goo blog サービス終了のお知らせ 

日刊イオ

月刊イオがおくる日刊編集後記

ハルモニたちに贈る歌

2012-10-13 09:00:00 | (淑)のブログ


日本軍「慰安婦」被害女性たちのために作られたコンピレーションアルバム<이야기해주세요>(お話してください)を購入しました。
韓国の芸術家や市民らによるプロジェクトの一環で、先月韓国で発売されたものです。
プロジェクトではCDのほかにも写真展や映画上映会、コンサートなどの文化活動を通した支援活動が現在も続けられています。
収益はすべてハルモニたちや支援団体などに贈られるそう。
アルバムは2枚組。全16曲が収録されています。
歌っているのはすべて女性歌手で、ハルモニたちの癒えない痛みや苦悩を美しいメロディで表現しています。
同時に、現在も世界中で絶えない性暴力の問題を問うており、暴力に苦しむすべての女性たちへ贈るメッセージでもあります。
曲たちは、ハルモニたちの物語であるとともに、わたしの物語でありあなたの物語でもあります。

CDの1曲目に収録されている曲の歌詞を紹介します。


이 노래를 부탁해 (한희정)

옛날 옛날에
전해저 내려오는 이야기
할머니의 할머니
아득한 먼 곳의 이야기

실제로 있었던 일이란다
그녀가 살아낸 고통의 생은
백년 전,혹은 어제의 사건
세상은 변함이 없고
사람들은 자신의 이야기로 바쁠테니

이 노래를 부탁해
끊이지 않는 비극
너와 나의 무관심을 노래해 줘
이 노래를 부탁해
침묵으로 얻은 평화
또 망각을 위한 망각을 노래해 줘

오,우리가 얼마나 잔인했는지
오,우리가 얼마나 아파하는지


昨日届いたばかりなので、これをじっくり聴くのが今週末の楽しみでもあります。
日本では発売されておらず、私は知人を通して購入しました。
残念ながら今のところ一般ルートでの販売はないみたいですが、
多くの人が手にとって、ハルモニたちの物語に耳を澄ましてくれたらいいな、と思います。(淑)


昨日から安世鴻さんの写真展

2012-10-12 09:19:12 | (相)のブログ
 昨日から大阪市内のギャラリーで写真家・安世鴻さんの日本軍「慰安婦」写真展が開かれている。
 本来であれば、大阪ニコンサロンで開催されていたのだが(9月13~19日)、ニコン側が会場の使用を許可せずに結局中止となり、このたび別の会場でとり行われることとなった。
 前回の東京展から続く日本軍「慰安婦」写真展をめぐる一連の動きについてはブログ「日刊イオ」でも(k)さんなどがたびたび書いているので、ここで改めて詳細に言及はしない。
 諸々の圧力に屈して、一度は新宿ニコンサロンでの開催が決まっていた写真展を「諸般の事情を総合的に判断したため」という説明だけで一方的に中止を通告(東京地裁が会場を使用させるよう命じる仮処分決定を出して、結局開催されはしたが)したニコンは今回の大阪展を前にしても変わらなかった。一度悪しき前例を作ってしまった同社が、今後このようなテーマの写真展を開催するために会場を提供することは望み薄だろう、と個人的には思う。
 それでも何とか開催できたことはよかった。大阪での写真展は今月16日まで。13日には別の会場で安さんも交えたトークライブが開かれる予定だ。一人でも多くの方々が会場を訪れることを願っている。
 ちなみに、安さんは地元大阪市の橋下市長あてに招待状を送ったが、市長は「行かない」と断ったという。
 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/121011/waf12101113530017-n1.htm

 私は前回の東京展を、平壌に行っていたこともあって見逃し、今回の大阪展も行けそうにない。ただ、東京有楽町の外国特派員協会でも今月6日から来月9日まで写真展を開催しているので、そちらの方に足を運ぼうと思っている。(もちろん、正式な写真展に比べるとスペースも狭いし、パネルも小さいのだが)

