保根山などと呼ばれ、山麓に勢多郡黒保根村(現在の桐生市黒保根)がありました。赤城山と呼ばれるようになったのは平安時代からです。

 

 東屋で10分ほど景色を眺めた後、役場の敷地を横切って上図の出入口に至り、そこから下へ降りる階段へ進みました。

 

 階段を下りて行くと、上図の大きな建物の脇に行きます。榛東村役場に隣接する榛東村社会福祉協議会の施設で、その半分ほどが「しんとう温泉ふれあい館」として一般に公開されています。

 

 施設の前の駐車場の横から、上図の「しんとう温泉ふれあい館」の前に行きました。

 

 この「しんとう温泉ふれあい館」が、作中で各務原なでしこ、斉藤恵那、瑞浪絵真らが立ち寄って「10分入浴」を敢行した「役場のすぐ隣の温泉」のモデルです。

 

 作中でもそのままの姿で登場しています。

 

 施設の前にも群馬バスのバス停がありました。

 

 その時刻表をチェックすると、高崎駅行きの次の便は12時31分発でした。役場前発が12時30分でしたから、役場前からここに回ってくるもののようです。

 

 隣に日本中央バスのバス停もありました。

 

 その時刻表を見たら、12時台は全く便がありませんでした。しかも前橋駅行きなので、このバス路線では高崎駅へ戻れません。

 

 時計を見ると10時33分でした。まだ2時間ぐらいあるわけで、ゆっくり温泉に入って、その後も一時間ぐらいはゆっくり休めるな、と考えました。各務原なでしこ達と同じように「10分入浴」で済ませたら勿体無いほどの、立派で広々とした温泉施設でした。

 温泉は、効能表によればナトリウム塩化物泉で、神経痛・筋肉痛・うちみ・くじき・やけど・慢性消化器病・慢性皮膚病などに効くそうです。

 

 温泉には40分ほど浸かりました。利用者は地元の方々ばかりで、あちこちで雑談していて賑わっており、村の公営銭湯といった雰囲気でした。

 入浴後は上図の広い座敷休憩室で横になり、30分ぐらい昼寝をし、起きた後は旅行記録をまとめたり、タブレットで情報収集などをしたりして過ごしました。

 「しんとう温泉ふれあい館」の公式サイトはこちら。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く40 その5  榛東村役場へ

2024年08月23日 | ゆるキャン△

 聖地のひとつ、スーパーマーケットのフレッセイ榛東新井店で買い物と休憩をとった後、バス停「下新井」に戻りました。お店から約100メートルほど東に位置しています。

 

 時刻表を見ました。次に乗るバスは9時55分発の「自桃」つまり自衛隊前経由桃泉行きでした。5分ぐらいは遅れるのだろうと思っていたら、わずか1分遅れでバスが来ました。

 

 10時6分、目的地のバス停で降りました。下車後に走り去るバスを撮りました。

 

 榛東村役場の前のバス停です。今回のバス移動の終点がここでした。作中では各務原なでしこ達はここからキャンプ場までタクシーを利用していて、バスで終点の桃泉までは行かなかったからです。そして私のゆるキャン聖地巡礼は、基本的にキャンプ場へは行かないので、榛東村エリアではここ榛東村役場が最奥の聖地スポットとなります。

 役場の前のバス停は二つ並んでいて、左が日本中央バス、右が群馬バスのバス停です。

 

 群馬バスのバス停に近寄りました。帰りはこのバス便を利用する予定だったからです。

 

 時刻表を見て、次のバスが12時30分発であることを確かめました。これで高崎駅へ戻れます。今回の聖地巡礼のエリアは、公共交通の便が比較的良い地域ですので、鉄道とバスでたいていの聖地スポットへ気軽に行くことが出来ます。

 

 バス停は榛東村役場の敷地内にあります。このアングルは既視感バッチリでした。

 

 作中で各務原なでしこ達が榛東村役場前でバスを降りたシーンですね。そのまんまの描写です。

 

 で、お約束のこのアングルへも行ってみました。バスは車道からここを通って役場の敷地内に入ったので、ここが出入口なのだなと分かりました。敷地内の駐車場へもここから出入りします。

 

 このシーンですね。榛東村役場の景観そのままです。

 

 で、上図の玄関口から中に入りました。

 

 作中で各務原なでしこ達がキャンプ場利用の受付窓口へ向かっていますが、実際にその受付が2階の産業振興課であることが分かります。作中のキャンプ場のモデルが、榛東村直営の「創造の森キャンプ場」であることも、これで確認出来ました。

 2階の産業振興課へ行って、係の方に「創造の森キャンプ場」の案内資料を貰い、色々話を聞きました。係の方は「ゆるキャン」のことは余り知らないようでしたので、主に榛東村役場からのバスがどこへ連絡しているか、榛東村から伊香保温泉や榛名山へ直接行けるバスがあるかどうか、などを地図やバス路線図などで教えていただきました。  (続く)

