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宇治巡礼20 縣神社

2024年01月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宇治地域には平等院や宇治上神社をはじめ、平安期からの由緒を伝える古社寺が少なくありませんが、宇治市中心部の南北の主要幹線である府道3号線に面した、上図の縣神社(あがたじんじゃ)は、おそらく最も古い神社ではないかと思われます。

 近年に人気アニメ「響けユーフォニアム」の舞台の一つとなったため、以降は聖地巡礼スポットに数えられて若いファンが訪れるようになりましたが、それまでは街中のありふれた神社のひとつとして、地域住民にのみ親しまれていたようです。

 その縣神社が、宇治市でも最も古い神社ではないかとされるのは、その号が古代の地方官制のひとつ「県(あがた)」をそのまま用いているためです。「県(あがた)」は周知のように「古事記」および「日本書紀」の成務天皇の段に初めて登場する地方区名で、そこに置かれる統治官が「県主(あがたぬし)」です。

 成務天皇は、皇室の系譜では13代目とされ、俗に倭の五王と呼ばれる応神天皇(15代)や仁徳天皇(16代)よりも前の人です。その治世期は四世紀、教科書で習う歴史のうえでは古墳時代の前期にあたります。
 その頃に定められた「県(あがた)」が現地にも置かれたかどうかは、史料が残っていないので不明のままですが、隣の奈良県つまり大和国では六つの地域に「県(あがた)」が置かれて「倭六県( やまとのむつのあがた)」と呼ばれ、それぞれに祀られた神社が現在も「御縣神社」の号で呼ばれています。

 「県(あがた)」は河内国や山城国にも置かれていますから、そのうちの一つが古代からの歴史を持つ宇治地域に置かれていても不思議はありません。現在の縣神社は、その最後の名残である可能性が高いと思います。

 

 縣神社は、平安期からの主要道であり中世戦国期には縣通りと呼ばれた現在の府道3号線に、境内地の西と南を区切られます。それで出入口は南と西とにありますが、正式な出入口は当然ながら上図の南の鳥居となります。拝殿および本殿が南面するためです。

 その境内地の規模は、もとの半分ぐらいになっているといい、昔は北辺および東辺が平等院の境内地と接していたといいます。平安期の永承七年(1052)に藤原道長が宇治の別業(別荘)を寺院となして平等院を創建した際に、その裏鬼門を守護する縣神社を鎮守に定めたといわれています。

 つまり、平等院が創建された時点で、縣神社は既に現在地にあったようです。縣神社の文献上の初見は、天延二年(974)前後に書かれたと推定される「蜻蛉日記(かげろうにき)」で、作者の藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)が宇治を訪れた際に「縣ノ院」に詣でた旨を記しています。

 この「縣ノ院」が縣神社のことを指すのであれば、十世紀代には既に存在していたことになります。

 

 ですが、それだけの古い神社でありながら、延喜式神名帳に列せられる宇治郡の10座には含まれていません。現地は平等院の創建の頃には久世郡に属しましたが、その久世郡の22座にも含まれていません。天延二年(974)前後に書かれた「蜻蛉日記(かげろうにき)」に「縣ノ院」とあるのは、実は縣神社ではなく、同地域にあった坊院または院家であったのかもしれません。
 その場合、それ以降より平等院創建の永承七年(1052)までの間に、何らかの形で神社が成立した可能性が考えられます。

 現在の境内には、拝殿や本殿の他に上図の天満宮(左)や梵天奉納所(右奥)が並びますが、いずれも中世からの祭祀の流れを示しており、古代にまで遡る古い要素は全く残されていません。

 

 ただ、上図の拝殿の奥の本殿に祀られる祭神は木花開耶姫命(このはなのさくやびめ)であり、又の御名を神吾田(かみあがた)として奉祀されたといい、「あがた」の名の通り神代以来当地の 守護神として崇められています。

 周知のように日本神話を代表する女神の一人であり、前述のごとく大和朝廷の成務天皇期以来の「県(あがた)」の由緒をまとっているのであれば、中国より導入した律令制度の延長上に整備され祀られた延喜式神名帳の神々とは別系譜の神であると認識された可能性が考えられます。
 別系譜の神であると認識されたのであれば、延喜式神名帳に列せられる神々のなかに縣神社がみえないのも納得出来るでしょう。

 

 現在の縣神社の建物は、本殿および拝殿が昭和11年の造営で、他の建物や摂社もその前後の建立であるそうです。最も古いのは、上図の「縣の杜(あがたのもり)」と呼ばれる神木のみです。樹種は椋(むく)で樹齢は500年以上と伝わりますが、この神木とて平等院創建の永承七年(1052)までは遡りえないので、古代の面影はただ「縣」の号のみに偲ぶしかありません。

 ただ、気になるのは、すぐ近くに名高い宇治の橋姫を祀る橋姫神社が鎮座していることです。双方の境内地は200メートルぐらいしか離れておらず、橋姫がもともと祀られた宇治橋との距離も300メートル程です。

 周知のように橋姫神社の祭神は瀬織津媛命で、宇治橋の守護神として宇治の結界をつかさどった女神です。地域の結界をつかさどる以上、地域の地主神として平等院の鎮守に定められた縣神社とは密接な関係があった筈ですが、この橋姫神社、瀬織津媛命もまた、延喜式神名帳には名が見えません。

 神代からの古い女神が宇治には二柱も祀られていながら、双方とも延喜式神名帳に名が見えないのは、縣神社と橋姫神社の間に何らかの共通要素が存在したことを示しています。律令政府の公式神社台帳である延喜式神名帳に記載されなかったことによって、その共通要素が歴史的に抹殺されてしまっている可能性が考えられます。

 その、消えてしまった歴史の最後の名残が、縣の字に象徴されているように感じるのは、考えすぎでしょうか。

 

 縣神社の地図です。平等院の裏鬼門(南西)にあたり、現在では宅地で隔てられていますが、かつては平等院敷地と隣接していたことが現在の路地の形からも伺えます。

 

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