 以下、大阪での写真展とトークライブの案内です。

 【写真展】大阪ニコンサロンアンコール安世鴻写真展中止通告に対する緊急抗議写真展
 期間:10月11日(木)~16日(水)11:00~19:00(最終日17:00)
 会場:ピルゼンギャラリー(大阪市中央区心斎橋筋1-3-15大阪心斎橋アーケードビル大丸百貨店側 御堂筋線心斎橋駅下車5、6番出口徒歩1分)
 入場無料

 【トークライブ】安世鴻写真展はなぜニコンサロンで開かれなかったのか
 -日本軍「慰安婦」の肖像と、表現の自由-
 安世鴻(写真家)+北原恵(大阪大学)、原一男(映画監督)ほか
 日時:10月13日(土)19:00~21:00
 場所:大阪市立中央会館ホール(250人)地下鉄堺筋線「長堀橋」6番出口、徒歩 8分 (中央区島之内2-12-31)
 http://osakacommunity.jp/chuo/index.html
 入場無料

 (相)

ノーベル賞の報

2012-10-11 09:00:00 | (瑛)のブログ
「地球はなぜ、まるいの?」
「太陽と月はどうして合わさるの?」
「太陽はなぜ燃えてるの?」
「珍島犬は何科?」

 8歳の息子が投げる質問に夕飯作りを急ぐ手が止まります。山中伸弥教授のノーベル賞受賞に沸く日本ですが、大人がとうの昔に捨ててしまった自然界の不思議を子どもは眩い感性でつかみ取ってきます。「なんで、なんで、なんで…」の嵐がわが家にも吹き荒れていますが、私はすべてがテキトーで答えを信用されていない情けない母親です。それにしても、ドキドキ、ワクワク。。。いいですね。先日も学校から、アリとダンゴムシを家に持ち帰って観察していたのですが、夕食中にアリとダンゴムシが虫かごから抜け出し、部屋を這っているのを発見!アタフタしながら家族中で捕まえました。

 山中教授が「数ヵ月前には皮膚の細胞だったものから、ドクドクと拍動する心臓の細胞を作ることができる」というiPS細胞。「iPS細胞の技術を早く実用化し、病に苦しむ人の役に立ちたい」「iPS細胞とは別の研究で未知の課題に取り組みたい」「研究以外のことで何かすごいことをやりたい」と話す山中教授はとてもパワフルですね。また、その生い立ち、挫折の経験、基礎研究というトンネルのような長い道のりをどう歩んでこられたのか、彼を支える「チーム山中」の存在にも強い興味がわきます。

 中学からラグビーや柔道に親しんでいた山中教授は、ケガや障がいを負った人を治療したいと整形外科医になったものの、執刀医として自分はぶきっちょだと判断。手術の腕だけでは治せない病気を治したいと思ったことが、今の研究につながったといいます。今回の受賞で大変な病に苦しんでいる人の存在を知ることができました。

 人間は、太古から自然界の謎を解き明かすことに心血を注いできましたが、今後、何をどこまで知ることができるのでしょうか。同時に科学技術の発展で、人間は知ることによる「業」のようなものを背負わされている気もします。

 最近、発表された出生前診断の報道にはとくに考えさせられてしまいました。実は私も2年前に羊水検査をしようかどうかを悩んでいた一人だからです。お産という大仕事の前に誰もが一度は立ちすくむと思うのですが、胎児がダウン症かどうかを、精度「99%」の確率で調べられるという出生前診断は、「元気な子を産みたい」という女性の気持ちをくすぐります。しかし、この精度は「100%」ではないし、「陽性」「陰性」が判明したとしても、出産時、出産後に何があるのかはわからない。「すべて受け入れ、母親となる覚悟をするものだ」と私は通院先の産婦人科医に短い言葉で伝えられ、ハッとしたものです。

 同時に思い出すのが、ムジゲ会で出会ったオモニたちのたくましい姿です。心身にハンディを負った子どもを「授かり者」だとして、ともに歩む姿を見ながら、私はもう一つの幸せの形を学びました。もちろん、自分の身に降りかかってきた時に、同じようにできるのかと問われると即答はできません。

 新たに知った知識、発明した技術をどう駆使するのか。現代は、人類の知恵のようなものが求められていると感じます。まずは理科の復習をして、息子の質問に少しでも答えるとします。(瑛)

