気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ 作ります!! その4

2024年01月16日 | ガルパン模型制作記

 ステップ7では背面部の各部品を取り付けます。エッチングパーツも多いですが、C9、Y3、Y4、Y9、Y15は劇中車に見えませんので不要です。ガルパン仕様への追加作業として、車体右側のボックスの上にある三か所の留め具を取り付けます。

 ステップ8では後部の燃料タンクを組み立てます。そのキャップ部分を劇中車の形状に作り直します。Iの牽引フックの形状もキットのパーツは劇中車のと異なりますので、後でプラ材で作り直します。

 ステップ9では背面部の組み立ての続きを行います。A14、A15、C11、Y14は劇中車にありませんので不要です。またパーツBa8、Ba9のリベット2個をカットし、表面の正方形のモールドを削り取ります。燃料タンクのパイプを改造し、取り付け位置もやや前にずらします。さらに背面部の左右のバックランプを劇中車に合わせて追加再現します。

 

 ステップ7にて組み立てる範囲の、劇中車の状態です。キットとは色々と相違点があり、細かい部品はかなり省略されているようです。

 

 それで、ステップ7で取り付けるパーツは上図のエッチングパーツのY7のみになります。凸形に折り曲げたパーツです。

 

 Y7を取り付けました。

 

 続けてガルパン仕様への追加作業を行います。上図の車体右側のボックスの上にある三か所の留め具を取り付けます。赤円内に示したU字形の金具です。

 

 該当のパーツはキットには含まれませんが、タミヤイタレリのパーツをタミヤカスタマーより取り寄せた中にそのパーツが含まれていたので、それを転用しました。

 

 劇中車に合わせて三ヶ所に取り付けました。

 

 上からみるとこんな感じです。劇中車のシーンで色んな角度からみても分かりづらいパーツです。

 

 ステップ8に進み、燃料タンクと牽引フックのパーツ類を準備しました。いずれもガルパン仕様への改造が必要となります。

 

 まず燃料タンクを確認してみましょう。御覧のように、キットでは真ん中に位置しているキャップが後ろ寄りに付いています。

 

 キットでは、御覧のようにキャップが真ん中に位置してモールドされています。

 

 いったん削り取りました。キャップ本体をそのままカットしたかったのですが、溝の中央にあるためニッパーの刃が入らず、仕方なくヤスリで全部削りました。

 

 プラ材でキャップを急造して位置を合わせて取り付けました。

 

 牽引フックは、パーツにプラ材を追加する形での改造を施すので、まずパーツを指示通りに組み立てました。

 

 ステップ9に進み、燃料タンクを取り付けました。

 

 パイプのBa7もそのままでは使えないため、改造したキャップの前に組み付けるようにカットして形をそれらしく合わせて取り付けました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く36 その9  伊勢湾フェリーを見る

2024年01月15日 | ゆるキャン△

 伊良湖クリスタルボルトの展望所にて伊良湖港の景色を見、先導のパイロットボートが戻ってきてパイロットステーションに着岸するのを見ているうちに、伊勢湾フェリーの大きな船が港の出入口に進んできました。

 

 伊勢湾フェリーは以前に一度利用したことがあります。15年ぐらい前に渥美半島の史跡巡りをして、田原城跡や城宝寺、田原市博物館、伊良湖の史跡東大寺瓦窯遺跡などを見物して、伊良湖岬からの伊勢湾フェリーで鳥羽へ移動し、奈良へ近鉄で帰ったのでした。

 その際に乗った船かどうかを、記憶をまさぐりつつジーッと見つめていましたが、まだ距離が遠くて舳先の船名が読めないので、分かりませんでした。伊勢湾フェリーが保有している3隻、伊勢丸、鳥羽丸、知多丸のいずれかであることは確かでした。

 

 桟橋に接岸しつつある時になってやっと船名が読めました。知多丸でした。2004年に就航、基準排水量2331トン、全長73.32メートル、幅13.8メートルで、伊勢湾フェリーの3隻のなかでは小さいほうになります。旅客定員は500人、その内訳は特別室70人、普通客室370人、甲板60人です。搭載台数は、バスのみだと11台、乗用車のみだと43台です。ほかにバイク10台を積めます。

 この知多丸が、15年ぐらい前に伊良湖岬から鳥羽まで乗った船でした。あれからずっと働いていて今も現役のままか、頑張ってるなあ、もう一度乗って帰りたいなあ、・・・乗って帰ろうかなあ、と懐旧の念にかられつつ思い迷いました。

 ですが、京都まで帰るルートと所要時間を調べると、三河田原、豊橋へと戻って新幹線で帰る方が、約50分も早いのでした。前回は自宅が奈良だったから、伊勢湾フェリー利用で鳥羽から近鉄で帰れば良かったのでした。

 

 前回に利用した時は、上図の右側のスロープから乗った記憶があります。その時は、いま知多丸が付いている左隣のスロープに鳥羽丸が接岸していて、そちらのほうがやや大きく見えたのを覚えています。実際、鳥羽丸は基準排水量2410トン、全長77.34メートル、幅14.0メートルですから、知多丸よりはやや大きいです。外観もちょっと異なります。

 

 左側のスロープに付いて乗客や車輌を降ろすべく準備中の知多丸。以前に乗った時はもう少し船体が白っぽかった気がしますが・・・、15年の歳月のなかで汚れてきたのでしょうか・・・・。

 

 いいですねえ、船は。ロマンを感じます。子供の頃から船が大好きで、各地への旅行でもフェリーが利用可能なルートは大体フェリーを利用していますので、日本の大部分の航路には乗ったと思います。ガルパンの聖地巡礼でも北海道の苫小牧からフェリーで大洗へ行きましたし・・・。

 こうしたフェリーを見ていると、いつも心に「さんふらわあの唄」が流れてきて、「・・・一人になりたいとき 二人きりになりたいとき 誰かに会いたいとき 風がささやく海の旅に・・・」と思わず口ずさんでしまいます。
 毎年、商船三井の株主優待クーポン券を3枚いただきますので、それで九州への出張や旅行で「さんふらわあ」を30回ぐらいは利用してきました。それで自然に「さんふらわあの唄」も覚えてしまったのでした。

 

 車輌、乗客の下船が始まりました。数台の車やトラックがスロープの車道を降りていき、その横の歩道を80人ほどの乗客がゾロゾロと降りていきました。

 その手前の埠頭の所定位置には、既にこれから乗る車が約20台ほど並んで待機していました。うち1台は大型観光バスでしたので、フロントウインドゥ―の観光行先表示を見ると、「伊勢神宮・志摩めぐり」とありました。なるほど、伊勢に行くならこっちの方が近くて楽ですし、料金的にも名神高速および伊勢高道で行くよりは安いのだろう、と思いました。

 

 いやー、本当に乗りたくて仕方がなかった、15年ぶりの知多丸でした。予定を変更して、これに乗って帰ろうか、と何度も考えましたが、三河田原駅からの豊橋鉄道と、豊橋からの新幹線の帰りの切符をすでに買っているので、なんとか思いとどまりました。

 

 知多丸の左側の桟橋には巡視艇が停泊していました。超のつく船オタク、軍艦マニアのゆえに学生時代から「駆逐艦」のあだ名で呼ばれた私です。すぐに艇名を読んで「あおたき」と知り、PC58の番号を確かめて、よど型の8番か、消防艇だったな、ならば四管(第四管区・四日市)だな、と思い出しました。

 この「あおたき」はよど型巡視艇の8番艇で、総トン数は125トン、全長37メートルですが、船型の公称は「35メートル型」とされています。消防巡視艇とも呼ばれますが、そのとおり船舶の火災などで消防任務にあたる巡視艇です。

 

 なので、上図にて艇の前甲板や操舵室上に配置されている赤い砲は、機関砲などの武装ではなく、消防用の放水銃です。いずれも泡消火液と水の両方が出せますが、放出量が異なります。前甲板のは毎分2000リットル、操舵室上のは毎分6000リットルを放出出来ます。それとは別に後ろの伸縮式放水塔からは毎分4400リットルが放出出来ます。

 陸上の消防車一台の一般的な放出量が毎分2000リットル余りと聞いていますので、この「あおたき」だけで消防車6台分の放出能力があることになります。なので装備品も高スペックの機器が使用されており、建造費は1隻あたり17.5億円もかかっています。  (続く)

 

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アリクイさんチームの底力

2024年01月14日 | ガールズ&パンツァー

 最終章第4話の対継続高校戦にてフラッグ車を務め、最後まで生き延びて相手のフラッグ車を倒した殊勲のアリクイさんチーム、三式中戦車チヌです。

 この試合で猫田舞たちは初のフラッグ車任務に意気軒昂となっていたようですが、私自身はなぜこのチームにフラッグ車が割り当てられたのだろうかと不思議に思い、去年の1月に「無限軌道杯の大洗女子学園チームのフラッグ車」と題する記事を綴りました。

 ですが、最終章第4話が公開されて後も、ストーリー中にアリクイさんチームがフラッグ車に選ばれた事情や背景が一切描かれませんでしたから、疑問は疑問のままに留まっています。結果だけをみれば、このフラッグ車担当は正解であったことになりますが、試合前からそうなることを予期して選んだのか、と問われれば、個人的にはどうにも返答のしようがありません。

 

 ですが、このアリクイさんチームもテレビシリーズの初参戦でのあえない最後の姿から見ていると、劇場版、最終章と試合を重ねる度に確実に成長してきています。というより、相当の成長を遂げているな、と感心させられます。