 

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嵯峨野観光鉄道に行きました 中

2024年08月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 「ジオラマJAPAN」にてNゲージジオラマを見物した後、隣の上図の「19世紀ホール」に行きました。

 

 館内には蒸気機関車が並んでいました。わあー、黒光りしてるのがカッコいいー、とスマホを向けて撮影し始める嫁さんでした。

 

 向かって右には、C58形48号機。1938年に川崎重工兵庫工場で製造され、広島、大分、山口などで活躍したのち北海道に移り釧路で1974年に廃車となりました。それを大阪の共永興業が引き取って保管していたのを、2001年に嵯峨野駅前に移して展示、2003年の「19世紀ホール」開館にともない、現在の状態に落ち着いています。

 

「するとこの機関車は、山陰線では走ってないんですねえ・・・」
「C58形はローカル線用の客貨兼用の機関車やからね。あと都市部の入換用とかに使われてたらしい。山陰線を走ってたんはC51形やC57形やからね」
「そうなんですかー」

 

「この三角形の刃みたいなの、何ですか?」
「スノープロウやね。除雪用のスカートや。この機関車は北海道で働いていたから雪対策の装備は必須やったんやな」
「蒸気機関車って、雪が高く積もっても力強く押しのけて進みそうですね」
「そういうイメージは確かにあるな、でも豪雪地帯では流石に動けなくなって運休も多かったらしい」

 

「動輪、C57やC62のと比べると小さいですねえ」
「ああ、C58形の動輪はC11形と同じ1520ミリ径やからね、高速運転に適していたし、動きが軽快やったらしい」
「C11って、大井川鐡道で走ってる機関車ですよね?」
「ああ」
「C58は大井川鐡道では走っていなかったんですか?」
「聞いた事ないなあ、天竜浜名湖鉄道の前身の国鉄二俣線では主力機関車だったけどな」
「あ、天浜線のほうで走ってたんですか・・・」
「うん、確か、掛川駅と天竜二俣駅の近くにC58が静態展示されとるよ」

 

 後ろに回って炭水車の背面を見ました。

 

「これ、この前ヤフオクでカトーのNゲージ落札しましたよね、模型も良かったけど、こっちの迫力にはやっぱりかなわないですよね」
「そりゃそうや。こっちは本物なんやからな・・・」

 

 向かって真ん中に位置している、D51形603号機。1941年に日立製作所笠戸工場で製造され、東京、宇都宮、高崎で働いた後、山口、岡山、姫路、敦賀、金沢、福井などで働き、1975年に夕張で最後の運転をなして廃車となりました。
 その後は国立博物館に展示される予定となって追分機関区に保管されていましたが、機関区の火災で炎上し、その後共永興業に引き取られて保管され、2001年に嵯峨野駅前に移されて展示、2003の「19世紀ホール」開館にともない、現在の状態に落ち着いています。

 

 このD51形603号機は、追分機関区での火災で車体の大半が失われたそうで、その後このようにカットモデルとして整備されて保管されていたそうです。蒸気機関車のボイラーの内部構造がよく分かるようになっています。

「D51は山陰線でも走っていたんですね、Nゲージもちゃんと買いましたもん」
「園部や福知山の車両区に配属されてた、いうからね。亀岡駅とかで旅客列車や貨物列車引いてる写真見たよな」
「はい、見ましたね、いずれジオラマ作って再現したいですよね」
「ジオラマって、亀岡駅のか?」
「ええ、でも園部の車両区とかも作ってみたいかなあ、と」

 

 向かって左には、C56形98号機。1937年に日本車輛名古屋工場で製造され、北海道に配属されて活躍したのち、新潟を経て浜田にて1974年に廃車となりました。それを大阪の共永興業が引き取って保管していたのを、2001年に嵯峨野駅前に移して展示、2003年の「19世紀ホール」開館にともない、現在の状態に落ち着いています。

 

「これは山陰線の西の方で走ってたんですよね」
「出雲とか浜田とかね。浜田駅では入換用に活躍してる写真見たな」
「大井川鐡道にもありますよね。最近に兵庫の加東から譲り受けてレストアしてるんですよね」
「うん、クラウドファンディングにも参加したもんな」
「大井川鐡道には、C56は2輌あるんですよね」
「うん、44号機がいまは千頭駅でジェームスに扮してる。レストアしてるんは135号機やな」

 

「小型の機関車なので、ちょっとC11みたいな雰囲気がありますよね」
「C11の準同型車にC12があってな、そのC12をタンク式からテンダー式に設計し直したんがC56や。C11みたいな雰囲気があるのも、部品とかは殆ど共通になってるからやな」
「そうなんですかー」

 

