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「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その14 SL急行かわね路号の客車7号車

2024年03月26日 | ゆるキャン△

 いよいよ憧れのSL急行かわね路号に乗ることになりました。出発時刻まであと7分ぐらいあったので、記念に客車を見物し撮影することにしました。

 

 先頭のC10形8号機の黒光りする逞しい姿。これぞ蒸気機関車、これぞ往年の国鉄の主力機関車、といった貫禄です。

 

 昭和五年(1930)に川崎車両にて製造されて以来ですから、今年令和六年には94歳に達する老齢機です。が、車体はピカピカに磨かれて油も生き生きと通い、各パーツには些かのヘタリも見えず、常に行き届いた綿密なメンテナンスが行われていることが伺えました。

 

 蒸気機関車の動力機構の肝であるシリンダーからの主連棒も御覧の通りの鮮やかな銀色です。常にパーツの保全維持が図られて潤滑油も隅々に行き渡っていることが見て取れました。静態保存機の赤錆まみれの部品を見慣れている目には、眩しいほどの輝きが、この機関車の「生命」の息吹を感じさせてくれました。

 

 このC10形8号機は、戦前は主に東北本線や高崎線の旅客列車に使用され、戦後は山田線の旅客列車や会津線の旅客・貨物列車に使用されています。そして昭和三十六年(1961)11月から休車、翌昭和三十七年3月に廃車となりました。

 その後は岩手県宮古市のラサ工業へ譲渡され、同社の工場と宮古駅とを結ぶ専用線の貨物輸送と、宮古駅構内の入換作業に使用されましたが、ディーゼル機関車の導入によって予備機となり、昭和六十一年(1986)11月に再び廃車となりました。

 その翌年に宮古市が譲り受け、観光列車として使用するために動態復元工事が行われ、平成二年(1990)1月まで宮古駅付近と宮古港出崎埠頭を結ぶ旧国鉄臨港線にて「SLしおかぜ号」として保存運転を行ないました。

 それから四年間の休止期間を経て、平成六年(1994)に大井川鐡道に譲渡され、動態復元工事を行なってイベント等での展示を重ねた後、平成九年(1997)より営業運転を開始し、現在に至っています。

 

 

 運転室の窓から内部のボイラー本体後部と操作機器類を見ました。聞くところによると、過去の二度の動態復元工事によって構成部品の相当数が交換または新調されてきたといい、その多くは準同型機のC11形より調達されたものであったといいます。

 C11形は合計で381両が製造されて現在も全国各地に動態および静態の保存機があわせて約50両ほどあり、大井川鐡道にも動態2輌、静態1輌、譲渡修理1輌の計4輌がありますから、部品も豊富に入手出来る状態であり、それがC10形8号機の長寿を支えている、ということでしょう。

 

 こうしてみると操作機器の多さに驚かされます。それで蒸気機関車の運転操作は複雑で難しそうに見えますが、かつてD51形の機関士を勤めていた父方の大叔父の話では「(運転操作で)触るんは四つぐらいや、走らすんは簡単や。それよりも走る区間、時刻、石炭および水の積載量、貨物の総量、前後の列車のダイヤを勘案して最適な速度を計算して維持するんが難しい」ということでした。

 その大叔父は国鉄の無煙化施策によって蒸気機関車が廃止された後は、ディーゼル機関車のDD51形、電気機関車のEF65形を運転したといいます。
 私も子供の頃に一度大叔父に連れられて、大叔父が勤めていた奈良駅西側の奈良機関区の電気機関車に乗せてもらったことがあります。その際に大叔父が「蒸気機関車は運転が大変やったが、一番おもろかったな」と話していたのが、なぜか今も鮮やかに記憶に残っています。

 

 さて、これから乗る客車の7号車に向かいました。ブルーの車体に白線が二本引かれた小奇麗な印象のある客車でした。

 

 7号車の車番プレートです。個人的には今回このSL急行かわね路号に乗る事自体が、降ってわいたような幸運でしたので、この7は間違いなくラッキー・セブンだな、と確信しました。

 

 出入口脇の側面下の車番表記です。スハフ43ですので、国鉄が昭和二十六年(1951)から製造した戦後形客車の一形式群であるスハ43系客車の一種にあたります。その特急用三等座席車タイプの基幹とされたスハ44形客車の緩急車( ブレーキ を掛けるための装置が取り付けられた車両)版として製造されたのがこのスハフ43で、 計3両が造られ、そのうちの2両が日本ナショナルトラストの所有となって大井川鐡道に管理委託されています。

 

 車体側面中央の「かわね路号」のプレートと車番スハフ43-2の表記です。スハフ43の2号車であることが分かります。大井川鐡道にあるもう1輌はスハフ43-3です。いずれもNゲージの模型で揃えて持っていますので、何度か眺めていますが、その実物であるわけですから、とにかく感動が途切れませんでした。

 

 金谷側の車輛端部には車掌室が設けられており、その後方監視窓には白いガラスがはめられています。

 

 千頭側の昇降口から車内に入りました。閉じられた通路扉の窓ごしにC10形8号車の背面のナンバープレートとライトが見えるのに気づき、思わずカメラを構えて撮りました。

 

 車内の様子です。昭和二十六年(1951)製造というので、戦前の名残がただようレトロな車内を想像していたのですが、実際には近年のキハ系の車輛の車内とあまり変わらない雰囲気でした。天井が丸く作られているのが古風に感じられた程度でした。

 この日の7号車は個人客などにあてられていたそうで、乗客もまばらでめいめいの席に座っていました。大勢の団体客は6号車から1号車へと案内されていました。その長い行列を見ながら、予約制だからああやってスムーズに客車や席の配分を調整出来るわけなんだな、と感心したことでした。  (続く)

 

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