柳美里さんの新刊2冊を読みました

2012-10-10 09:00:00 | (K)のブログ


 7、8日の連休中、(麗)さんは「オタクな日々」を送ったようですが、私は読書を楽しみました。月刊イオで「ポドゥナムの里から」を連載していただいている柳美里さんの2冊の新刊、「沈黙より軽い言葉を発するなかれ」と「自殺の国」を読みました(写真)。
 「沈黙より軽い言葉を発するなかれ」(創出版 1400円+税)は対談集で、柳美里さんにとって初の対談集だそうです。「自殺の国」(河出書房新社 1400円+税)は女子高生の自殺を扱った小説です。

 「沈黙より…」で柳さんは8人の方々(和合亮一、岸田秀、岩井俊二、山本直樹、原一男、佐藤優、今野勉、寺島しのぶ)と対談しています。個人的な感想として一番最初の福島に住む詩人の和合亮一さんとの対談が頭一つ抜けて面白かった。
 読んでいて印象に残った言葉のやりとりがいくつもあったのですが、そのうちの一つだけ紹介したいと思います。

 和合さんの、“正義とか誠実さとかそういうものを我々は見失っている。何が正義なのかを、きちんと示していく在り方。みんなが不安に陥っている原因の何分の一かは、誠実さ、あるいは正義を見失っていることによるのかもしれない”という内容の言葉に、
 柳さんは、“正義は、自分の立ち位置によって違ってくる”、“善悪、正邪に「絶対」はなく、「度合い」ではないかとも思えるのですが”としながら、“それでも、これは認められない、許せない、これだけは踏み外してはいけないという「人倫」というものがなければ、自分の足場すらあやふやになってしまう。自分の立ち位置によって左右される「正義」というのは、本来の「正義」ではないわけで、ここ何年か、「誰のものでもない正義」が存在し得るのかどうかを、自分に問い続けてる”という内容で答えています。

 8人のうち前半の4人が3.11(東日本大震災と原発事故)後に行われた対談で、そのうちの最初の3つが震災・原発事故のことを主なテーマとしていました。対談を読んでいて、3.11の前後での、柳さんの思考のいろいろな変化を垣間見ることができたような気がしました。全体として、柳さんがあまりしゃべらない、対談相手が多く発言している回が面白かったです。


 「自殺の国」は読み終えた後、自分自身のなかでまだ消化しきれていません。だから、何かまとまったことを書けないのですが、「自殺の国」を読み終えた後、すぐに思い出したのが、今年の月刊イオ5月号で、「ピョンヤンの夏休み」の出版を受けて柳美里さんにインタビューしたことでした。
 インタビューの最後、「朝鮮に行ったことで、作家としてどのような影響がありましたか?」という質問に柳さんは、「よく言われるのは、生きることに対して肯定的になっているということです。それまでは、どちらかといえば否定的というか、闇の部分を書いていたのですが、肯定的で明るい読書感があると。」と答えています。この言葉が思い出されました。

 主人公の女子高生のおかれている世界は、現在の日本社会の一つの縮図なのでしょうし、その世界は、和合さんの言う、正義や誠実さというものを見失ってしまっている世界です。そんな世界におかれている人々は死への境界を自ら飛び越えてしまう。現実に、日本では十数年にわたって、年に3万人以上の自殺者が出ています。
 柳さんは今、小説(書くこと)を通じて、「誰のものでもない正義」を示しつづけようとしているのではないか。特に若い人たちに向かって。柳さんがこれから書き続けるものに、さらに注目したいと思わせる一冊でした。


 ともかく、「沈黙より軽い言葉を発するなかれ」と「自殺の国」、共にひじょうに面白い本なので、ぜひ読んでもらいたいと思います。(k)

連休明け

2012-10-09 09:00:00 | (麗)のブログ
連休明けのブログです。
10月に入ってすぐの連休で、締切前にも関わらずのんびりしてしまっています。
最近めっきり寒くなって、いよいよ衣替えの季節になりました。
私はまだタオルケットで寝ているので朝方はやはり寒いです。そろそろ変えないと…。

