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豊家の余香12 豊国神社唐門

2024年03月11日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 方広寺の梵鐘と鐘楼の天井画を見学した後、南続きの豊国神社境内地に入りました。U氏が「ここは豊太閤殿下に敬意を表して正式に鳥居から参ろうぞ」と言うので、いったん上図の西向きの鳥居の前まで行ってから二人で並んで恭しく一礼し、ゆっくりと石段を登りつつ鳥居を見上げながらくぐりました。

 

 続いて参道の左手に鎮座する上図の豊臣秀吉坐像に一礼しました。 高さ約1.1メートルの清水焼の陶像で、西洋写実彫刻風のリアルな姿に表されています。

 太平洋戦争中に皇紀二千六百年記念事業の一環として制作されたものですが、阪神大震災の際に隣の石灯籠が倒れて台座に当たって粉々に砕け、像本体も一部破損したそうです。その後修復が行われ、台座はかつて豊国廟にあった旧灯籠のものを転用して2019年より現位置に置かれています。

 U氏が「これも京都の近代美術の優れた一作品だよな」と言いました。確かにその通りで、銅像が多い京都の近代彫刻の中ではかなり珍しい作品です。歴史的著名人の一人である豊臣秀吉を表現している点も珍しいです。京都市内にて明治期以降に作られた戦国武将の像としてはおそらく唯一かと思われます。似たような作品があると聞いたことが無いからです。

 しかも伝統的工芸品に指定されている京焼の清水焼ですから、名のある作家によって製作されたものと思われますが、戦時中の国威発揚のために造られたためか、作者の名前は明らかになっていないそうです。

 

 豊臣秀吉像の横の参道から、豊国神社の唐門を望みました。今回の豊臣家関連社寺の建築遺構めぐりのラストでした。ここでまた二人で恭しく一礼しました。

 U氏は茨城県の人ですから、常陸国佐竹氏びいきです。したがって典型的な関ヶ原合戦西軍派でもあり、つまりは豊臣家びいきであるので、高台寺でも方広寺でも一礼していましたが、ここ豊国神社では最も丁寧にお辞儀していました。豊太閤をお祀りする神社であるからでしょう。

 

 案内説明板です。

 

 豊国神社唐門です。 元は南禅寺塔頭金地院にあったのを、明治期の豊国神社再建にあたって移築したものです。金地院に移される前は二条城の唐門であったといい、これを以心崇伝が寛永四年(1627)に江戸幕府から譲り受けたものであり、その前は伏見城にあったとも伝わります。

 つまり、最初は伏見城の門であった、と伝わりますが、真偽のほどは不明です。ただ、これだけの典型的な桃山期の豪華な唐門を江戸期になってから建てられるとも思えませんので、伝承はむしろ本物かもしれません。

 

 周知のように、京都においては西本願寺、豊国神社、大徳寺の唐門が国宝に指定されており、これらは国宝三唐門と呼ばれています。国宝であることが共通なのではなく、豊臣期の豪華な唐門建築である点で共通していてその歴史的価値の高さから国宝に指定されている、という意味での「国宝三唐門」の呼称です。

 上図の破風内の「目無し鶴」と呼ばれる鶴の彫刻や欄間の竹笹の意匠などは、江戸期の東照宮陽明門の動植物彫刻に比べると大きくて立体感に富み、欄間のフレームから意図的にはみ出すようにして彫られています。形式にうるさい江戸期の意匠では、ああいうふうに飛び出す表現がタブーなので、やっぱり桃山期の大らかで雄大な気分というものは違うな、と感心します。

 

 上図の門扉の豪華さも見応えがあります。さきの「国宝三唐門」つまり西本願寺、豊国神社、大徳寺の唐門が豊臣期の豪華な唐門建築である点で共通していると述べましたが、最も立派なのがこの豊国神社唐門の装飾意匠です。

 西本願寺唐門はもと京都新城の門、大徳寺唐門はもと聚楽第の門、と推定されていますが、ここ豊国神社唐門が伝承通りに伏見城の門であったのならば、秀吉が最も費用をかけて贅沢に造ったのが伏見城だと語られている点とも一致します。大坂城よりも立派だったといわれる伏見城ですから、その門がどれだけ立派だったのかは、この豊国神社唐門を見れば一目瞭然、ということになるでしょうか。

 

 左右の門扉の下部には「鯉の滝登り」の彫刻があります。上図は向かって右側の門扉で、前の画像が左側の門扉になります。この「鯉の滝登り」の彫刻は中国の「登竜門」の故事を表して「立身出世」を意味しています。
 
 なので、この唐門をくぐると出世出来るとされていますが、通常の拝観は唐門の前までで、それより中へは立ち入り禁止になっています。唐門を通れるのは、正月三が日のみだそうです。

 

 それで、上図の拝殿や奥の明治十三年(1880)建立の本殿は、唐門から望んで拝するのみでした。

 

 なので、豊国神社において間近に見学可能な古建築は、この唐門のみとなります。最も、豊臣期の建築遺構はこれが唯一ですから、伏見城の建物であったかどうかはともかく、豊臣期の代表的な門建築の一例として捉えておけば間違いないでしょう。  (続く)

 

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