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伏見城の面影16 南禅寺中門

2024年07月22日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 南禅寺の主参道に建つ上図の門は、現在は中門と呼ばれますが、江戸期までは脇門と呼ばれていました。左隣に建つ勅使門が、寛永十八年(1641)に明正天皇より京都御所の「日の御門」を拝領して移築されるまでは、この門が勅使門とされていました。

 この中門は、もとは慶長六年(1601)に細川家家老の松井佐渡守康之が伏見城内の自邸の門を寄進して勅使門としたものであり、「日の御門」の拝領移築にともなって現在地に移されています。

 

 したがって、この中門は二度場所を変えていることになります。一回目は伏見城下から南禅寺勅使門の位置へ、二回目は勅使門の位置から現在地へ、です。上図は中門の右側に隣接する番所です。早速、U氏が指さしました。

「この番所って、武家屋敷の門の番所だよな、南禅寺の門の横には有り得ない建物だな、これももと伏見城下松井屋敷の門の付属だろうな」
 うん、そうやと思う、と私も頷きました。

 

 「見ろ、門の脇戸の側面に築地塀の側板が残ってるけど、築地塀そのものは無くなってるな」
 「勅使門だった時は両袖に築地塀がついてたんやろうけど、右側に寄せて移築した際に塀だけ撤去されたんやろうな」
 「すると番所も移動してるのかな」
 「移動してるんやないかな?いまは参道端の水路の上に基礎構えてるし」
 「ああ、本当だ」

 

 中門をくぐって内側から現在の勅使門との位置関係を見ました。奥に見えるのがかつての京都御所の「日の御門」です。いまの中門がもとその位置に建っていたわけです。20メートルぐらいしか離れていません。

 

 移築後は門も番所も参道の右端に寄せられて、結果的に番所は参道端の水路の上という、有り得ない位置に建っています。そうまでしても残したかったのでしょう。この建物の由緒を南禅寺でも重くみて維持を図った歴史が感じられます。

 ちなみに、南禅寺には他にも伏見城からの移築と伝わる建物があります。いま国宝に指定されている方丈の大小のうちの小方丈が、寛永年間(1624~1645)に建てられた伏見城の小書院とされています。
 しかし、伏見城は元和五年(1619)に廃城となって翌年から城割りが始まっているので、その数年後に小書院を建てたというのは辻褄があいません。それで小方丈のほうは旧伏見城建築であるかどうかは疑問視されています。

 

 ですが、こちらの旧松井屋敷門のほうは本物とみられます。御覧のように寺社の門とは異なる武骨で簡素な造りに武家の門の特色が顕著です。

 この門を南禅寺に寄進した松井佐渡守康之は、はじめ室町幕府の奉公衆として足利将軍家に仕え、ついで細川藤孝の家臣として織田信長に仕えました。後に細川家の家老職を任せられ、細川忠興を支えて江戸期は中津藩および小倉藩の家老を勤めています。豊臣秀吉の治世期には伏見城下に屋敷を構えていましたが、その屋敷門を南禅寺に寄進したものが現存しているわけです。

 

 屋根裏の造作も簡素で最低限の木組みとなっています。中世戦国期の武家屋敷というのは、戦乱期にあっては焼かれたり破壊されたり、もしくは移築移転が多かったりで長期の維持がなされない前提で建てられるケースが多かったため、あまり堅牢かつ重厚な造りにはならないのが常であったようで、現存する建築の多くが簡易簡素の造りを示しています。

 

 それでいて外観だけは、武門の誇りを示すべく豪壮に造られ、形式に則って脇戸または潜り戸が設けられます。この中門でも元は潜り戸があったようで、向かって左側の上図の潜り戸部分はいまは板で塞がれています。これは南禅寺に寄進されてからの改造部分の一つでしょう。

 

 U氏が「城郭の大手門とかの城門を簡易化、小型化したような木組み、構造だなあ」といい、木組みや貫をあちこち見ては「実用本位の門だねえ、装飾とかなんにも無いな」と感心したように言いました。

 安土桃山期の武家屋敷の門構えというのは、規模の違いこそあれ、建物そのものは武家の建築形式でその型も一つか二つぐらいしか無かったようです。江戸期の武家屋敷の門が、全国どこへ行っても似たような長屋門や棟門の姿に造られているのも、安土桃山期の武家屋敷の門構えを受け継いでいるからだと思われます。
 なので、伏見城下に建ち並んでいた全国の諸大名の武家屋敷の門も、ほとんど似たり寄ったりの姿だったのだろうと思われます。

 

 「この門扉も当時のままなんだろうかね」
 「さあ」
 「なんか、枠とかは新しく取り替えたみたいになってるが」
 「そうやろうね。門扉ってのは消耗品やからね、寺でも屋敷でも毎日開閉するから痛むのも早いやろな」
 「でも武家建築の門の扉だな。お寺の門の扉って雰囲気じゃない」
 「せやな」

 

 ということで、この南禅寺中門が旧伏見城下の建築遺構であることは、まず間違いないだろうと思われます。

 この門が寄進された慶長六年(1601)は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が伏見城に入城した年です。当時の伏見城は前年の伏見城合戦で小早川秀秋、島津義弘ら西軍に攻められて炎上落城して廃墟同然であったため、翌慶長七年(1602)6月に藤堂高虎を普請奉行に任じて再建にとりかかっています。

 なので、この門は豊臣期の伏見城下の松井屋敷の門であったわけで、徳川家康の再建事業に際して撤去され寄進されるに至ったのでしょう。数少ない豊臣期の門遺構として、知恩院の黒門とともに記憶されるべき貴重な建物です。  (続く)

 


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