 上図の、百瀬多希の闘志あふれる表情を見て下さい。普段からは想像出来ない相貌で機銃を射ちまくる日吉葵の力強い視線を見て下さい。敵陣の方向を見据えて身構える猫田舞以下、初陣の頃の頼りなさそうなネットゲーム仲間のトリオの面影は全くありません。おお、なんと頼もしいではないか、と感動してしまいました。

 

 その感動の直後に、もしかしたらアリクイさんチームがフラッグ車を担っていることによって何か劇的な変化があるのかもしれない、という淡い期待を覚えました。

 継続高校との準決勝戦はフラッグ戦ですから、とにかく撃たれないように行動して最後まで生き抜く、というのが主任務となります。他チームに比べればまだ試合経験数が半分以下ですから、練度も交戦経験もそれだけ少ないですが、逃げ回るだけならば何とかやれるかもしれない、と考えました。

 もともとはネットゲームの同志が組んだチームなので、ゲーマー独特の研ぎ澄まされた感覚とか、そういうものが優れていて、それが今度の試合でのフラッグ車任務に何らかの形で効果を発揮するのだろうか、とも想像しました。しかし、どのような形で表れるのかは、さっぱりイメージがわきませんでした。

 

 また、劇場版では筋トレに励む3人の姿が描かれています。結果的には、猫田舞も日吉葵も、6.6キロもある75ミリ38口径の一式徹甲弾を片手でホイホイと扱えるまでになりました。二人が砲弾をホイホイとリレーする場面もあり、その素早い装填の有様も、おそらくはガルパンの全登場高校の全チームを通して最速なのではないかと思われるまでに成長しています。

 なので、このスピーディーな装填による発射速度の速さが決め手になるのでは、と予想したりもしました。わざわざ筋トレのシーンが劇場版に出て、その鍛錬の成果が最終章で描かれているのには、何らかの意味があるのだろう、と思ったからです。

 ところが、実際の成果は、筋力を活かしての素早い装填と射撃ではなく、筋力による素早い雪玉のカムフラージュの構築、というものでした。これで相手フラッグ車の隊長ミカに油断させ、空の雪だるまを砲撃させたところを、横の雪の下から撃破したわけです。この予期もしなかった結末に驚き、また感動してしまいました。

 相手チームが意図的に起こした雪崩のなか、マークⅣの船のような巨体を舟艇のように操って、稜線上にアリクイさんチームを無事に「上陸」させたサメさんチームのアシストも見事でしたが、序盤戦の舞台である集落に戻ってきて、残っている雪だるまの列をみて咄嗟にトラップを思い付いて仕掛けたアリクイさんチームもよくやったと思います。

 雪だるまの横の木に三式中戦車チヌをドカーンとぶつけて停め、衝撃で降りかかってくる雪が車体を覆ったところで、砲手以外の2人が車外に出て、雪から突き出しているアンテナや機銃架などの部品をもぎ取り、隣の雪だるまに差し込んで偽装したわけです。相手か追いついてくるまでに一分もあるかないか、ですから、それだけの偽装で精一杯だったでしょう。
 ただ、もぎ取ると言っても、戦車の金属製の部品ですから簡単に取れるわけはないのですが、そこは筋力で解決、というのではあまりにも安直過ぎます。

 試合を振り返ると、三式中戦車チヌは二度ほど危ない目にあっています。ヨウコの狙撃が外れて車体前部かフェンダー前端かに跳弾となっていますし、その後に横転しまくって逆さになってしまって身動きがとれなくなっています。その際にアンテナや機銃架などの外に突き出た部品は相当のダメージを受けた筈で、ひん曲がるか、折れそうになっていた可能性が高いです。

 ここで、冒頭の画像をもう一度御覧下さい。三式中戦車チヌの砲塔上の機銃架が折れて曲がってしまっているのが確認出来ます。横転の際にダメージを受けて根元が折れやすくなっていた可能性が高いです。
 そういうのをもぎ取るのであれば、筋トレを続けた女子高生の腕でもなんとか対応出来た、ということでしょうか。

 いずれにせよ、ガルパンでも相当な手練れの隊長と思われる継続高校隊長のミカをひっかけたわけです。これは筋力のみではなく、知力や迅速な行動力も相まっての結果でした。それを支えたのが、園みどり子の「なんとしてでも生き延びなさい」という叱咤、そして最後の1輌になっても諦めない強い精神力、だったでしょう。

 それらを合わせての、アリクイさんチームの底力が、貴重な勝利を呼び寄せたのだ、と思います。

 

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宇治巡礼20 縣神社

2024年01月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宇治地域には平等院や宇治上神社をはじめ、平安期からの由緒を伝える古社寺が少なくありませんが、宇治市中心部の南北の主要幹線である府道3号線に面した、上図の縣神社(あがたじんじゃ)は、おそらく最も古い神社ではないかと思われます。

 近年に人気アニメ「響けユーフォニアム」の舞台の一つとなったため、以降は聖地巡礼スポットに数えられて若いファンが訪れるようになりましたが、それまでは街中のありふれた神社のひとつとして、地域住民にのみ親しまれていたようです。

 その縣神社が、宇治市でも最も古い神社ではないかとされるのは、その号が古代の地方官制のひとつ「県(あがた)」をそのまま用いているためです。「県(あがた)」は周知のように「古事記」および「日本書紀」の成務天皇の段に初めて登場する地方区名で、そこに置かれる統治官が「県主(あがたぬし)」です。

 成務天皇は、皇室の系譜では13代目とされ、俗に倭の五王と呼ばれる応神天皇(15代)や仁徳天皇(16代)よりも前の人です。その治世期は四世紀、教科書で習う歴史のうえでは古墳時代の前期にあたります。
 その頃に定められた「県(あがた)」が現地にも置かれたかどうかは、史料が残っていないので不明のままですが、隣の奈良県つまり大和国では六つの地域に「県(あがた)」が置かれて「倭六県( やまとのむつのあがた)」と呼ばれ、それぞれに祀られた神社が現在も「御縣神社」の号で呼ばれています。

 「県(あがた)」は河内国や山城国にも置かれていますから、そのうちの一つが古代からの歴史を持つ宇治地域に置かれていても不思議はありません。現在の縣神社は、その最後の名残である可能性が高いと思います。

 

 縣神社は、平安期からの主要道であり中世戦国期には縣通りと呼ばれた現在の府道3号線に、境内地の西と南を区切られます。それで出入口は南と西とにありますが、正式な出入口は当然ながら上図の南の鳥居となります。拝殿および本殿が南面するためです。

 その境内地の規模は、もとの半分ぐらいになっているといい、昔は北辺および東辺が平等院の境内地と接していたといいます。平安期の永承七年(1052)に藤原道長が宇治の別業(別荘)を寺院となして平等院を創建した際に、その裏鬼門を守護する縣神社を鎮守に定めたといわれています。

 つまり、平等院が創建された時点で、縣神社は既に現在地にあったようです。縣神社の文献上の初見は、天延二年(974)前後に書かれたと推定される「蜻蛉日記(かげろうにき)」で、作者の藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)が宇治を訪れた際に「縣ノ院」に詣でた旨を記しています。

 この「縣ノ院」が縣神社のことを指すのであれば、十世紀代には既に存在していたことになります。

 

 ですが、それだけの古い神社でありながら、延喜式神名帳に列せられる宇治郡の10座には含まれていません。現地は平等院の創建の頃には久世郡に属しましたが、その久世郡の22座にも含まれていません。天延二年(974)前後に書かれた「蜻蛉日記(かげろうにき)」に「縣ノ院」とあるのは、実は縣神社ではなく、同地域にあった坊院または院家であったのかもしれません。
 その場合、それ以降より平等院創建の永承七年(1052)までの間に、何らかの形で神社が成立した可能性が考えられます。

 現在の境内には、拝殿や本殿の他に上図の天満宮(左)や梵天奉納所(右奥)が並びますが、いずれも中世からの祭祀の流れを示しており、古代にまで遡る古い要素は全く残されていません。

 

 ただ、上図の拝殿の奥の本殿に祀られる祭神は木花開耶姫命(このはなのさくやびめ)であり、又の御名を神吾田(かみあがた)として奉祀されたといい、「あがた」の名の通り神代以来当地の 守護神として崇められています。

 周知のように日本神話を代表する女神の一人であり、前述のごとく大和朝廷の成務天皇期以来の「県(あがた)」の由緒をまとっているのであれば、中国より導入した律令制度の延長上に整備され祀られた延喜式神名帳の神々とは別系譜の神であると認識された可能性が考えられます。
 別系譜の神であると認識されたのであれば、延喜式神名帳に列せられる神々のなかに縣神社がみえないのも納得出来るでしょう。

 

 現在の縣神社の建物は、本殿および拝殿が昭和11年の造営で、他の建物や摂社もその前後の建立であるそうです。最も古いのは、上図の「縣の杜(あがたのもり)」と呼ばれる神木のみです。樹種は椋(むく)で樹齢は500年以上と伝わりますが、この神木とて平等院創建の永承七年(1052)までは遡りえないので、古代の面影はただ「縣」の号のみに偲ぶしかありません。

 ただ、気になるのは、すぐ近くに名高い宇治の橋姫を祀る橋姫神社が鎮座していることです。双方の境内地は200メートルぐらいしか離れておらず、橋姫がもともと祀られた宇治橋との距離も300メートル程です。

 周知のように橋姫神社の祭神は瀬織津媛命で、宇治橋の守護神として宇治の結界をつかさどった女神です。地域の結界をつかさどる以上、地域の地主神として平等院の鎮守に定められた縣神社とは密接な関係があった筈ですが、この橋姫神社、瀬織津媛命もまた、延喜式神名帳には名が見えません。