連休の日は江東区有明にある「オタクが集まるイベント」に行って羽を伸ばしてきました。

雨のなか早朝に行ってきたので寒くてガタガタ震えてましたが、好きなことを目一杯楽しむのは大事なことですね。

今日が締切の山場です。
無事11月号の編集作業を終えることを願います。(麗)

奉奇ハルモニのおはなし

2012-10-06 09:00:00 | (淑)のブログ
 先週土曜、ブログで告知したwamのセミナーに行って来ました。
 ゲストの金賢玉さんは、1972年、沖縄の本土「復帰」直後から総聯の活動家として沖縄で活動を始め、75年に奉奇ハルモニと出会ってから、91年にさんが亡くなるまで、さんを傍で支え続けました。セミナーでは、さんとの交流に重きを置いてお話しされたのですが、本当にいいお話をしてくださったので、少々長くなりますが、一部を紹介したいと思います。

 先週末といえば、台風で空は大荒れ。金賢玉さんは、「朝鮮の諺に“동무찾아 강남간다”という言葉がありますが、暴風の中、沖縄からやってきました」と柔らかい笑顔と語調で話し始めました。
  奉奇ハルモニの話をする金賢玉さん

 奉奇さんが亡くなってから20年以上が経過しているにも関わらず、賢玉さんのお話はまるで、さんとついさっきまで会っていたかのように、鮮明でした。さんの言動、癖、好きだったもの、不安…、心の一番近くで支え続けた賢玉さんにしかきっと話せないであろう具体的なお話でした。お話からは、朝鮮植民地支配と戦後の沖縄、激動の現代史を生きた奉奇という一人の朝鮮人の人生と思想までもが浮かび上がってきました。そしてこれが、日本軍「慰安婦」問題を考える上で、在日朝鮮人という主体として私たちが知っておくべき人生―歴史であり、現在にもつながる共通の体験でもあると認識しました。

 75年、賢玉さんらがさんと初めて会った頃、さんはサトウキビ畑の中の小さな小屋に住んでいて、その小屋には窓もなく、立ち上がると天井に頭がぶつかるくらいの狭さだったそうです。潔癖だったというさん。壁の至る所に空いた隙間には、タバコの銀紙を挟んできっちりとふさぎ、部屋に干してある洗濯物は、布巾も雑巾も見分けられないほど真っ白だったそうです。
(現在wamには茶碗などのさんの遺品が展示してあり、それらは質素ながらもぴっかぴかで、さんの生活そのものが伝わってくる)
 「亡国の民となり、「慰安婦」とさせられ、解放後も独り苦しむさんの姿を見て、朝鮮人として、さんと生きなければいけない、と思った」。賢玉さんは当時29歳。それがさんとの出会いだったそうです。
 賢玉さんらがさんを訪ねると、機嫌のいい日は「入って入って」とお茶や駄菓子でもてなしてくれたそうです。ですが「次はいつ来るね?」と、約束して次に訪ねても、調子の悪い日は鍋を叩いたり、大声でわめいている声が、サトウキビ畑から聞こえてきたといいます。拒絶をされることも1度や2度ではなく、それでも賢玉さんらは、さんの具合や都合に合わせて根気よく訪ねたそうです。

 最も印象深かった話は、さんが賢玉さんらと出会い、「朝鮮人として」の様々な経験を重ね、「朝鮮人として」物事を見聞きする過程で、さんの心が変わっていったという話でした。
 出会って間もない頃は、在留資格の更新などのために役場へ行くと(読み書きができなかったさんに、いつも賢玉さんらが同伴していた)、職員に向かってさんは何度も何度も頭を下げていたそうです。賢玉さんらが、「アジメ、そんなにペコペコせんでいい。朝鮮人はもう昔の朝鮮人じゃない」、そう何度諭しても、さんの癖は簡単に直らなかったそうです。賢玉さんはその姿に、「朝鮮語も、朝鮮料理も忘れて、履き古しの靴みたいに捨てられて…本当に胸が痛んだ」と話しました。
 ですが、賢玉さんらと共に過ごしながら、朝鮮料理の味を知り、歴史を知って、総聯の活動や沖縄の人々の闘いを目撃していく中で、少しずつ意識が変わっていったといいます。
 「慰安婦」としてのつらい体験を語った経験もそうです。
 賢玉さんらに、「アジメが話すことで、被害を受けた人たちや在日同胞たちが立ち上がっていくきっかけになるよ」と励まされながら、「じゃあまた頑張らんといけんね」と言って勇気を奮い起こして語ってきたそうです。それでも取材のあとは1ヵ月も2ヵ月も寝込んだそうです。寝たり起きたり食べたり、平穏に過ごしてやがて落ち着きを取り戻しては、また語る…その繰り返しだったといいます。

