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宇治巡礼19 旦椋神社

2024年01月09日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 近鉄京都線の大久保駅の西側の宅地のなかに、旦椋(あさくら)神社という古い神社があります。もちろん延喜式神名帳に記載される式内社のひとつで、いまは宇治市に属していますが、近世までの行政区分においては宇治郡ではなくて久世郡に属していました。

 ですが、旦椋神社の江戸期までの呼称は栗隈(くりくま)天神、または栗前(くりくま)天神でありましたから、現地も平安京に都が移されて以降に「栗前野(くりくまの)」と呼ばれた地域に含まれていたことがうかがえます。
 「栗前野(くりくまの)」の大半は宇治郡にあたりますが、一部は久世郡にもまたがっていたようです。「倭名類聚抄」の山城国久世郡の項にみえる「栗隈郷」が神社を含むエリアに該当するようです。

 

 いまは殆どが宅地化してしまった旧境内地跡に残された一の鳥居からの長い参道を歩き、境内地を横切る車道をわたって上図の二の鳥居をくぐりました。現在の境内地はここからになるようですが、その範囲だけでも結構な広さがあります。

 

 二の鳥居の横に立つ案内板です。これによれば、もとは古代の「栗隈大溝」の東側に鎮座していたのが戦国期の天文十九年(1550)に焼失したとあります。

 「栗隈大溝」とは「日本書紀」の仁徳天皇十二年(312)の条および推古天皇十五年(607)の条に見られる山背国栗隈の大溝(水路)のことで、いまも神社の旧位置の西側を流れる「古川」が栗隈の大溝の名残であるとも言われています。

 また、栗隈の大溝に接して屯倉(みやけ・朝廷の直轄地)があったのではないかと言われます。旦椋の「椋」を「倉」の意と解した説でありますが、明確な遺跡が発掘等によって確認されているわけではありませんので、可能性の問題に過ぎないと思います。

 

 二の鳥居をくぐってすぐのところに、上図の神門が建っています。瓦葺・平入切妻造の棟門ですが、老朽化のためか、前後に石製の柱を設けて主柱を支える形になっています。
 こうした神門がある神社は、江戸期までの神仏混交時代においては神宮寺が隣接していたケースが多いです。というより、神宮寺に門が設けられていたのに対応して、神社側にも門を設けた、という流れが一般的でした。

 なので、この栗隈(くりくま)天神も、本社の北野天満宮に倣って江戸期までは神仏混交の形態を呈して神宮寺が隣接していたものと思われます。ちょうど神門から西側に広いスペースがあって明治期には尋常小学校が置かれたらしく、その井戸と案内板が立っていますが、その尋常小学校が神仏分離で廃された神宮寺の跡地に置かれたのかもしれません。

 

 本殿に参拝したのち、横に回って玉垣越しに建物を見上げました。棟の木組みや懸魚などに天満宮の紋である梅紋が配されていますので、江戸期まで栗隈(くりくま)天神、天満宮と呼ばれた神社の様相をそのまま保っていることが分かります。

 もとの位置、すなわち現在地から約800メートルほど西の字「旦椋」にあった旦椋神社が戦国期の天文十九年(1550)に焼失した後、永禄九年(1566年)に現在地にもとからあって二十年ほど祭祀が断絶していた天満天神の地に社殿を再興し、天満天神を合祀する形で社殿が建てられました。再興後は栗隈天神社、栗隈天満宮などと呼ばれました。

 

 現在の本殿はそれを延宝二年(1672)に建て替えたものとされます。京都府の有形文化財に登録されています。御覧のように典型的な天満宮社殿としての姿を示し、軒から吊るされた提灯にも梅紋が付けられています。

 この栗隈天神社、栗隈天満宮が、式内社としての旧称の旦椋神社で再び呼ばれるのは、神仏分離後の明治十年(1877)6月からのことでした。戦国期から江戸期にかけては全く顧みられなかった延喜式の古制が明治期にいきなり復活した、という感じですが、この神社に限らず、全国どこでも似たような経緯があったといいます。

 神仏分離令は、時の明治新政府の強引な政策の一端でしたが、真面目に従った社寺、地域住民はごく一部にとどまったようで、京都や奈良でも完全な分離が行われて一切が失われた社寺というのは、実はほんの僅かです。大部分は神仏習合期の面影をどこかにとどめており、ここ旦椋神社においても本殿が例外ではなかったことを示しています。

 

 旦椋神社の地図です。近鉄大久保駅のすぐ西側に境内地があり、東側には大久保の市街地が広がっています。

 

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