 神代からの古い女神が宇治には二柱も祀られていながら、双方とも延喜式神名帳に名が見えないのは、縣神社と橋姫神社の間に何らかの共通要素が存在したことを示しています。律令政府の公式神社台帳である延喜式神名帳に記載されなかったことによって、その共通要素が歴史的に抹殺されてしまっている可能性が考えられます。

 その、消えてしまった歴史の最後の名残が、縣の字に象徴されているように感じるのは、考えすぎでしょうか。

 

 縣神社の地図です。平等院の裏鬼門(南西)にあたり、現在では宅地で隔てられていますが、かつては平等院敷地と隣接していたことが現在の路地の形からも伺えます。

 

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聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ 作ります!! その3

2024年01月12日 | ガルパン模型制作記

 ステップ3では、EからHまでの四つの部品を組み立てます。このうち、FとGは既にステップ2でまとめて作っています。またHの予備履帯は劇中車にありませんので省きます。残るEはガルパン仕様への改修が追加されます。
 ステップ4では上部車体の組み立てを行います。ガルパン仕様への修正工作が一ヶ所あります。

 

 ステップ3で組み立てるEの部品のパーツ群です。位置や形状から、操縦席のボックスとみられます。上図下に見える黄色のプラ棒は、ガルパン仕様への改修で使います。

 

 御覧のように、操縦席ボックスの右側つまりフェンダー側に棒が横に突き出しています。今回のボーダーモデルのキットにも、タミヤやイタレリのキットにも該当のパーツが見当たりませんでしたので、この部分はプラ棒で追加して再現します。何のための棒なのかは分かりませんが、付いている以上は何らかの役目があるのでしょう。

 また、操縦席ボックスの覗き窓が開いた状態になっています。タミヤやイタレリのキットではこの部分が閉じられた状態でパーツ化されていますが、今回のボーダーモデルのキットでは窓の覆いが別パーツになっているので、開閉いずれかの状態を選べます。ここでは劇中車に合わせて開状態にします。

 組み上がりました。覗き窓の覆いはパーツA11を下に下げて開口状態にし、横に突き出す棒も再現しました。

 

 ステップ4に進みました。ここで上部車体を組み立てます。

 

 とりあえず、組み立てガイドの指示通りに組み立てました。この段階で上部車体はほぼ出来上がったことになります。

 

 ガルパン仕様への修正工作は一ヶ所、上図のエンジンフード上中央の斜めの白い板でした。元のモールドは逆に付いていましたので、削り取って、同じパーツをプラ板で向きを劇中車に合わせて貼りました。

 

 劇中車のこの部分です。何かの装備品を固定する金具だろうと思います。板の中央の長いネジは後で追加します。

 

 ステップ5では上下の車体を貼り合わせます。
 ステップ6では車体前面部の各部品を取り付けます。ガルパン仕様への追加工作が二ヶ所あります。

 

 ステップ5で上下の車体を貼り合わせました。上部車体に反りがあったため、下部車体と合わせるとあちこちに隙間が生じました。それらが出ないようにテープで固定して接着しました。

 

 今回のキットには、たぶん個体差なのでしょうが、車体の上下のパーツに反りや僅かな歪みが見られました。ここ数年の新製品のキットでこういった反りが出たのは、私自身の製作においては初めてのことでした。

 

 接着剤が完全に乾燥した時点でテープをほどきました。

 

 ステップ6では車体前面部の各部品を取り付けます。

 

 細かいパーツが多いので、紛失しないようにプラ皿に入れて準備しました。前照灯やライトガードなどのパーツです。

 

 組み上がりました。続いて、ガルパン仕様への追加工作が二ヶ所あります。

 

 御覧のように前照灯の外側にミニサイズのライトがあります。クロムウェル巡航戦車などに見られるミニライトと同種のもののようですが、クルセイダーの適応キットのいずれにも入っていませんので、パーツを持ってくるか、自作するかのどちらかになります。
 また、右側フェンダーの前端の予備履帯ボックスの前に、バックミラーの基台部分があります。マチルダⅡなどに見られるものと似たような構造であるようです。これも今回のキットにはパーツがありませんので、プラ材でそれらしく追加します。

 

 下手の横好きが、思いっきり妥協して大まかに追加するのですから大した出来ではありません。御覧の通りの超テキトーな仕上がりですが、雰囲気重視ということで、それらしく形が出来ていれば良し、としておきます。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く36 その8  道の駅伊良湖クリスタルボルト

2024年01月11日 | ゆるキャン△

 三河田原駅から16時発のバスに乗って、この日の最後の目的地である伊良湖岬へ向かいました。途中の景色ののどかさは、どこもかしこも日本の原風景であって、眺めていて懐かしい思いにかられました。子供だった頃は、家の周りがこんな感じだったなあ、と窓の外を眺め続けていました。

 こういうのは、バスの旅だから出来ることで、自分で車やバイクを運転していたら、周囲の景色を眺めたり楽しんだりするのは難しいです。私が2019年に京都に凱旋移住してから車を手放した理由のひとつが、まさにそれでした。

 

 一時間後の16時59分、終点の伊良湖岬バス停に着きました。上図は乗って来た豊橋鉄道バスです。

 

 バス停のすぐ横に、上図の「道の駅伊良湖クリスタルボルト」の大きな建物がありました。伊勢湾フェリーの窓口や特産品販売コーナー、休憩ルームやレストラン、展望所などが入った多目的観光施設です。

 

 この建物が、原作コミック第88話にて土岐綾乃が志摩リンにメールで送った画像の一枚に出ています。同じようなアングルで撮りました。

 

 このシーンですね。バイクに乗ったままで自撮りしていますので、建物内部に入っているかは分かりませんが、伊良湖岬の港湾施設と海岸を一望できる展望所がウリの施設ですから、おそらく土岐綾乃も見物に立ち寄っているだろう、と思います。

 

 記念の自撮り。土岐綾乃推しでもありますので、こうして同じ場所で撮るのは最高だったりします。夕陽をまともに受けて眩しかったのですが、そんなことは気になりませんでした。

 

 帰りのバスは17時50分、それまで50分ありましたから、道の駅の内外と伊勢湾フェリー乗り場を見物し、土産物を買うことにして、まずはこの施設のウリである展望所へ向かいました。玄関をくぐると上図の案内板があり、伊勢湾フェリーのほかに篠島や日間賀島行きの観光船も出ていることを知りました。

 篠島や日間賀島へは、小学生の頃に三度ほど行ったことがあります。その頃、三ヶ日の伯父や浜松の叔父らとお盆に集まる場所が篠島や日間賀島だったからです。当時は、上図の案内板にもある河和(こうわ)まで名鉄で行ってそこから観光船で篠島や日間賀島へ渡りました。
 特に篠島ではタコの料理が美味しかったな、海水浴も楽しかった、と今でも覚えています。当時のアルバム写真を見ると、日間賀島ではみんなでフグ料理を食べていますが、そちらはなぜか全然記憶がありません。

 

 下へ降りると三河湾観光船や伊勢湾フェリーの乗り場に行きます。下に降りずにそのまま奥へ進むと、伊良湖岬の港湾施設と海岸を一望できる展望所へ行けます。

 

 で、展望所に行って伊良湖岬の海岸の景色を見ました。土岐綾乃もこの景色を眺めたのでしょうか。

 

 おっ、敵艦か?・・・ただちに三六式無線機にて発信、「敵艦ミユ」。  (アホかお前は)

 

 これは敵艦ではなく、日本水先人会連合会の伊勢三河湾水先区のパイロットボートでした。パイロットボートとは、港湾などで船舶を誘導したりする小船の総称です。パイロットボートにはエスコートボート、タグボートの2種類があって、前者は日本各地の湾の入り口から港内までの操船を誘導し、後者は港内での離着岸を支援する役目を持ちます。

 上図の赤いパイロットボートは前者にあたるようで、接近中の伊勢湾フェリーの航路上にて前方を航走しての誘導の役目を果たして港内に戻ってきたのでした。

 

 御覧のように、伊良湖岬の港湾内に、伊良湖港パイロットボートステーションと呼ばれる基地があります。同じようなパイロットボートが数隻停泊しているのが見えました。先ほど戻ってきたパイロットボートも、そこへスーッと入って停まりました。

 私の大学時代の友人の一人が、これは神戸市の人ですが、船が大好きで、卒業後に芦屋市の海技大学校に進学しました。そして国家試験である水先人試験をパスし、現在は瀬戸内海全域を対象とした広域水先区である神戸の内海水先区にてパイロットボートに乗務しています。

 大学時代は弥生式土器の研究に熱中し、教育委員会か埋蔵文化財関連の仕事に行くかと言われていた彼が、水先人になったと聞いて周囲は驚いていましたが、彼と軍艦趣味が合って一時期は一緒に舞鶴や神戸へ護衛艦を見に行っていた私は「やっぱりか」と納得したものでした。

 なぜかというと、水先人は船に乗れるし給料もいいから、と何度か聞かされていたからです。確かに水先人は日本でも指折りの高給職であり、一番上の一級水先人の平均年収が2000万円以上です。
 友人は現在は二級水先人の筈ですが、二級水先人の平均年収は1500万円ぐらいと聞いています。日本の近海を航行する全ての船舶の安全を守るのが任務ですから、業務内容もものすごくハードだそうですが、五年ぐらい前に同窓会で会った時には「もう楽しくて仕方がない」と話していました。  (続く) 

 

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ヨウコの狙撃が前提だった?