 
 
 そうしているうちに、初めの頃はことあるごとに、「友軍が負けて悔しい」、そうも話していたさんが、昭和天皇死亡の際には「なんでね? 謝りもせずに。賠償もせんと」と憤慨し、また、88年のソウルオリンピック開催時に故郷へ行こうと持ちかけると、とたんに涙をぽろぽろこぼしながら、「行きたいけど行けないさ」と話したそうです。理由を聞くと、「だって向こうには米軍基地があるじゃないか。自分のふるさとだけど、今は行けない」と分断状況に悲しんでいたそうです。

 総聯沖縄本部の事務所、朝鮮半島の地図を眺める奉奇さん

 「さんは、朝鮮は統一しなければいけない。必ずできるんだ、という信念を持っていた」と、賢玉さんは話してくれました。「貧しかった自分の運命を呪い、解放の喜びも知らなかったさんが、民族や尊厳、人間らしさを一つひとつ取り戻し、自分の力で獲得していった。それは私たちの喜びでもあり、在日同胞みんなの喜びでもあった」。

 そうして晩年は、賢玉さんらの活動を手伝ったり、同胞の集会や連帯集会などにも参加して、時にはドライブ(さんは「ドライバ」と言っていた)や旅行、大好きな温泉も楽しみながら、穏やかに、そして堂々と、人生を全うしたそうです。

 今、韓国日本大使館前での水曜デモは1000回を超え続いており、被害女性たちと支援者たちが力強く運動を推し進めています。91年、金学順さんが被害者として名乗りをあげてから、多くの被害女性たちが勇敢に立ち上がる姿を、さんは見ることはできませんでした。でも「さんの小さな点は、20年過ぎた今もつながっている」、そう賢玉さんがそう話すようにさんの存在が、日本軍「慰安婦」問題において一つの起点であることは間違いありません。

 先日、韓国から来日していた日本軍「慰安婦」被害者である金福童ハルモニは、「軍による強制連行を示す確たる証拠はない」と発言した橋下大阪市長に対し集会の場で、「ここにいる私が証人だ」と訴えました。また、朝鮮学校へ寄付金を渡し、毎週火曜、大阪府庁前で行われている朝鮮学校への「無償化」適用と補助金支給を求める集会にも参加されました。
 これに対して、韓国から来た86歳のハルモニの面会を避けておきながら、後になって「会ってもいい」などと自身の体面を取り繕う橋下市長の姿は、度し難いほどに醜悪です。(淑)

1年遅れの記念式典

2012-10-05 08:52:23 | (相)のブログ
 

 先月30日(日曜日)、福島朝鮮初中級学校(郡山市)の創立40周年記念式典へ足を運びました。
 同校の創立は1971年です。したがって、本来であれば昨年に行うはずだったのですが、3月の東日本大震災と福島第1原子力発電所の爆発事故の影響で延期を余儀なくされました。そして、このたび1年越しの開催にこぎつけたというわけです。
 この日の記念式典には同校の児童・生徒、教職員、卒業生、地域同胞ら350人あまりが参加しました。県外からも多くの同胞が駆けつけ、地域の日本人の方々も席をともにしました。
 行事のテーマは「輝かせよう40周年、伝えようまごころ(빛내이자40돐, 이어가자 한마음)」。震災直後から福島に多大な支援を寄せた各地の同胞の「まごころ(한마음)」をこれからも伝えようという意味、「40周年+1年(한)」という意味を込めたそうです。
 1年遅れではありますが、記念式典を無事行うことができたことに関係者一同、ほっと胸をなでおろしていました。

