平等院の南から府道3号線を南へ約500メートルほど進むと、右手に宗教法人の施設が見えますが、その東南に丸くそびえる山があります。地図では槇ノ尾山とあり、またgoogleマップでは槇ノ尾山城跡として表示されます。
上図は、その槇ノ尾山を、宇治川をはさんで東の観流橋のたもとからみたところです。
この山は、城跡として認識されているためか、その方向での調査も実施されたようで、「京都府中世城館跡調査報告書」山城編の宇治市の項に図面と記事が載せられています。確かに土塁や数段の郭がみられて全体的には城郭のような姿になっていますが、時期的には中世戦国期からの状態であるような感じです。
この槇ノ尾山は、古くから「院御所山」と呼ばれて平安期の山荘跡として伝わり、宇治市の文化財関連資料などでも「院御所山遺跡」として記載されています。
なので、平安期には貴族の山荘跡であったものが、中世戦国期に地形の利点を活かして城塞化された、その状態がいまに残っているものと解釈すれば良いでしょう。
昔、近くの白川谷に残る白川金色院の遺跡を訪ねた折に、現地の白山神社の神主に偶然お会いして、白山神社の由来について教えていただいたことがあります。要約すれば、白山神社はもとは槇ノ尾の「院ノ御所山」に鎮座し、その山には摂関家の四条宮藤原寛子の別荘があった、という内容でした。つまりは藤原寛子自身が山荘内に祀った白山神の神祇祠がおおもとであった、ということです。
藤原寛子(ふじわらのかんし)は、平等院を創建した関白藤原頼通の娘で、のちに後冷泉天皇の皇后となり、四条宮とも呼ばれて太皇太后の地位にまで達した人です。その山荘があったということで、院(天皇または皇后)の御所の山、という意味での「院御所山」の呼称が成立したもののようです。
藤原時代の皇族や貴族は有名人に限っても多数にわたりますが、その邸宅跡や寺院遺跡のほとんどは京都市街地の下で、遺構すら見ることもかないません。せいぜい京都アスニーや宇治市源氏物語ミュージアムの復元模型でその姿をうかがい知るのがやっとでしょう。
そんななかで、藤原寛子の山荘跡と伝わる「院御所山」は、生の遺跡を見られる数少ないスポットと言えます。
その「院御所山」を麓の府道3号線から見上げました。夏場は、御覧のように木々の下を草藪が埋め尽くして容易には近寄れない状態ですから、登ってみるならば冬場が良いでしょう。
山そのものは標高100メートル、府道3号線からの比高は約80メートルと聞いています。山登りの方やハイカーが宇治の里山登りのコースによく組み入れて登っている記録をネットでもよく見かけますので、どこかに山道があって割と楽に登れるのだろう、とは思いますが、その入口の位置をいまだに知りません。
かつて奈良に住んでいた頃に、奈良県内の殆どの山城跡や城館遺跡を踏破しましたが、その多くは比高100メートル以上でした。そのクラスの山なら普通に登っていましたから、「院御所山」の槇ノ尾山も苦労なく登れる筈です。
ですが、いまだに機会を得ていません。楽しみな遺跡スポットの一つでもあります。
院御所山遺跡(槇ノ尾山)の地図です。googleマップでは槇ノ尾山城跡として表示されますが、実際に全てが中世戦国期に城塞化された状態なのか、それとも平安期の藤原寛子の山荘跡の痕跡がどこかに残っているのかは、未だにハッキリしていないようです。いずれ現地に登って、そのあたりを確かめたいな、と思います。