2024年01月10日 | ガールズ&パンツァー

 サークルのガルパン仲間のT氏は、ガルパンファンの例にもれず、最終章第4話を何度も視聴したといいます。上映劇場も地元のTジョイ京都だけでは飽き足らず、劇場ごとの音響を体験したいと大阪のTOHOシネマズ梅田、兵庫のアースシネマズ姫路、滋賀のイオンシネマ草津、奈良のユナイテッドシネマ橿原にも行って、合計8回の視聴を楽しんだそうです。

 どこが良かったか、と訊くと「姫路やな」と即答しました。アースシネマズ姫路は、私も兵庫県に住んでいた時期に何度か行ってDolby Atmosのセンシャラウンド音響の素晴らしさに感動しましたので、同感でした。
 ガルパンの映画を堪能したあとは、国宝姫路城に寄ってんや、あそこは日本最大級の現存城郭やから、色々と歴史の凄さを体験出来るので面白いな、とのT氏の感慨にも「うん、面白いよな」と同意しましたが、肝心の最終章第4話についての感想は、微妙に異なっていたようです。

 T氏はまず大洗女子学園チームの勝利を祝い、臨時に指揮を引き継いで見事に勝ちを引き寄せた澤梓の健闘ぶりを、ウサギさんチーム推しらしく賞賛と絶賛の言葉で大いに讃えました。そして、それとは逆に継続高校チームの試合ぶりを「全てが減点対象なんと違うかね」と思いっきり酷評しました。

 その批判の口調は、継続高校チームに、というよりは継続高校チームの戦いぶりを作案し演出した制作陣へ向けられているようでした。もうちょっと頭を使って考えてくれれば、栄えある戦いぶりを表現出来たんと違うかね、と三度も繰り返しました。どうやら、第4話の展開は、T氏が劇場版以来ずっと抱いていた継続高校のイメージと違っていたようです。

「継続の作戦は、あれで作戦と言えるのかね。全ては、スナイパー・ヨウコ(上図)の狙撃を前提としてるみたいに思えた。やから、ヨウコがやられた後は、ただのジェットコースター物語でしかなかったやんか、刺さるような戦車戦をちっともやってないまま、あっさりと引っかけられて敗退した。ミカって、その程度の指揮官やったのかね」

 T氏の言う「刺さるような戦車戦」というのが具体的にどのような戦車戦を意味するのかは、よく分かりませんでしたが、「ミカって、その程度の指揮官やったのかね」という部分だけは、なんとなく頷けるものがありました。

 

 私自身は、もともとミカに関しては、かつて黒森峰女学園チームを苦戦させたという西住みほの述懐からも、かなりの手練れというイメージがありました。劇場版での目の覚めるような活躍ぶりも記憶に鮮やかでしたし、実際のところ、第4話の冒頭からの展開は、そのイメージからの乖離感をあんまり感じさせませんでした。

 たとえば、序盤で雪だるまからの奇襲をかけて相手チームを四散させ、戦力を分散せしめたうえで、主兵たるあんこうチームを撃破して戦列外に退けたのは見事というほかはなく、その衝撃で一時的な混乱に陥りかけた大洗女学園チームに圧迫をかけるようにしてジリジリと包囲戦に持ち込んだあたりも、流石と思わせるものがありました。

 さらに、指揮を引き継いだカメさんチームをも撃破して相手チームの統率力をさらに弱めようとし、次なる指揮官のもとでトンネルからの脱出を試みることをも察知して、トンネルの出口に待ち伏せの部隊を急派したあたりも、隙の無い歴戦の戦術派指揮官らしい凄味を感じさせました。
 こんな相手が隊長じゃ、そりゃ黒森峰女学園チームも苦戦させられるわけだ、と納得したものでした。

 ところが、上図のヨウコのⅢ号突撃砲G型が大洗の同型車輌にあっさりと撃破された後は、その冴えわたるような頭脳の煌めきが全く消え失せてしまったかのようでした。相手チームの要点をピンポイントで潰していく、という流れがピタリと止まってしまったかのように感じられました。

 そのギャップの意外さに、思わず席から腰を浮かしてしまい、おいミカ、どうしたんだ、と思わず声が出そうになってしまい、慌てて右手で口を抑えたのを今でも覚えています。

 

 なので、それまでのミカだったならば、続いて指揮を執っていたウサギさんチームに狙いを定める筈だろうと思うのですが、ヨウコが陣外に退けられた後は、その形跡すら感じられず、執拗にマークすることも無く、T氏のいう「ただのジェットコースター物語」のなかで滑走と小競り合いを楽しんでいるだけのように見えました。

 試合形態はフラッグ戦でしたから、勝利条件は相手フラッグ車の撃破となります。したがってアリクイさんチームを執拗に追いかける、という構図が直ちに成立する筈でしたが、見た感じではそれほど執拗に狙って追いかけている、という感じはあまり強く感じられませんでした。むしろ、急斜面の降下スピードを相手チームと競っているような感が強かったと思います。

 確かに雪山の急斜面の降下自体は継続高校のお家芸らしく、隊長搭乗車のBT-42にはソリまで履かせて乱れぬ陣形で優雅に滑走して相手にプレッシャーをかけ続けていました。しかし、ハイスピードで降下しながらの射撃にはやはり難があったらしく、肝心の撃破スコアを思うように稼げていなかったところがあります。

 

 むしろ大洗女子学園チームのほうが驚異的な適応力を示していつしか降下滑走にも慣れ、上図のサメさんチームが初の撃破戦果をもぎ取りました。大洗側は続いてもう1輌のT34/76を擱座せしめ、澤梓たちも「大脱走」の大ジャンプシーンにヒントを得てサメさんチームを踏み台として跳躍、継続高校チームの守りの要であったKV-1Eを射ち抜きました。

 この試合は準決勝戦ですから、戦力比は15対9の圧倒的優勢だった筈ですが、ここで一気に同数ぐらいに転じています。これはどう捉えてもピンチ以外の何者でもないでしょう。

 こういった流れになることをミカが予想していなかったのであれば、隊長の作戦指揮としてはあまりにもお粗末です。この試合の作戦が、全てヨウコの狙撃を成立させることを前提にして編まれていたとしても、ヨウコがやられた場合の備えも二重三重に巡らしておくのが指揮官たる者の務めではないでしょうか。

 ですが、ヨウコに続いてユリを失った後は、もう何の作戦も仕掛けもとらずに、ただアリクイさんチームを追いかけるだけになっていました。山麓に降りて集落に戻ってきた終盤の時点で、兵力比はまだ2対1で優勢を維持していたのですから、大洗のラスト1輌の思わぬ反撃にも備える余裕はあった筈です。雪崩にも巻き込まれずに最後まで随伴してきた1輌(タミ?トミ?)が居ましたから、それと連携しての詰めを仕掛けて最後の華を掴みとるべきでした。

 要するに、大洗のラスト1輌はどちらかの雪玉の中に隠れていたわけですから、まず随伴車輌に片方を撃たせて、その結果次第でミカが王手をかければ良かったのです。トラップと分かっていれば、そこで一歩引いて先を読んで仕掛けることも出来た筈ですが、そのままフラッグ車の自らが仕留めに行き、返り討ちにあいました。そうしたミカの戦いぶりは、明晰な判断が冴えわたった前半とは別人のようでした。

 アリクイさんチームの雪だるまトラップに単純に引っかかった、と言えばそれまでですが、その程度のミカだったのだろうか、といまでも少し首を傾げます。あのトラップ程度なら、試合前半期のミカであれば易々と見破ったに違いないし、そうでなくても万全の備えをとって対処しただろうな、と思うからです。

 そもそも、ミカが相手フラッグ車と睨んで自信満々のニヤリ顔で撃ち飛ばした雪だるまは、序盤の自チームの雪だるま奇襲作戦に使用した複数の雪だるまのうちの未使用分であったようです。
 その複数の雪だるまは、もとから集落内に並んでいて、大洗女子学園チーム側も河嶋桃隊長以下が横目で見ています。その居並ぶ雪だるまの一つであったならば、それらは序盤の奇襲作戦に用いるべくミカたちがこしらえたものであることになります。なんで自分たちが作った雪だるまトラップに引っかかるかな、と思ってしまったわけです。

 やっぱり、T氏の評のとおり、「全ては、スナイパー・ヨウコの狙撃を前提として」の作戦だったのでしょうか。個人的にはそこまで極言するには至りませんが、ミカの指揮作戦が、ヨウコの撃破後になにか一気に崩壊してしまったような、そんな感じをなんとなく抱いたのだけは確かでした。
 策に策を重ねた前半戦とは違って、後半戦が「ただのジェットコースター物語」で単なるお互いのすり減らしに終始していたため、黒森峰女学園チームと聖グロリアーナ女学院の終盤のアクロバチックな戦いぶりが鮮やかで熱く感じられてしまった程でした。

 なので、T氏は酷評していましたが、私自身は何か物足りない気分、いわば不完全燃焼の状態で、劇終後の初視聴の席を立ったのでありました。

 

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宇治巡礼19 旦椋神社

2024年01月09日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 近鉄京都線の大久保駅の西側の宅地のなかに、旦椋(あさくら)神社という古い神社があります。もちろん延喜式神名帳に記載される式内社のひとつで、いまは宇治市に属していますが、近世までの行政区分においては宇治郡ではなくて久世郡に属していました。

 ですが、旦椋神社の江戸期までの呼称は栗隈(くりくま)天神、または栗前(くりくま)天神でありましたから、現地も平安京に都が移されて以降に「栗前野(くりくまの)」と呼ばれた地域に含まれていたことがうかがえます。
 「栗前野(くりくまの)」の大半は宇治郡にあたりますが、一部は久世郡にもまたがっていたようです。「倭名類聚抄」の山城国久世郡の項にみえる「栗隈郷」が神社を含むエリアに該当するようです。

