高台寺を出て北回りに歩いて安井北門通から東山通へ出ました。南へ進みつつ、U氏が「どうする、歩くのか?」と聞いてきましたが、まもなく市バス206系統がやってくるのが見えましたので、指差して「あれに乗ろう」と応じ、近くの「東山安井」バス停で乗り込みました。
乗ってからU氏が「少しは時間がとれるな」と満足そうに言い、窓から清水道界隈の大混雑と観光客の波を眺めていました。五条通を南へ渡ってすぐの「馬町」バス停で降り、バス停のすぐ南の路地を西へ進んで100メートルほど歩いて、上図の案内板の立つ公園に着きました。豊臣秀吉が創建した方広寺の大仏殿の跡です。
案内板の方広寺伽藍推定復元図です。創建当初の広大な伽藍は全て地中に埋もれ、大仏殿が建っていた主要部はいまは豊国神社の境内地、南側は京都国立博物館の敷地となり、北側に方広寺が規模を縮小して境内地を維持しています。
安土桃山期から江戸期にかけて活躍し、江戸期を通して幕府の京都大工頭を世襲した中井家に伝わる絵図によって、かつての方広寺大仏殿の姿が知られています。現在の奈良東大寺大仏殿はこの方広寺大仏殿を手本にして再建されたため、姿が良く似ています。この絵図の方広寺大仏殿は、現在の東大寺大仏殿よりも左右に広がった大きな建物であったことが分かります。
その方広寺大仏殿の跡は、上図のように公園になっています。正式名称は「大仏殿跡緑地公園」といいます。公園の中央に土壇のように見える高まりがありますが、これは公園整備の際の単なる盛り土で、遺跡自体は平成12年の発掘調査で確認されたあと地中に埋め戻されています。
我々が訪れた時には、公園内の芝刈り作業が行われていて、上図のように夏草が少しずつ刈り取られていました。奥には豊国神社の社殿群の背面が望まれました。ここ大仏殿跡は、豊国神社の背後に位置するからです。
U氏が「ここに大仏殿が現存しとったらならば、京都観光の一番の目玉になっただろうな。奈良観光の一番の目玉が東大寺大仏だから、ここも同じように海外からの観光客で賑わっただろうな」としみじみと話しました。
そうだな、と応じました。もし方広寺大仏殿が残っていれば、間違いなく京都最大の木造建築ですから、いまの清水寺界隈のものすごい大混雑が、こちらの方広寺エリアへも拡大してもっと凄まじいことになっていたかもしれません。
案内板には、大仏殿跡の確認された遺構の図面と、主な遺構の説明がありました。U氏はこれもじっくり読んでいて、「これもまた豊臣家の夢の跡か、なにわのことも、夢のまた夢か・・・」と秀吉の辞世の句をもじった感慨をもらしていました。
「大仏殿跡緑地公園」から細い路地道を西へ進み、上図の現在の方広寺の境内地に入りました。右奥が本堂ですが、非公開でしたので、左の大きな鐘楼へと向かいました。
鐘楼内には、学校の教科書にも出てくる、有名な方広寺の梵鐘の実物が懸かっています。 慶長十九年(1614)に京都三条釜座の名越三昌により鋳造されたもので、高さが4.2メートル、重さは82.7トンを測ります。いわゆる「国家安康」の銘が撞座の左上にあり、国の重要文化財に指定されています。
案内文です。いわゆる方広寺鐘銘事件の経緯も簡単に述べられますが、U氏は「これ、史実とはちょっと違うんだろ」と言いました。
その通り、江戸幕府のブレーンを務めた金地院崇伝の日記「本光国師日記」によれば、問題の銘文に関して徳川家康は豊臣家側に責任は無く、梵鐘から「国家安康」の部分をすりつぶせば良い、との内意を持っていたことが明らかです。
ですが、家康の内意とは別に、周囲が無謀に必要以上に騒ぎ立てて問題を複雑化させてしまい、その流れを家康も止められないまま、豊臣家との関係もこじれて大坂の陣に至ってしまった、という流れだろうと思われます。
U氏が「いまでも、日本人ってのはさ、似たような輩がネット上でも狂い踊って無責任にあることないこと騒いで煽って、事態を悪い方向へ持っていっちゃうケースがあるわな」と言ったのは、まったくの正論でした。
それよりも我々が今回注目したのは、上図の鐘楼の天井の「迦陵頻伽」絵図でした。前掲の案内文にもあるように、もと伏見城の奥御殿の化粧室の天井画であったものを、現在の鐘楼の再建に際して寄進してはめ込んだものであるといいます。それまでは方広寺に保管されていたようですが、本物であれば、よく残ったものだと思います。
そういえば、現在の本堂も、京都府教育委員会の報告書によれば、豊臣秀頼が慶長十九年(1614)に方広寺の大仏殿を再建した際の関連堂宇として成立した可能性があるといい、つまりはこれも豊臣家ゆかりの建物であったのかもしれないとされています。
そして隣接する豊国神社の唐門もまた伏見城からの移築遺構とされていますから、高台寺と同様にここ方広寺にも豊臣期の遺品が色々と伝わっていることが分かります。伏見城の奥御殿の化粧室の天井画ぐらい伝わっていてもおかしくはないだろう、と思います。
いまの鐘楼の天井画としては立派過ぎる出来栄えの「迦陵頻伽」絵図ですが、それ以前に鐘楼の天井に「迦陵頻伽」を配するという事例が稀です。私自身が記憶している限りでも、全国各地の有名無名の寺院の鐘楼の天井に絵画が配されていたケースが全く思い浮かびませんので、ここ方広寺の天井画は特殊な遺品だと理解しています。絵の描線のタッチや曲線の抑揚が、江戸期の絵図よりも繊細で優美に見えますので、桃山期のものであることは間違いないでしょう。
その場合は、ここ方広寺の創建当時の御堂の天井画が残った可能性が一番に考えられますが、伏見城からの移築の伝承があるというのは無下に否定出来ませんから、可能性としての問題にとどめておくのが良いでしょう。 (続く)