「そういえば、私たちのNゲージにC56ってありましたっけ?」
「まだ買ってないやろ、大井川鐡道の135号機がレストアを完了して営業運転に復帰したらな、記念にカトーかマイクロエースあたりがその姿のNゲージを出すんじゃないかな、て思うので、買うならそっちを買いたいな」
「じゃ、そうして下さい」

 

 そしてD51のカットモデルの後ろには上図のコッペル機関車の「見習機関車」若鷹号があります。1921年にプロイセン王国のオーレンシュタイン・ウント・コッペルで製造され、日本に輸入されて阿波鉄道で活躍、1936年に廃車となって後は国鉄鷹取工場に保管され、改造を受けて現在の姿になりました。
 その後は鷹取工場の教習用に使用され、2000年にトロッコ嵯峨駅前に移設され、2003年の「19世紀ホール」開館にともない、現在の状態に落ち着いています。


「動輪が2つだけですよー、小っちゃくて可愛い機関車ですね」
「日本が明治期以降に輸入した機関車は、みんなこんな感じの小型が多かったんで、動輪2つか3つだけのタイプが殆どみたいやね。各地で静態展示されてるのも多いし、大井川鐡道にも保存されてるな」
「あー、新金谷のプラザロコに入ってる機関車ですねー、確か1275号機でしたね」
「よく憶えてるなあ」
「記憶力だけはええんですよ、フフ・・」

 

 若鷹号の運転室内も外から見ることが出来ました。意外にシンプルな造りです。

 

 館内の反対側には、上図の人車のレプリカが展示されていました。マネキン人形が妙にリアルなので、嫁さんが「ちょっとあれ怖いな・・・」と呟いていました。

 かつては全国各地にトロッコの一種としての人力車軌道があったそうですが、京都府にはあまり無かったようです。もちろん嵯峨野観光鉄道とも無関係ですが、なぜか、上図の車体の中央には嵯の字をデザインした社紋が付いています。

 

 人車の説明板です。  (続く)

 

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BC自由学園 ARL44 作ります!! その4

2024年08月21日 | ガルパン模型制作記

 ステップ8の工程の続きです。キットには無い前照灯の電線が劇中車に見えますので、電線を追加します。左右で電線の位置が異なるのに注意して再現します。向かって左の前照灯の電線は上から回り込み、右の前照灯の電線は下から回り込んでいます。

 

 真鍮線で左右の電線を追加しました。

 

 同様に背面の尾灯の電線も追加しますが、こちらは左右対称となっています。

 

 電線を真鍮線で追加しました。

 

 残るパーツはガイドの指示通りに取り付けていきますが、パーツC33はサイズも小さく形状も合わないので、劇中車のそれに合わせて大きな円板のパーツに差し替えました。上図のクリアパーツの円板です。

 

 車体後部の取り付け状況です。

 

  車体前部の取り付け状況です。

 

 最後に排気管を組みつけます。

 

 フェンダーの上に置くようにして、屈折部も繋いでセットしました。  (続く)

 

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BC自由学園 ARL44 作ります!! その3

2024年08月21日 | ガルパン模型制作記

 ステップ6では排気管を組み立てます。ガイド図に「上から見た図」が載っていますがこれは「側面から見た図」が正しいです。排気管がフェンダーの屈折に沿って折れていますが、その折れ具合が分かりにくいため、折れ部分の前後を別々に組み立てておいて、後のステップ8にてフェンダー上にセットする際に排気管も繋ぐことにしました。

 ステップ7では車体前面を組み立てます。ガルパン仕様への工作が二ヶ所あります。ステップ8では車体上部を組み立てます。ガルパン仕様への工作が一ヶ所あります。またA24は誤記でC44が正しいですが、長さが足りないのでプラ材で延ばします。C19の対のパーツの番号が抜けていますが、C22です。

 

 ステップ6で組み立てる排気管のパーツ類です。

 

 このように、折れ曲がり部分を繋がずに、別々に組み立てておきました。

 

 ステップ7に進みました。ガルパン仕様への工作が二ヶ所ありますが、その一ヶ所目は前面部の左右の車外装備品の据え付けポケットのサイズの修正です。上図のようにモールドされていますが、ちょっと小さい気がします。

 

 劇中車の据え付けポケットはやや大きなサイズであるように見えます。

 

 モールドを削り取って、プラ板でサイズを縦横1ミリずつ増した形にカットしたものを貼り付けました。

 

 前面部に取り付けるパーツ類は、上図上の4つの車外装備品を除いて全て取り付けます。前照灯のレンズ部のA41はウェーブのアイズのクリアパーツに交換して塗装後に取り付けます。

 

 全て組みつけました。

 

 4つの車外装備品は塗装後に取り付ける予定です。

 

 ガルパン仕様への工作の二ヶ所目は、上図のペリスコープA34の形状変更です。

 