 

 いまは殆どが宅地化してしまった旧境内地跡に残された一の鳥居からの長い参道を歩き、境内地を横切る車道をわたって上図の二の鳥居をくぐりました。現在の境内地はここからになるようですが、その範囲だけでも結構な広さがあります。

 

 二の鳥居の横に立つ案内板です。これによれば、もとは古代の「栗隈大溝」の東側に鎮座していたのが戦国期の天文十九年(1550)に焼失したとあります。

 「栗隈大溝」とは「日本書紀」の仁徳天皇十二年(312)の条および推古天皇十五年(607)の条に見られる山背国栗隈の大溝(水路)のことで、いまも神社の旧位置の西側を流れる「古川」が栗隈の大溝の名残であるとも言われています。

 また、栗隈の大溝に接して屯倉(みやけ・朝廷の直轄地)があったのではないかと言われます。旦椋の「椋」を「倉」の意と解した説でありますが、明確な遺跡が発掘等によって確認されているわけではありませんので、可能性の問題に過ぎないと思います。

 

 二の鳥居をくぐってすぐのところに、上図の神門が建っています。瓦葺・平入切妻造の棟門ですが、老朽化のためか、前後に石製の柱を設けて主柱を支える形になっています。
 こうした神門がある神社は、江戸期までの神仏混交時代においては神宮寺が隣接していたケースが多いです。というより、神宮寺に門が設けられていたのに対応して、神社側にも門を設けた、という流れが一般的でした。

 なので、この栗隈(くりくま)天神も、本社の北野天満宮に倣って江戸期までは神仏混交の形態を呈して神宮寺が隣接していたものと思われます。ちょうど神門から西側に広いスペースがあって明治期には尋常小学校が置かれたらしく、その井戸と案内板が立っていますが、その尋常小学校が神仏分離で廃された神宮寺の跡地に置かれたのかもしれません。

 

 本殿に参拝したのち、横に回って玉垣越しに建物を見上げました。棟の木組みや懸魚などに天満宮の紋である梅紋が配されていますので、江戸期まで栗隈(くりくま)天神、天満宮と呼ばれた神社の様相をそのまま保っていることが分かります。

 もとの位置、すなわち現在地から約800メートルほど西の字「旦椋」にあった旦椋神社が戦国期の天文十九年(1550)に焼失した後、永禄九年(1566年)に現在地にもとからあって二十年ほど祭祀が断絶していた天満天神の地に社殿を再興し、天満天神を合祀する形で社殿が建てられました。再興後は栗隈天神社、栗隈天満宮などと呼ばれました。

 

 現在の本殿はそれを延宝二年(1672)に建て替えたものとされます。京都府の有形文化財に登録されています。御覧のように典型的な天満宮社殿としての姿を示し、軒から吊るされた提灯にも梅紋が付けられています。

 この栗隈天神社、栗隈天満宮が、式内社としての旧称の旦椋神社で再び呼ばれるのは、神仏分離後の明治十年(1877)6月からのことでした。戦国期から江戸期にかけては全く顧みられなかった延喜式の古制が明治期にいきなり復活した、という感じですが、この神社に限らず、全国どこでも似たような経緯があったといいます。

 神仏分離令は、時の明治新政府の強引な政策の一端でしたが、真面目に従った社寺、地域住民はごく一部にとどまったようで、京都や奈良でも完全な分離が行われて一切が失われた社寺というのは、実はほんの僅かです。大部分は神仏習合期の面影をどこかにとどめており、ここ旦椋神社においても本殿が例外ではなかったことを示しています。

 

 旦椋神社の地図です。近鉄大久保駅のすぐ西側に境内地があり、東側には大久保の市街地が広がっています。

 

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聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ 作ります!! その2

2024年01月08日 | ガルパン模型制作記

 ステップ2の続きです。操縦席のハッチとみられる部品Bを組みますが、ガルパン仕様への改造を追加します。

 

 上図のパーツA19の天面にリベットが並びますが、劇中車ではリベットがありません。

 

 御覧のように、該当部分にリベットが全くありませんので、これに合わせます。

 

 リベットを全て削って、組み上げました。

 

 続いて部品Cはガイドの指示通りに組みました。背面左側の何かのボックスのようです。

 

 劇中車の背面の左側にのみ、そのボックス状の部品が付いています。キットのパーツもワンセットのみでした。

 

 続いてエンジンフードの左右に配置される長方形の部品Dを組みます。この部品もガルパン仕様への変更改造が必要となります。
 今回の車輌ではガルパン仕様への改造箇所が幾つかありますが、そのなかで最も改造が大変な箇所だと思います。ステップ2の段階でいきなり壁にぶちあたる感がありましたが、かなり目立つ部分なので、手抜きするわけにもいかないのでした。これの改造はタミヤやイタレリのキットを使った場合でも同じです。

 

 劇中車の部品がどうなっているかを確認してみましょう。左右とも中央のハッチの向きが同じで、天面にはリベットが無く、かつ天面とハッチの段差が無くてフラットに続きます。この状態に改造することになります。

 

 そして該当するパーツC23の本来の形状は上図の通りで、左右の中央のハッチの向きが逆で、天面にも周縁部にリベットが並び、かつ天面とハッチの段差が有ってハッチが僅かに高いです。

 

 しかも、側面パーツのC14、C15、C35、C36を指示通りに貼りつけますと、上図のように周縁部が高くなります。天面部に合わせる形で側面パーツの上端を削ると、側面上列のリベットの一部も削ってしまうので、この方法は採れませんでした。 
 
 どうしようかと頭をひねった結果、まずは左右で向きが逆にモールドされているハッチは、段差も伴うので撤去することにして御覧のようにザックリと穴を開けて切り取りました。

 両端が白っぽいのは、周縁部との段差を無くすべく、天面部にパテを薄く塗り重ねようとして、試みに両端に塗ってみたところ、表面がデコボコになってしまって、これはダメだと剥がした結果です。

 

 色々と考えた末、周縁部との段差を無くして、天面をフラットにする唯一の方法として、上図のようにプラ板を張ってみました。これが正解だったと思います。天面とハッチが同じ高さですから、あらかじめプラ板にラインチゼルでハッチの線を引いておきました。

 これの反対側にあたる部品は、本来ならば次のステップ3にて組み立てますが、同じ改造手順を追加するので、ここでは左右両方をまとめてセットで改造しました。

 ちなみに貼りつけたプラ板のサイズは、長辺3.6センチ、短辺1センチでした。その中央に0.6センチの幅でケガキ線を入れてハッチ部分としました。僅かな隙間はパテで埋め、天面部をサンドペーパーで磨くように均してフラットに仕上げました。

 

 かくして、左右とも同じ改造を進めて上図のように仕上げました。

 

 ハッチのハンドルはパーツC31を同じ向き、位置に取り付けました。ヒンジ部はブラ材でそれらしく再現しておきました。まあ、こんなもんでしょうか。

 

 続いて、右側の部品の後端に、エッチングパーツのY6を取り付けました。これは後のステップ3での工程ですが、前倒しで行ないました。このアーム状の部品は劇中車にも付いていますので、ガイドの指示通りに取り付けました。

 

 劇中車の該当部品です。これは右側にのみ付いていて、左側には無いです。何の部品であるかはガイドにも説明が無くて分かりませんでした。

 

 かくして、今回の車輌で最も大変なガルパン仕様への改造箇所の部品を何とか作り終わりました。

 このボーダーモデルのキットは最も劇中車に近いため、タミヤやイタレリの品で作る場合に色々と必要な細部の修正の殆どが不要となりますので、作る側にとっては一番扱いやすいのですが、それでもこういう難しくて大変な箇所は共通していますから、気楽に構えることは許されませんでした。この後も色々と大変そうだな、と感じました。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く36 その7  三河田原駅へ戻る

2024年01月07日 | ゆるキャン△

 バスの時刻が迫ってきたので、道の駅あかばねロコステーションを15時前に起って、途中の若宮八幡神社に道中安全祈願のために立ち寄りました。

 

 その際に、上図の建物を見かけました。最初は塀だと思っていたのですが、御覧のように内部空間があるので塀ではなくて長い小屋でありました。

 

 中には長い丸太や梯子が何本も積んでありました。

 

 たぶん祭礼とかで幟の柱として使うものをここに収納しているのだろうな、と考えていると、後ろから声を掛けられました。振り返ると、犬を連れた地元住民らしき老婆が階段の下に立っていました。

 

 挨拶して、この小屋について尋ねてみたら、思った通り、祭礼とかで幟の柱として使うものをここに収納している、ウチも氏子なので、祭礼の時は家族総出でお手伝いする、と説明して下さいました。

 しかし、こうした小屋形式の倉庫は京都や奈良の神社でもあまり見かけないので、珍しい建物に属すると思います。

 

 少し時間をくってしまったので、バス停への登り道を汗をかきつつ早足で登りました。

 

 バス停「西赤羽根」に着いたのは15時13分、三河田原駅行きのバスがやってきたのは二分後の15時15分でした。

 

 15時37分、三河田原駅に着きました。この日の二度目の帰還でした。なぜかというと、次の目的地の伊良湖岬へ西赤羽根から行ける便が二時間後と遅く、それよりは一時間余り早い三河田原駅発の直行便に乗る方が早いからです。

 渥美半島を豊橋鉄道バスで回って観光する場合、便数の少なさは勿論ですが、伊良湖岬へ向かう本線と支線の二つの路線の接続があまり良くない点に注意が必要です。
 西赤羽根から直接行くと、支線の終点である保美で本線に乗り換えることになりますが、その乗り換えに30分から一時間も待たされるケースが殆どです。いったん三河田原駅まで戻って本線のバスに乗ったほうが、便数も割と多いので手っ取り早いわけです。

