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宇治巡礼23 隼上がり瓦窯跡

2024年01月25日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宇治市の菟道(とどう)地区には、日本でも最古級の7世紀前半期の瓦窯遺跡として考古学の世界では超有名な遺跡があります。現地の地名が菟道東隼上り(とどうのひがしはやあがり)であるために隼上がり瓦窯跡と命名され、国の史跡に指定されています。

 この遺跡は、昭和57年に現地の宅地化にともなう発掘調査にて発見され、丘陵の斜面に4基の窯跡、南の平坦地に7棟の建物跡から成る造瓦工房が検出されました。
 当時の考古学界は大騒ぎになりました。それまで全く不明であった、日本の古代寺院の屋根瓦の生産・供給のシステムの様相が、この隼上がり瓦窯跡の発見によって一挙に解明されたからです。

 日本における仏教文化の黎明期において、最初の本格的な古代寺院である飛鳥寺が創建されたのは、崇峻天皇元年(588)からの事でした。つまりは6世紀末期の出来事です。その後、奈良県大和国の飛鳥地方を中心に数多くの古代寺院が建てられました。

 そのなかに、推古天皇の豊浦宮を舒明天皇六年(634)に寺となして塔の心柱を建てた、日本最古の尼寺である豊浦寺がありますが、その瓦が大和国内ではなくて、50キロ余りも離れた山城国の隼上がり瓦窯から供給されていたことが判明したのです。この事実は、当時の考古学者たちにとっては衝撃的であったといいます。

 豊浦寺の瓦を焼いた窯跡はいまだに奈良県には存在しませんので、京都府宇治から運ばれていたことになります。なぜそんな遠隔地で瓦を焼いてはるばる運んでいったのか、という謎が多くの考古学研究者やファンを惹きつけました。

 その謎にロマンを感じて魅せられた、考古学ファンの一人が私でした。遺跡発見の翌年に発行された「隼上がり瓦窯跡発掘調査概報」を読むべく県立図書館に走り、要点部分をコピーして貰い、何度も読んで興奮していた高校2年生でありました。

 

 そして昭和60年に奈良大学文化財学科に進学して本格的に文化財の勉強を始めたその5月、城陽市在住の先輩のSさんに誘われて、その隼上がり瓦窯跡を訪ねました。既に丘陵の周辺では宅地造成が進んでいて周囲で重機が忙しく動き回っていました。

 ここがあの遺跡か、大和の豊浦寺の瓦をここで焼いていたのか、と二年前にコピーして読んだ「隼上がり瓦窯跡発掘調査概報」の要点を思い出しては感動し、興奮しました。感涙にむせびつつ、まだ発掘後に埋め戻して整地されたばかりの遺構面の土を手でなでました。
 Sさんが普段よりもかん高い声で「すげえなあ、なんでここで、豊浦寺の瓦焼いとったんかねえ」と話していたのも、よく憶えています。

 あれから38年、現在は周囲を宅地に囲まれ、すぐ東下に幹線道路が通って、南には京滋バイパスの宇治東インターチェンジが望まれます。
 隼上がり瓦窯跡は、発掘後は埋め戻されて保存がはかられ、Sさんと私が訪れた翌年の昭和61年に国の史跡に指定され、平成元年に史跡公園整備を実施して上図の石碑と説明板が設置され、今に至っています。

 

 現地の説明板に掲示されている隼上がり瓦窯跡の現況図です。史跡公園の範囲が示されており、発見された4基の瓦窯跡が並んでいます。

 このうち1号窯から3号窯までは発掘で遺構面を完全に検出していますが、4号窯は発掘調査の終盤にて遅れて発見されました。当時すでに遺跡の保存が確約されていたため、4号窯だけは将来の再発掘に期待して、掘らずに表面確認にとどめています。まだ謎の部分が残されているわけで、なかなかにロマンチックな措置です。

 なお、史跡範囲の外側の南には7棟の建物跡から成る造瓦工房が検出されましたが、そこは残念にも宅地造成で削られてしまい、現在は民家と車道になっています。飛鳥時代の工房跡としては日本最古の遺跡であっただけに、保存が切望されましたが、宅地化計画との兼ね合いで、保存可能なのは窯跡の範囲で精一杯ということになったため、記録保存のみにとどまりました。

 

 現地の説明板に掲示されている隼上がり瓦窯跡の1号窯の発掘完了後の様子と、出土した5種類の瓦のうちの4種類の写真です。

 私は大学時代は発掘のアルバイトで古代寺院の遺跡の幾つか(岡寺、橘寺、川原寺、薬師寺、野中寺)に入りましたので、瓦に関しては発掘調査の現場委員長でもあった帝塚山大学の森郁夫先生に色々と教わり、奈良県の古代寺院の瓦を中心にして勉強していた時期がありました。そのなかに豊浦寺の瓦も含まれましたから、隼上がり瓦窯跡のことも時折思い出すことがありました。

 その隼上がり瓦窯跡の瓦は、全部で5種類が知られています。上図の4種類のうち、上左が高句麗系A(甲Ⅰ類)、上右が高句麗系B(甲Ⅲ類)、下左が高句麗系D(乙類)、下右が百済系です。残る1種類は高句麗系C(甲Ⅱ類)ですので、5種類のうちの4種類までが高句麗系の文様の瓦であるわけです。