 仮組みすると、上図のように円筒部分が上に突き出ます。劇中車では円筒部分が突き出ておらず、覗き窓の部分が横長になっています。

 

 劇中車の覗き窓部分は、御覧のようにA34のそれよりも横長になっています。

 

 そこでプラ板で上図のように改造しました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く40 その4  上州名物焼きまんじゅう

2024年08月20日 | ゆるキャン△

 榛東村のスーパーマーケット、フレッセイ「榛東新井店」に入りました。作中で各務原なでしこ達がキャンプ用の食材を購入していますが、私も同じように買い物をしました。

 

 最初に土産物コーナーを探して、上図の陳列棚を見つけました。この種のコーナーはたいていレジの外側に置かれていますので、すぐに分かります。

 

 上州名物の焼きまんじゅうのコーナーでした。各務原なでしこもここで焼きまんじゅうを買っているので、モデルになる商品があるのだろうと予想していましたが、その通りでした。

 

 作中での焼きまんじゅうの説明です。素まんじゅうの焼きものですか。みたらし団子の饅頭版といったところですか。4個をひと串にまとめて一本と数えるようです。

 

 箱詰めタイプが1000円でした。大きさからして4個をひと串として3串、12個ぐらいかな・・・。

 

 こちらは2串、8個入りで600円のパックでした。各務原なでしこが買った品はこちらがモデルのようです。

 

 作中ではこんな描写です。透明パック入りで中に2串が入っていて、帯紙が巻いてあります。上州名物焼きまんじゅう、と書いてあります。左下に「本気旨堂」の印がありますが、ゆるキャンではお馴染みの「マジうま」シリーズですね。

 

 他に類似の商品が見当たらず、店員さんに尋ねても「焼きまんじゅうのパックはそれですよ」と教えられましたので、これが元モデル品であることは間違いないでしょう。それで、1パック買いました。

 ついでに食べ方を尋ねると、味噌だれを付けて焼くのが一般的だが、好みによって醤油を重ねる場合もある、ということでした。生では食べられないのですか、と訊いたら「食べられんことはないですけどね、味が無いですよ」との事でした。

 

 ついでにお握りとゆで卵とミネラルウォーターも買いました。少しお腹が空いてきたし、店内にイートインスペースがあるので、次のバスの時刻までの待ち時間を食べて過ごすことにしました。

 

 店内のイートインスペースです。けっこう広くてゆったりしていますので、のんびりと食べて飲んで休憩することが出来ました。

 

 9時50分に出発して、バス停「下新井」へと戻りました。バスの時刻は9時55分ですが、遅れるだろうな、と予想しました。

 

 バス停の近くの行先案内板を見上げました。この道は県道161号線で東へ行けば前橋市へ通じます。300メートル先の交差点で右折すれば高崎市へ、左折すれば渋川市へ行けます。

 ゆるキャンの群馬キャンプ編の聖地エリアはここ北群馬郡榛東村のほか、高崎市や渋川市、そして安中市にも及びます。かなりの広範囲ですが、殆どの聖地スポットへは高崎からの路線バスで行けるので、聖地巡礼の難易度でいえば楽なほうに属します。

 各務原なでしこ達は、一日目を榛東村の「創造の森キャンプ場」で、二日目を野反湖の「野反湖キャンプ場」にて過ごしていますが、二日目の午前中は伊香保温泉や榛名山への観光にあてており、それらのスポットへも高崎からの路線バスで行けます。現地での路線バス網を調べてみると、多くの路線が高崎駅から出ていることが分かったので、宿泊するなら高崎駅近辺が便利そうだなと考え、今回の宿を高崎駅から5分の所にとった次第です。

 この文章を書いている時点で、原作コミック連載の最新話は第96話でした。作中にて、各務原なでしこ達は県立榛名公園から榛名湖を経て、バスでJR高崎駅に移動し、E257系特急「草津・四万」で長野原草津口駅まで乗り、中之条町の路線バスで野反湖に向かいました。
 群馬キャンプ編は、コミック第16巻に収録された第89話から始まって、既に8話を重ねていますが、まだ一日目と二日目の午前中だけで、野反湖には到達していないのでした。全て描いたら第100話ぐらいには達するのではないかと思うほどの長いスパンで連載が進んでいますので、私の聖地巡礼もそれに合わせて気長に計画し、二、三度に分けて行くことになります。

 今回の聖地巡礼の範囲を一日目の榛東村、安中市エリアに定めたのは、それ以降のコースを次回に計画しているからでした。とにかく広範囲なので、回るのも大変です。大井川キャンプ編に匹敵するぐらいの範囲ですが、静岡県と違って群馬県は鉄道やバスなどの公共交通機関に恵まれているので、車やバイクでないと行けない場所が多かった大井川キャンプ編とは雲泥の差があると思います。  (続く)

 

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