 ですが、そうしたバスの利用形態に適した周遊タイプのフリー切符というのは無いので、乗るたびに普通に運賃を支払いましたが、今回の聖地巡礼では合計3240円かかりました。

 

 次に乗るバスが16時発でしたので、23分の待機時間がありました。そこで三河田原駅の駅舎のドーム部分の大半を占める上図の「田原市交流広場」に入ってみました。

 一階はギャラリーと待合室、二階は休憩ルームになっていて、二階には幾つかのデスクが並べられ、数人の地元の高校生たちが勉強をしていました。どうも図書館代わりに利用しているようで、よくみると弁当や水筒も持ち込んでの長居スタイルで、ノートや参考書を広げて黙々と勉強しているのでした。

 

 それで、あまり勉強の邪魔にならないように、窓際の席についてペットボトルのお茶を飲みました。窓からは上図のように駅ホームが見渡せて、停止している列車も見えました。

 6月に鉄道模型Nゲージをはじめてハマってきたせいで、以降は鉄道を利用するたびに、この列車の車輌はNゲージで出ているんだろうか、三河田原駅はジオラマで作れそうだな、とか色々模型的なことを考えてしまいます。

 後日調べてみたら、上図の豊橋鉄道の車輌のセットがトミーテックの鉄道コレクションで出ていて、3両セットがラッピング替えでABCの3種類、さらにマイクロエースからも1セットが出ていることが分かりました。他にも過去の車輌が2種類ほど鉄道コレクションで出ていて、かなりの数が商品化されていることを知りました。  (続く)

 

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高視力だけでなかった園みどり子のアシスト

2024年01月06日 | ガールズ&パンツァー

 最終章第4話が公開される二年四か月前に、「冷泉麻子および園みどり子の高視力」という文を書きまして、園みどり子がその高視力を活かした何らかの働きを遂げるんじゃないかな、対BC自由学園戦にて橋通行時に敵の伏兵の存在を最初に察知したように、敵の攻勢を察知して味方のピンチを辛うじて救うというような、そういう活躍をなして、勝利への流れを僅かながらに掴んでゆくのではないか、と予想しました。

 その予想は、ほぼ当たりました。カモさんチームメイトの後藤モヨ子と金春希美が「そど子にできるのは憲兵くらいでしょ」とか「秘密警察」などと辛辣な評価を下していたのも、全て外れだった、と思います。上から目線で取り締まりまくるただの風紀委員長、ではなかったのでした。

 

 園みどり子が、あんこうチームの脱落後の試合展開のなかで、角谷杏より指揮を引きついだ澤梓の作戦上でまず課せられた任務は、さらなる狙撃を繰り返すであろうヨウコの搭乗車Ⅲ号突撃砲G型の位置を突き止め、これを無力化することでした。

 ヨウコ車の動向については、既に冷泉麻子が2キロの距離にて発見していたものの、あんこうチームが撃破されたことによって見失ったようです。その後も試合は続いて両軍の兵力がそれぞれに移動しているため、ヨウコの姿も再び雪原の中に消えてしまっていました。それを再び発見することは、大洗女子学園チームにおいては、冷泉麻子と同等の高視力を持つ園みどり子にしか出来ない困難な仕事でした。

 だから、澤梓の分離作戦も、ヨウコ車の捕捉無力化を念頭におき、園みどり子の高視力に賭けて一隊を構成して任せるという判断で採られたのでしょう。

 継続高校に勝つには、どうしても狙撃者の排除が不可欠であり、ヨウコ車の位置が判明するまではいかなる次の手も打てない状態でした。だから、澤梓率いる本隊は相手の主兵力を引きつけて牽制する、一種の陽動作戦に専念しており、何か仕掛けるような動きは一切封じていたわけです。

 そして園みどり子も上図のごとく、頭部装着式の双眼鏡を使用してヨウコ車の位置を一生懸命に探し、ついに発見したわけでした。

 その搭乗車B1bisと共に行動していたのは、ヨウコを誘い出す囮の役目も担ったフラッグ車のアリクイさんチーム三式中戦車チヌと、護衛および攻撃担当のカバさんチームⅢ号突撃砲F型でしたが、それらのメンバーのなかでは園みどり子と日吉葵が3年生で、園みどり子が風紀委員長として生徒会長に次ぐポジションにありました。

 したがって、この3輌の小隊のリーダーは園みどり子になるわけでしたが、本人もそれを自覚していたようです。ヨウコ車を追撃する途中に色々と僚車に向かって喋っていますし、フラッグ車がヨウコに狙われてかすり弾をくらって横転転落し逆さになってしまった時には急いでカバさんチームに指示を出して救援に向かっています。

 続いて、ヨウコ車の護衛たるユリのKV-1Eとの格闘戦においても、とにかく指示を出してはフラッグ車をかばい続け、撃破されつつも「何としてでも生き延びなさい」と叱咤しています。ただの「憲兵」や「秘密警察」ならば、こんな指示は出来ません。

 ヨウコ車は、結果的には同じⅢ号突撃砲のカバさんチームが劇場版の「マカロニ作戦ツヴァイ」を再現して見事に撃破しましたが、これも園みどり子の発見捕捉とその後の接近戦における的確な指示があったからでしょう。

 

 なので、上図の意気軒昂たる表情は、重要な任務を帯びた一小隊を率いる責任感と高揚感に裏打ちされたものであったのだ、と分かります。直後には作戦目標であるヨウコ車の捕捉と無力化を達成しているわけですから、この闘争心溢れるスタンスは重要でした。

 もともと大洗女子学園チームは、他校チームと比較すると、割合にメンバー間の連携力と応用力が高いようです。
 だから、これまでにも色んなピンチに協力して対応出来ていますし、急造で別働の小隊を編成しても、劇場版の「どんぐり小隊」のようにすぐに順応して作戦行動が出来るわけですが、もうひとつ、園みどり子のように、小隊指揮官として臨機応変に働けるメンバーが少なくないというのも重要なポイントでしょう。

 以前の予想では、高視力を活かして何らかの働きを遂げるんじゃないか、と述べましたが、実際には高視力だけでなく、風紀委員長としての責任感と経験に裏打ちされた高いアシスト能力も最大限に発揮していたのだ、と思います。

 そのイメージで園みどり子を捉えなおして見ますと、その澤梓との連携のさまは、あたかも西住みほと冷泉麻子のコンビネーションを連想させます。事実、能力的にはほぼ同等に近かったのでしょうし、だからこそ、あんこうチームを失ってもなお、大洗女子学園チームは揺らぐことなく戦い続けられたのだ、と思います。

 頑張ったな、そど子!

 

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宇治巡礼18 神明神社

2024年01月05日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 平安京に都が移されて以降に、いまの宇治市の西南から東南にかけて広がる丘陵地域を「栗前野(くりくまの)」と呼んだことが諸々の古文献から知られています。宇治市北方の「木幡野(こはたの)」とともに天皇家の狩猟地としての歴史を持ち、桓武、嵯峨、仁明の各天皇がしばしば遊猟を楽しんだことが「日本後記」や「日本紀略」などに述べられます。

 この「栗前野(くりくまの)」を通るのが、平安京の九条口から大和国へと連絡する大和大路で、宇治地域では「宇治道」とも呼ばれたようです。宇治橋から大久保へと繋がる現在の府道15号線にあたります。
 その大和大路が「栗前野(くりくまの)」の最高所を越える位置に、上図の神明神社が鎮座しています。

 

 江戸期までは神明皇大神宮の名で崇められた、典型的な伊勢神宮系の神社です。上図の由緒書には創建を白鳳時代、天武天皇の頃としていますが、これは現在地に鎮座する前の古い神社の名残らしく、別の古文献では14、15世紀ごろに伊勢の御師によって、この地に伊勢の神が祀られた経緯が知られます。

 そのことは、現地の地名が「神明」であること、現地の北西方向に「伊勢田」という地名があって式内社の伊勢田神社が鎮座することからも伺えます。地形的には「栗前野(くりくまの)」の北西麓に「伊勢田」があって、最高所に「神明」があるので、両社はもともと「栗前野(くりくまの)」の上下にわたる伊勢信仰の範囲であった可能性が考えられます。

 

 鳥居をくぐって境内地に進みました。長い参道と左右に広がる社叢は、いまでは規模が縮小されているというものの、かつて伊勢神の勧請地として「栗前野(くりくまの)」の広い範囲を占めていた歴史をうかがわせます。

 室町期に伏見宮貞成 (さだふさ) 親王が著した日記「看聞御記(かんもんぎょき)」には「宇治今伊勢」の名があり、同じ室町期の外記局官人の中原康富の「康富記(やすとみき)」には「宇治神明」の名がみられます。いずれも当時の神明神社を指しているのでしょう。

 その後、資料によっては、境内地の面積がかつての半分以下になったとするものがありますが、これはここに限らず、全国各地の神社に共通してみられる歴史的変遷の結末でしょう。
 それでも現在の境内地は、一般的な神社よりは広く、奥まで歩いていくと5分ほどはかかりました。

 

 参道の途中に、上図の石で囲まれた園池のような施設があります。横の立て札には藻隠池跡または藻隠井戸跡とあり、もとは神社の湧水地か井戸があって手水や献水などに供されたものかと思われます。園池は近年に再建されたものようで、全てがまだ新しい感じでした。

