気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

宇治巡礼17 平等院多宝塔跡

2023年02月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 平等院境内の南側の宇治川西岸一帯は、府立宇治公園として整備されています。宇治川の「塔の島」に通じる喜撰橋へと続く交差点が宇治公園の南限となっていますが、その交差点のすぐ北側に園地の一部が「よりみち公園」の名で整備されています。
 「よりみち」とは平等院の開基である藤原頼通の名にちなんでいると思われているそうですが、実際には「寄り道」と書くらしいので、藤原頼通とは関係ないのかもしれません。

 その「よりみち公園」の中に、上図の復元基壇があります。現地はかつては平等院の境内地に含まれており、摂関家の建立した諸堂が甍を並べていましたが、復元基壇は諸堂の東端に位置した多宝塔のそれに該当します。康平四年(1061)に四条宮藤原寛子が寄進建立した建物です。

 

 復元基壇の横にある案内説明板です。基壇の上に建っていたのは、諸史料で「多宝塔」と記される、上図の復元イラストの「宝塔」と呼ばれる建物でした。

 「多宝塔」および「宝塔」は仏教寺院の伽藍の塔婆にあたる建物です。平安時代の平等院には塔が二基あり、ひとつは康平四年(1061)に四条宮藤原寛子が寄進建立した「多宝塔」、もうひとつは長承二年(1133)に藤原忠実が寄進建立した「多宝塔」ですが、後者は平等院境内地の北側にあったようなので、平等院境内地の東南にあたる現在地の「多宝塔」跡とは別であることが分かります。

 

 こちらの藤原寛子建立の「多宝塔」は、遺跡自体は平成5年の発掘調査で一部が検出され、平成6年の二次調査で遺構の全容が解明されました。遺物等から平等院創建後間もない時期のものと判明し、史料や古文献などにおいて該当する建物が藤原寛子建立の「多宝塔」しか無いために確定したものです。

 

 そして上図の円形基壇の規模からみて、裳階が付かない多宝塔、つまり宝塔形式の建物であった可能性が指摘されています。いま現存する宝塔の建築は全て裳階が付くので、外見上は二層に見えますが、藤原寛子建立の「多宝塔」は一層であったことになります。

 

 「多宝塔」の復元図です。御覧の通りの「宝塔」形式ですが、日本においては建築よりも工芸品の遺品がきわめて多く知られています。建築のほうは平安時代でもあまり建てられなかったようで、中世までの現存遺構も天文二十五年(1556)の埼玉慈光寺開山塔(国重要文化財)が唯一です。

 なので、藤原寛子建立の「多宝塔」は当時でも珍しかった筈です。藤原寛子といえば、藤原摂関家の出ながらも素朴な性格であったらしく、素直な明るい気質と英明さを兼ね備え、風流を好み、新しいもの好きで、仏教に深く傾倒したことで知られますが、そういった彼女の「新しいもの好き」によって、当時でも稀な宝塔形式のデザインが選択されたのでしょうか。

 この藤原寛子建立の「多宝塔」は、鎌倉時代まで存続していたようです。 鎌倉時代の公卿、勘解由小路兼仲(かでのこうじかねなか)の日記である「勘仲記」の建治二年(1276)七月二十四日条によれば、時の摂政鷹司兼平(たかつかさかねひら)が平等院に行き、経蔵西側の大湯屋御所から「塔」に立ち寄ったとあります。これが、史料上における藤原寛子建立の「多宝塔」に関する最後の記載なので、それ以降に廃絶したようです。

 平等院の塔頭である浄土院および最勝院が所蔵する江戸時代の「平等院境内古図」計4幅には、現在の位置に基壇様の建物跡が描かれており、当時は塔跡も遺跡として認識されていたようです。

 

 平等院多宝塔跡がある宇治公園(よりみち公園)の地図です。平等院多宝塔跡は、創建以降の平等院に甍を競った華麗な諸堂のうち、現存する鳳凰堂を除けば、遺構が確認された唯一の建物です。
 遺跡は、現在では府立宇治公園の一角になっていて、平等院から宇治川の「塔の島」に通じる喜撰橋へ行く途中の「よりみち公園」にあります。すぐ隣に観光駐車場がありますので、アクセスも容易です。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« (車輌目次表紙)九四式六輪... | トップ | プラウダ選抜 カチューシャ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

洛中洛外聖地巡礼記」カテゴリの最新記事