 したがって、隼上がり瓦窯の運営主体は、当時の日本にて高句麗系の文化を色濃く伝えていた秦氏との関係が推定されています。ここ宇治に限らず、京都そのものが秦氏の本拠地というに等しく、秦氏の氏寺として有名な太秦の広隆寺も京都市にあります。

 宇治には、隼上がり瓦窯の他にも古代の窯跡が10ヶ所ほど知られており、もともと土と薪に恵まれた地域であったことが知られます。宇治以外では同時期の瓦窯跡として京都市左京区岩倉幡枝町の幡枝瓦窯、八幡市橋本平野山の平野山瓦窯が知られ、隼上がり瓦窯跡と同じ瓦の笵(はん)を用いた事が分かっています。

 笵(はん)とは、瓦の文様を彫った木型のことで、これに粘土を押しつけるだけで同じ文様の瓦が大量に生産出来ます。隼上がり瓦窯跡の瓦に使った笵を、幡枝瓦窯や平野山瓦窯にも貸し出して、同じ文様の瓦を各地でそれぞれに大量生産していたわけです。

 ですが、隼上がり瓦窯跡の5種類の瓦のうちの4種類までが、豊浦寺でしか発見されていません。このことは、隼上がり瓦窯が豊浦寺建立のための専用瓦窯としてひらかれたことを意味します。前述したように豊浦寺の創建は舒明天皇六年(634)のことですから、隼上がり瓦窯跡も同時期にひらかれたことになります。

 上図は、平成元年に宇治市教育委員会が発行した「史跡隼上り瓦窯跡(概要版)」の冊子の42ページに載せられる図を参考として引用したものです。

 これを御覧いただくと、隼上がり瓦窯跡の5種類の瓦のうちの4種類までが、豊浦寺へ供給されていることが分かります。いずれも他では全く検出されていません。そして、隼上がり瓦窯跡で使われた笵(はん)が幡枝瓦窯や平野山瓦窯へと移動して、それぞれの瓦窯で似たような瓦が造られて、それぞれ北野廃寺と四天王寺とに供給されています。

 北野廃寺は、周知のように秦氏の氏寺である太秦広隆寺の前身寺院とされており、四天王寺は聖徳太子創建の寺のひとつで秦氏の支援があったとされるなど、いずれも秦氏との関係性が指摘されています。端的に言えば、これらの瓦窯を運営していたのが秦氏の工人組織だったのだろう、となります。

 そして、隼上がり瓦窯跡の5種類の瓦のうちの残る1種類、上図の右端のDつまり高句麗系D(乙類)の瓦に関しては、上図に「未確認」とあるように、いまだにどこへ供給されていたかが分かっていません。
 この高句麗系D(乙類)の瓦は、現在もなお、近畿地方だけで100ヶ所をくだらない古代寺院遺跡のどこからも検出されていないのです。不思議なことではあります。まだ発見されていない、高句麗系D(乙類)の瓦を使用した未知の古代寺院遺跡がどこかに埋もれているのかもしれません。

 それに関して、38年前に一緒に遺跡を見に行った先輩のSさんが「案外、俺んとこ(城陽市エリア)にあったかもしれんて」と冗談で話していたのが、いまは興味深く思い出されます。

 平成に入ってから、各地の古代寺院遺跡の調査が進んで京都府下でも遺構検出が相次ぎました。その結果、高句麗系D(乙類)の瓦の笵を用いた瓦、つまり第一変化形式と呼ばれるタイプの瓦が使われた寺が、現時点では3ヶ所、広隆寺と大津市の穴太廃寺、城陽市の正道廃寺で確認されています。
 この3ヶ所の第一変化形式の瓦のうち、隼上がり瓦窯跡の高句麗系D(乙類)の瓦と同じ周縁(しゅうえん)と呼ばれる文様周囲の枠が造形されているものは、城陽市の正道廃寺の瓦だけです。まさにSさんの言った「俺んとこ(城陽市エリア)」です。

 つまり、隼上がり瓦窯跡で生産された高句麗系D(乙類)の瓦が未確認の古代寺院で用いられ、その笵を使った第一変化形式の瓦が正道廃寺で使用されている、という構図になります。つまり、未確認の古代寺院と正道廃寺は、瓦の形式でいえば親子関係にあたります。
 なので、未確認の古代寺院は、おそらく正道廃寺とそんなに離れていない場所にあるのだろう、という推論に導かれます。城陽市エリアかどうかは分かりませんが、そんなに遠くはないだろうな、と思います。

 ちなみに正道廃寺は、現在は国史跡に指定されている7世紀以降の大規模な複合遺跡の一部とみられ、いまは正道官衙遺跡(しょうどうかんがいせき)の名で史跡公園化され、官衙遺跡の建物の一部などが復元されています。
 なので、未確認の古代寺院、というよりは、古代寺院も含めた同時期の建築群、官衙や郡衙などの遺跡も候補にあがってきます。古代寺院をいくら探しても出てこないのですから、古代寺院以外をあたってみるべきだろう、と思うわけです。

 いまもどこかに、隼上がり瓦窯跡で生産された高句麗系D(乙類)の瓦を用いた7世紀以降の建物の遺跡がひっそりと埋もれています。長らく、京都府下の考古学上の謎の一つとされていますから、見つかれば、大変な騒ぎになることは間違いないでしょう。

 

 隼上がり瓦窯跡の地図です。現地には駐車場はありませんので注意して下さい。

 


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