 興味深いのは、明智光秀が山崎合戦の敗退後にここに立ち寄ってこの井戸跡に身を隠したとする伝承です。現地の大和大路は戦国期にも機能しており、そのまま北東へたどれば、明智光秀の終焉の地である「醍醐ノ辺」つまり伏見区の「明智藪」に辿り着きます。
 「栗前野(くりくまの)」の峠道が、明智光秀主従の敗走ルートであったことは間違いなく、近辺にも類似の伝承があると聞きますので、この神社に光秀が一時期身を寄せていた可能性は大いにあると思います。

 

 この神明神社が他の神明神社と違うのは、社殿が伊勢神宮と同じように二つあって内宮、外宮と呼ばれることです。伊勢神宮に準じた社殿配置をとるあたりにも、かつては京都近辺でも重要な伊勢信仰の拠点であった歴史がしのばれます。

 上図は外宮です。上図では本殿の屋根が白く光っていますが、伊勢神宮の外宮と同じ神明造、茅葺の社殿です。

 

 こちらは境内地の最奥に鎮座する内宮です。幣門や玉垣、神明造で茅葺の本殿の形式は外宮と共通です。建築様式も共通しており、社伝にて江戸期の文政二年(1819)に造替されたとするのは、外宮と内宮の双方であったようです。

 これだけの立派な伊勢神社系の神社が現在地に鎮座しているのは、当地に何らかの契機というか、古来からの宗教的な場所であった可能性が考えられますが、平安時代にまで遡れるかは疑問符が付きます。

 平安期の代表的な日記史料である「更級日記(さらしなにっき)」の著者である菅原孝標娘は、永承元年(1046)十月の大和初瀬詣での途中でここ「栗前野(くりくまの)」を越えています。
 その時は「日も暮れがたになりぬめり、ぬしたち調度とりおはさうぜよや、と言ふを、いとものおそろしう聞く」と述べていて、夕暮れの道にて従者たちが皆弓箭を取って武装せよと言っているので怖かったと、つまりは当時の「栗前野(くりくまの)」が山賊の出没地域として有名な場所であったことを綴っています。

 もし、平安期に神明神社が存在したなら、信心深い菅原孝標娘のことですから、立ち寄って参拝するか、少なくとも門前を通っている筈ですが、「更級日記(さらしなにっき)」にそれをうかがわせる記載はありません。山賊の出没地域として有名な場所であったそうですから、当時はまだ神明神社は存在せず、伊勢の御師によって伊勢信仰が広められるのも、ずっと後のことであったのでしょう。

 

 神明神社の地図です。付近の地名にも神明とあり、神明の字を冠した施設名や店舗名が点在しています。

 

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聖グロリアーナ女学院 クルセイダーMk.Ⅲ 作ります!! その1

2024年01月04日 | ガルパン模型制作記

 2023年12月の模型サークルの定期会合は、事情により忘年会と同じ日に行われたため、普段は参加しないメンバーも多数顔を見せて賑やかな集まりになりました。ガルパン同好会のほうも4人全員が久しぶりに集まったので、めいめいに今作っているガルパンプラモデルの進捗度などを話し合ったりしました。

 その際に、4人のなかでは一番若くて新規ファンにあたるS氏に「星野さん、聖グロのクルセイダーって作ったんですよね?」と訊かれました。

「もう5月に作ったよ、3両とも。でもレポート遅れ気味でしてね・・・」
「いまは12月29日ですよ、レポートが7ヵ月経ってもまだなんて、遅れ気味ってレベルじゃないんですけど・・・」
「いや、ほんま、申し訳ない。正月以降に書きます」

 ということで、2024年のガルパンプラモデル製作レポートは、上図の聖グロリアーナ女学院チームのクルセイダーMk.Ⅲからスタートすることになりました。3両とも、と言ったのは、2023年5月当時手元にあった3種類のキット、ボーダーモデル、タミヤ、イタレリの製品を比較検証のために連続で作ったことを指します。

 

 周知のように、クルセイダーは初登場が劇場版でしたが、御覧のように最初から複数で一小隊を構成してのスピーディーな行動ぶりを見せており、当時はかなりインパクトがあったと思います。ですが、劇場版の頃は適応キットがイタレリ製品しかなく、それも模型店では見かけない希少品に属して入手が大変に困難でありました。

 それで、劇場版からしばらくの間は手元にキットが無く、なかなか確保出来ないでいるうちに製作意欲も湧かなくなり、そのまま二年が経過して最終章シリーズの第1話の公開時には、殆ど忘れていました。その後にタミヤから新製品がリリースされ、その四年後にボーダーモデルの製品が発売されてそれが公式キット化されました。

 そのタミヤとボーダーモデルの品は発売日の直後に買いましたが、イタレリの品はかなり以前にガルパン仲間に頂いたものをサークル仲間の要望で譲渡していたものが、やっぱり作らないから、という理由で返還されてきたため、期せずして3種類の適応キットが手元に揃うことになりました。

 それで、嫁さんが一度それらを開けて中身をチェックして、タミヤの製品はイタレリからのOEMだが、形状の違いが修正されている改訂版であること、ボーダーモデルのは完全な新規開発でパーツ等が全然違うこと、などを話してきました。
 それを聞いて、要するにイタレリ系とボーダーモデル系の二種類のキットがあるわけだ、それぞれの特色を、作りながら比較検証とかしてみるのも面白そうだ、と思いついたのでした。それが2023年4月のことで、その翌月には3つのキットを連続して製作したのでした。

 

 製作して半年後に最終章第4話が公開され、上図のようにクルセイダーは相変わらずの小隊規模での活発な動きを見せてくれました。その仕様は劇場版とあまり変わっていないようですので、既に完成した3種の適応キットのそれぞれを眺めては、このまんまなんだな、と思ったのを覚えています。

 5月の制作の時点で、3つのキットを連続で作るにあたって基本的な方針を決めました。まず劇中車に最も近いボーダーモデルのキットは、なるべく劇中車に合わせて作ること、続くタミヤのキットは目立つ部分のガルパン仕様のみを再現するにとどめること、そして最も古くて形状が異なるイタレリの品については、ストレート組みとして形状の異なる部分だけをパーツ差し替えで修正すること、としました。

 なぜそのようにしたのかといいますと、各製品ごとの特長を比較検証し、かつ完成後も識別できるようにしたかったからです。全部を劇中車仕様に合わせるのも面白いですが、どのキットを使っても劇中車仕様への改造・変更のポイントは共通していますので、同じ作業を三度繰り返すよりも、それぞれのキットのオリジナリティをある程度残しておくことで、完成後の比較が楽しめるようにしたほうが良いかな、と考えたからです。

 それで、イタレリの品に関しては、車体パーツの形状がもともと異なるので、タミヤカスタマーに車体のパーツだけを注文して取り寄せましたが、車体パーツだけのバラ売りは無くて下部車体パーツ以外の全てがパッケージされている状態で届きました。イタレリからのOEMなので、そのパッケージ包装のままで提供するしかない、との事でした。
 それには砲塔も履帯もみんな入っているため、パーツがほぼ1両ぶん余ってしまうのですが、その後の製作でさらに幾つかのパーツが必要となったため、ある程度の数が活かせる結果となりました。

 

 かくして3両連続制作の最初は、上図のボーダーモデルのキットと相成りました。これはプラッツからの公式キットの元製品で内容も同じであるため、公式キットがどんなものかを知るにも最適でした。
 ただ、履帯だけはボーダーモデル特有のおそろしく細かくて精密で組み立てに骨が折れるという代物なので、この種の組み立て式の履帯が超苦手な自分としては、手を付けないことにして、タミヤカスタマーから取り寄せたイタレリキット向けのパーツ群のなかにベルト式履帯も含まれて余っているのを活用することにしました。おかげで相当の作業量削減が出来たと思います。

 

 中身です。ボーダーモデルの製品を扱うのはこれが初めてでした。中国のメーカーですから、ドラゴンやホビーボス並みの細かなパーツ割りなのだろうと思いきや、意外にもタミヤイタレリのようなあっさりとした構成でありました。履帯だけが無駄なほどに細かくて作りにくそうな感じでしたが、これはイタレリのベルト式パーツに差し替えますから、いささかの懸念には及びませんでした。

 

 組み立てガイドです。表紙のイラストはパッケージと同じでカラー印刷です。これ一つとっても日本のメーカーは中国のメーカーに既に負けています。日本製のキットでカラー印刷の組み立てガイドを見たことは全くありません。

 

 紙も上質でサイズも国際標準のA4サイズです。開いてみると図面は上図のように余白も多いゆったりとした配置で、大きくて見やすいものでした。日本製品も見習っていただきたいものですが、開発にかける資金が少ないために、中国メーカー製品のような贅沢が不可能なのでしょう。

 

 ステップ1では下部車体の足回りの基部を組み立てます。ここはガイドの指示通りに進めます。
 ステップ2では各所の部品を組み立てます。C以外はガルパン仕様への改造が必要です。詳細はそれぞれの工程で紹介します。

 

 ステップ1で組み立てる下部車体とサスペンションのパーツ類です。

 

 組み立てはガイドの指示通りに進めましたが、パーツの一部に反りがあったため、上図のようにテープで固定しての接着となりました。

 

 なんとか組み付けました。

 

 さらに組み立てを進めました。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ2に進みました。まずAのエアクリーナーとされる部品を組み立てました。エッチングパーツのY10は、劇中車に見えないようなので省きました。入れ替わる形でガルパン仕様独自の外板をプラ板で追加することにしましたが、組み付けの段取りがいまひとつイメージ出来なかったため、追加改造は後で行なうことにして、ガイドの指示通りに組み立てました。

 

 右側の部品が組み上がりました。

 

