気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

宇治巡礼21 南泉房跡

2024年01月17日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 平安期の永承七年(1052)に時の関白藤原頼通が創建した平等院には、その後も摂関家によって幾つかの堂塔が寄進造立されて甍を競いましたが、いまに建物を残すのは阿弥陀堂である鳳凰堂のみで、それ以外は退転して地中に埋もれてしまっています。

 それらのうち、発掘調査などによって確認され位置が判明したのは、藤原頼通の娘の寛子が康平四年(1061)に建立した多宝塔と、境内地の南側の山裾にあった南泉房の二棟だけです。上図は、その南泉房の遺跡が発見された場所の北側に立つ案内板です。平等院の南口の向かいの広い観光駐車場の南側の駐車場の北東辺あたり、かつての塔ノ川を暗渠化した車道の脇に立っています。

 

 案内板に近づいてみました。説明文にあるように、鎌倉期に編纂された説話集「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」の序文に南泉房のことが触れられています。原文は次のとおりです。

「世に宇治大納言物語といふ物あり、この大納言は隆国といふ人なり、西宮殿の孫俊賢大納言の第二の男なり 、年高うなりては暑さを侘びて暇を申して、五月より八月までは平等院一切経蔵の南の山際に南泉房といふ所に籠り居られけり、さて宇治大納言とは聞えけり」

 この序文によって、かつて平等院に南泉房という坊院の建物があり、その位置が一切経蔵の南の山際であることが知られていましたが、平成9年の発掘調査にて平安後期の庭園遺構が確認され、南泉房に関連する庭園と推定されることによって、南泉房の位置がほぼ確定しました。

 この「南泉房といふ所に籠り居られけり」と書かれる「隆国といふ人」とは、源隆国(みなもとのたかくに)のことを指します。関白藤原頼通のいとこにあたり、頼通の娘寛子が後冷泉天皇の皇后に立てられたのに伴って皇后宮大夫に任ぜられ、その流れで頼通の側近を務め、後に権中納言に昇進した醍醐源氏の高級官僚です。

 その源隆国は、康平四年(1061)に権中納言を辞し、その翌年に皇后宮大夫も辞して宇治に籠居しました。そして平等院の南泉房に籠って、文学活動に取り組んで各地の伝承や説話などを収集し、「宇治大納言物語」を編纂したといいます。
 この「宇治大納言物語」は散逸してしまって現存していませんが、「宇治大納言物語」に収録されなかった説話類をまとめた「宇治拾遺物語」の内容からおおよその傾向を知ることが出来ます。

 摂関家の出身で天台座主となった慈円が承久二年(1220)頃に著した「愚管抄(ぐかんしょう)」によれば、「宇治大納言物語」には、源隆国が藤原頼通に聞いた話も数多くまとめられていたといい、頼通の父の道長や周囲の人々の動向に関しての情報も豊富であったといわれます。当然ながら同時期の宮廷にて「源氏物語」とともに名をはせた紫式部こと藤原香子(ふじわらのこうし)の情報も含まれていた筈なので、「宇治大納言物語」が散逸してしまったのは本当に残念なことです。

 

 上図は南泉房推定地より発見された平安後期の庭園跡です。時期的にも源隆国の活動期と同じであり、現地に推定される平等院の建物が南泉房しかないため、南泉房の庭園であったのだろうとされています。

 「宇治拾遺物語」の序文には、南泉房に籠って文学活動に没頭していた源隆国について、次のように述べられています。

「髻を結ひ分けて をかしげなる姿にて 筵を板に敷て涼み居侍りて 大なる団扇をもてあふがせなどして 往来の者高き卑しきを云はず呼び集め 昔物語をせさせて 我は内にそひふして語るに従ひて大きなる双紙に書かれけり 天竺の事もあり大唐の事もあり日本の事もあり それがうちに貴き事もあり哀れなる事もあり穢き事もあり 少々は虚物語もあり利口なる事もあり 様々やうやうなり」

 そうして「宇治大納言物語」をまとめて文学活動を謳歌していた源隆国でしたが、もともと優秀な人であったらしく、宇治に籠居しているのはもったいないとみられたようで、治暦三年(1067)に権大納言に返り咲きます。時に64歳のことであり、当時は前中納言の大納言昇進は稀有の人事であったため、後々まで数少ない前例として語り継がれたといいます。宇治大納言と呼ばれたのもそのためで、おそらくは当時太政大臣であった藤原頼通の意向が働いたものと思われます。

 なので、源隆国が南泉房にて上図の庭園を愛でながら文学活動にいそしんでいた時期は、皇后宮大夫を辞して宇治に籠居した康平五年(1062)から権大納言に任ぜられる治暦三年(1067)までの五年間だけだったのでした。

 南泉房跡の位置は、地図の中央あたりです。平等院観光駐車場の南側の駐車場一帯が、以前より南泉房の推定地とされていましたが、その北東辺より庭園の遺構が発見されました。

 

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