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宇治巡礼18 神明神社

2024年01月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 平安京に都が移されて以降に、いまの宇治市の西南から東南にかけて広がる丘陵地域を「栗前野(くりくまの)」と呼んだことが諸々の古文献から知られています。宇治市北方の「木幡野(こはたの)」とともに天皇家の狩猟地としての歴史を持ち、桓武、嵯峨、仁明の各天皇がしばしば遊猟を楽しんだことが「日本後記」や「日本紀略」などに述べられます。

 この「栗前野(くりくまの)」を通るのが、平安京の九条口から大和国へと連絡する大和大路で、宇治地域では「宇治道」とも呼ばれたようです。宇治橋から大久保へと繋がる現在の府道15号線にあたります。
 その大和大路が「栗前野(くりくまの)」の最高所を越える位置に、上図の神明神社が鎮座しています。

 

 江戸期までは神明皇大神宮の名で崇められた、典型的な伊勢神宮系の神社です。上図の由緒書には創建を白鳳時代、天武天皇の頃としていますが、これは現在地に鎮座する前の古い神社の名残らしく、別の古文献では14、15世紀ごろに伊勢の御師によって、この地に伊勢の神が祀られた経緯が知られます。

 そのことは、現地の地名が「神明」であること、現地の北西方向に「伊勢田」という地名があって式内社の伊勢田神社が鎮座することからも伺えます。地形的には「栗前野(くりくまの)」の北西麓に「伊勢田」があって、最高所に「神明」があるので、両社はもともと「栗前野(くりくまの)」の上下にわたる伊勢信仰の範囲であった可能性が考えられます。

 

 鳥居をくぐって境内地に進みました。長い参道と左右に広がる社叢は、いまでは規模が縮小されているというものの、かつて伊勢神の勧請地として「栗前野(くりくまの)」の広い範囲を占めていた歴史をうかがわせます。

 室町期に伏見宮貞成 (さだふさ) 親王が著した日記「看聞御記(かんもんぎょき)」には「宇治今伊勢」の名があり、同じ室町期の外記局官人の中原康富の「康富記(やすとみき)」には「宇治神明」の名がみられます。いずれも当時の神明神社を指しているのでしょう。

 その後、資料によっては、境内地の面積がかつての半分以下になったとするものがありますが、これはここに限らず、全国各地の神社に共通してみられる歴史的変遷の結末でしょう。
 それでも現在の境内地は、一般的な神社よりは広く、奥まで歩いていくと5分ほどはかかりました。

 

 参道の途中に、上図の石で囲まれた園池のような施設があります。横の立て札には藻隠池跡または藻隠井戸跡とあり、もとは神社の湧水地か井戸があって手水や献水などに供されたものかと思われます。園池は近年に再建されたものようで、全てがまだ新しい感じでした。

 興味深いのは、明智光秀が山崎合戦の敗退後にここに立ち寄ってこの井戸跡に身を隠したとする伝承です。現地の大和大路は戦国期にも機能しており、そのまま北東へたどれば、明智光秀の終焉の地である「醍醐ノ辺」つまり伏見区の「明智藪」に辿り着きます。
 「栗前野(くりくまの)」の峠道が、明智光秀主従の敗走ルートであったことは間違いなく、近辺にも類似の伝承があると聞きますので、この神社に光秀が一時期身を寄せていた可能性は大いにあると思います。

 

 この神明神社が他の神明神社と違うのは、社殿が伊勢神宮と同じように二つあって内宮、外宮と呼ばれることです。伊勢神宮に準じた社殿配置をとるあたりにも、かつては京都近辺でも重要な伊勢信仰の拠点であった歴史がしのばれます。

 上図は外宮です。上図では本殿の屋根が白く光っていますが、伊勢神宮の外宮と同じ神明造、茅葺の社殿です。

 

 こちらは境内地の最奥に鎮座する内宮です。幣門や玉垣、神明造で茅葺の本殿の形式は外宮と共通です。建築様式も共通しており、社伝にて江戸期の文政二年(1819)に造替されたとするのは、外宮と内宮の双方であったようです。

 これだけの立派な伊勢神社系の神社が現在地に鎮座しているのは、当地に何らかの契機というか、古来からの宗教的な場所であった可能性が考えられますが、平安時代にまで遡れるかは疑問符が付きます。

 平安期の代表的な日記史料である「更級日記(さらしなにっき)」の著者である菅原孝標娘は、永承元年(1046)十月の大和初瀬詣での途中でここ「栗前野(くりくまの)」を越えています。
 その時は「日も暮れがたになりぬめり、ぬしたち調度とりおはさうぜよや、と言ふを、いとものおそろしう聞く」と述べていて、夕暮れの道にて従者たちが皆弓箭を取って武装せよと言っているので怖かったと、つまりは当時の「栗前野(くりくまの)」が山賊の出没地域として有名な場所であったことを綴っています。

 もし、平安期に神明神社が存在したなら、信心深い菅原孝標娘のことですから、立ち寄って参拝するか、少なくとも門前を通っている筈ですが、「更級日記(さらしなにっき)」にそれをうかがわせる記載はありません。山賊の出没地域として有名な場所であったそうですから、当時はまだ神明神社は存在せず、伊勢の御師によって伊勢信仰が広められるのも、ずっと後のことであったのでしょう。

 

 神明神社の地図です。付近の地名にも神明とあり、神明の字を冠した施設名や店舗名が点在しています。

 

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