 続いて左側の部品も組み上げて、左右の一対が完成しました。ガルパン仕様への追加改造は、後のステップにて併せて行う予定です。  (続く)

 

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ゆるキャン△の聖地を行く36 その6  道の駅あかばねロコステーション

2024年01月03日 | ゆるキャン△

 赤羽根西海岸ロコパーク、なかなか良いところでした。サーフィンの聖地として知られ、国内の競技会はもとより世界大会も時々開かれるそうで、その時には数万人の人出で大いに賑わうのだそうです。この静かな海岸の景色を見ている限りでは、ちょっと信じられないぐらいです。

 

 土岐綾乃は、ここより約12キロほど浜松寄りに所在する「表浜ほうべの森キャンプ場」でキャンプ泊をしています。ここ赤羽根ロコパークへは、キャンプ泊の前に来たのか、後に来たのかは作中では示されていません。ただ、ここからさらに伊良湖岬まで行っていますから、ここへは途中で寄ったのかもしれません。

 

 なので、展望塔の東側の芝生にてバンザイピース写真を撮った他は、どこをどう回っていたのかは分かりません。広い海岸エリアなので、あちこち歩きまわっているとかなりの時間がかかります。ゆるーい性格の土岐綾乃なので、適当にその辺を歩いて、景色をボーッと眺めて、記念写真を自撮りして、もう充分、だったのではないかな、と思います。

 

 続いて、隣接する道の駅あかばねロコステーションに行きました。外装の改修工事を行なっていましたが、施設は普通に営業していましたので、観光客もかなり来ていて買物などをしていました。

 

 早速私も買物を始めました。どこかへ出かけた時は、必ず現地の土産物を嫁さんに買ってあげるのが基本方針なので、道の駅を見ると必ず寄ることにしています。渥美半島の特産品といえば、まずは上図の美河ハム、美河ハムを買わなかったらここに来た意味がない、といわれるほどに有名です。

 この美河ハム、渥美半島各地のキャンプ場でも大人気だそうです。そりゃそうでしょうね。旨そうですから。

 

 ということで、上図の「ミニフランク」「手羽元スモークチキン」「豚タンスモークスライス」の3品を2個ずつ購入しました。嫁さんはチキン関係が大好物ですので、とびきりの笑顔になることでしょう。

 

 施設内に観光資料やパンフ類の配布棚がありましたので、資料として役立ちそうなものを幾枚か貰いました。そのなかに上図の田原市内のキャンプ場の案内チラシがありました。

 

 この1番の「表浜ほうべの森キャンプ場」が、土岐綾乃がキャンプ泊した場所です。これは事前に田原市の観光協会に問い合わせて教えていただいた情報ですから、確実です。

 

 で、これが志摩リンにメールで送った、キャンプ場での土岐綾乃の自撮り画像です。焼き鳥を食べていますが、それと同じ品も道の駅あかばねロコステーションにて豊富に売っていましたので、おそらく土岐綾乃もここの道の駅で食材を調達したのでしょうね。  (続く)

 

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大洗女子学園チームの次期隊長はやっぱり澤梓

2024年01月02日 | ガールズ&パンツァー

 最終章第4話が公開される三か月前に、「最終章第4話におけるあんこうチーム脱落後の指揮官は澤梓か」という文を書きまして、副隊長西住みほの脱落後に澤梓がチームの指揮を委ねられるものと予想しました。

 結果的にはその通りになったわけですが、それまでの経緯がいろいろ予想と違いました。隊長の河嶋桃が相変わらず何もしないままだったのと、前生徒会長の角谷杏が暫定的にチームの統率を引き継ぎつつも、「何かあったら頼むねー」と澤梓への権限移譲をハッキリと伝えていたところで「なるほど、そういう流れだったか」と納得しました。

 継続高校側の雪だるまからの奇襲によって四散した後は、ヘッツアーとM3中戦車リーの2輌で組んだ状態だろう、と予想しましたが、実際には他の僚車とも素早く合流していて、フラッグ車の三式中戦車チヌをもいつの間にかガードしていましたから、四散といっても距離的にそんなに離れた状態ではなかったようです。

 いずれにせよ、アリクイさんチームが孤立無援のまま、ヨウコの次射をあび、あんこうチームに続いて雪原に沈むという最悪のシナリオは避けられましたので、劇場の視聴席にて安堵の溜息をついたことでした。

 

 そして、角谷杏があんこうチーム脱落によって一時的に空洞化した指揮系統をすぐに立て直すべく、皆に意見を聞いてそれを集約して次の対処に移ってゆく場面において、さすがに前生徒会長としてのカリスマと経験値がこういうピンチでは大きくものを言うものだな、と感心させられました。やっぱり大洗女子学園においては優秀な人材の一人だな、と改めて思います。

 そうして暫定的にチームの統率を引き継いだ角谷杏らも、ダムの導水トンネルからの脱出の準備中に築いた雪堤での防戦中に、半ば敵を引きつけるオトリのような形になって撃破されました。早くも、西住みほ副隊長につづく指揮統率の要が失われたことに、視ている側も衝撃を受けてふたたび絶望の淵に立たされました。

 ですが、角谷杏はそうなる事を予期していたと同時に、大洗女子学園チームの未来を担うメンバーに後事を託す、という判断がもとからあったもののようで、「何かあったら頼むねー」のセリフには、簡潔ながらも万感の思いが込められているように感じられました。

 そもそも、ダムの導水トンネルからの脱出という方法は、澤梓が発案して角谷杏に進言したものです。ピンチに陥ってもパニックに陥らずに冷静に状況を把握し次の手を模索し、見つけてゆく、というプロセスも、他のメンバーのいずれもが成し得ず、ただ澤梓のみが次の作戦行動の立案提出に至りました。それは大変に重要なことでした。

 正確には常用洪水吐(じょうようこうずいばき)と呼ばれるトンネルを抜けて継続高校の包囲網をくぐり、戦域外に脱して態勢を立て直そう、との作戦を考え出す事自体、一年生ながらも見事です。これを聞いて承認した時点で、角谷杏としては、これなら後は任せられると確信したに違いありません。

 

 その後の澤梓の冷静かつ果敢な指揮振りは、今までにもテレビシリーズや劇場版などでその片鱗が垣間見えていたものの、ここでにわかに覚醒したかと思わせるほどの見事なものでした。ダムの導水トンネルからの脱出時点でも、敵の待ち伏せを想定して、その裏をかく動きをとって脱出を成功に導きました。

 こういう緻密な判断と迅速な決断ぶりこそ、劇場版や最終章の無限軌道杯の緒戦にて澤梓が示してきた才能の煌めきでありました。そうした澤梓の優れた能力を他のメンバーも常々認めていたからこそ、皆が角谷杏からの依頼を支持して、指揮権の委譲に異を唱えなかったわけです。

 その後の澤梓の作戦指揮ぶりも素晴らしいものでした。ヨウコの次の狙撃を阻止すること、フラッグ車を敵の攻撃圏内にさらさないこと、の2つの要点をふまえた作戦を定めてチームを二手に分け、チーム最高の視力を持つ園みどり子らにヨウコの位置把握と無力化を託し、自らは本隊を率いて敵本隊への牽制および陽動作戦を縦横に展開しています。

 その際の車輌の配分も見事でした。園みどり子らのB1bisにフラッグ車の三式中戦車チヌを帯同させ、護衛に歴戦のⅢ号突撃砲F型を付けることで、別働隊に最低限の戦闘力を保たせて、かつフラッグ車を敵の本隊の作戦視界から遠ざける効果を付与したものと思われます。

 澤梓率いる本隊には最強のポルシェティーガーが健在でしたから、継続高校の主戦力は迂闊な動きが出来ず、大洗女子学園本隊の動向を牽制する方向に向かうしかなくなりました。それによって中堅戦力たる複数のT34/76の侮れぬ攻撃力がフラッグ車を襲う可能性は劇的に減殺されています。

 ヨウコ車にはチーム最強の戦闘力を有するユリのKV-1Eが随伴していたものの、1両のみでは護衛戦力としては不足でしたから、継続高校チームがさらなる護衛を追加する余地がないままに終始したのは残念な成り行きでした。が、それも澤梓の作戦にうまうまと乗せられた結果であったといえるでしょう。まったく見事な作戦展開だったと思います。

 かかる指揮をとって自らも陣頭に立って戦う澤梓の姿は、性格や指揮スタンスこそ異なりますが、あたかも西住みほの再来を思わせるに充分でした。継続高校隊長のミカも、その存在感を認めて脅威と見なしたからこそ、ヨウコに狙わせて戦列外に退けようと試みたのですが、それはついにかないませんでした。

 その時点で、個人的には「これで大洗の勝利が決まった」と感じました。第4話の見せ場のひとつである急斜面の直滑降競技まがいのハイスピードな降下中の戦車戦の直前だったと思いますが、正直なところ「たぶん継続高校側のカードは尽きたかもしれないな」と思いました。

 つまりは、澤梓の作戦勝ちであったわけです。ヨウコが捕捉撃破された時点で、作戦の主目的がほぼ達成されたようなものでした。同時に、試合の流れの大勢を掴んだというか、主導権を自チームに引き寄せた形なので、継続高校側の残存戦力がどれほど残っていようが、ミカたちがいかなる手を打ってこようが、雪崩が起きようが、アリクイさんチームが無傷のままならば問題は無い、と感じてしまったほどです。

 そのような感慨に至って安心してしまった自分に驚きましたが、同時に、やっぱり大洗の次期指揮官は澤梓だ、間違いなく澤梓が次代の隊長になる、と感動の嵐のなかで深く確信した次第です。

 

コメント (2)
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