 

 福島を襲った悪夢のような震災と原発事故からこの日にいたるまでの波乱に満ちた道のりは、ここで改めて言及するまでもないでしょう。この間、福島朝鮮初中級学校の児童・生徒、教員たちは地元を離れ、新潟朝鮮初中級学校に身を寄せました。両校の合同教育の試みは昨年12月まで7ヵ月間に及びました。一方、福島では保護者と地域同胞、青商会メンバーらが学校の除染作業を地道に続けました。その甲斐あってか、校内の放射線数値は年間1ミリシーベルトを大幅に下回っています。

 
 
 そうして迎えたこのたびの記念式典。実行委員会ではこの間、学校支援を目的とした基金事業を展開し、校舎を補修、スクールバスも購入しました。この日、私もJR郡山駅から学校まで新しいバスに乗せてもらいました。
 そして、第2部の公演で子どもたちが着た民族衣装は兵庫県在住のある同胞女性が中心となって立ち上げた「福島の朝鮮学校へチマチョゴリを贈る会」から届けられたものでした。個人でチョゴリをデザイン、製作している彼女の「被災地の子どもたちのために何かしたい」という思いに賛同した有志たちが約半年間かけて作り上げたそうです。
 公演には昨年、今年と福島朝鮮初中級学校と合同生活を送った新潟朝鮮初中級学校の子どもたちも友情出演しました。ほかにも、出席者をもてなす料理作りに飲み物販売など、この日もフル回転だった女性同盟とオモニ会、学校に義援金を贈った日本人有志による福島朝鮮学校を支援する会、被災地の朝鮮学校支援を目的にチャリティCDを制作し、売り上げを全額寄付した全国の朝鮮歌舞団―。各々のやり方で学校を支え、励まし、助ける、そんな光景を目にしながら今回の40周年記念行事のテーマについて考えました。

 

 「いま一度困難を乗り越え、学校を守り発展させていこう」というこの日の呼びかけ。もちろん、そう簡単なことではありません。学校を取り巻く現状は依然厳しい。震災後、福島を離れた(あるいは離れざるをえなくなった)同胞たちは少なくありません。今年度の生徒数はわずか12人。
 朝鮮学校は地域同胞社会と卒業生のサポートがあってこそ。過疎地域ではとくにそうでしょう。「現実は厳しいが、やるしかない」。具永泰校長の一言が胸に突き刺さりました。(こういう風に書いていますが、私は地元の人々の苦悩や日々の葛藤、喜びや悲しみの何十分の一も知らないのだと思います。)
 10月4日からは今年2回目となる福島と新潟両校の合同教育が予定されています。福島のみならず宮城の東北朝鮮初中級学校でも現状打開のための取り組みがさまざまな形で続けられています。今後とも「イオ」では(そして私自身も)被災地の朝鮮学校の姿を伝えていこうと思います。(相)

人材バンク

2012-10-04 09:00:00 | (瑛)のブログ

 (K)さんが偶然遭遇した留学同京都の学生たちの姿に20代の頃の取材の記憶がよみがえりました。

 私がまだ朝鮮高校に通っていた1980年代、朝鮮高校卒業生に認められる大学受験資格は一部の公私立大学のみで、大学を受験するための資格である大検入学資格検定(現在の高等学校卒業程度認定試験)すらありませんでした。とくに、国立大学はすべて門戸を閉ざしており、文部省(当時)の朝鮮学校差別をそのまま体現した牙城のような存在でした。

 「これはおかしい!」と留学同京都の学生たちが、足元にある京都大学が受験資格を認めるよう運動を始めたのが1994年12月のこと。京都大学で同胞学生を中心に始まった受験資格獲得運動は、日本で歴史を重ねてきた外国人学校の存在、そこで行われている教育に目を向けることになります。

 そして、1999年に京都大学大学院が文部省(当時)の指導に反して朝鮮大学校卒業生の受験資格を認めたことがきっかけとなり、99年に文部省が外国人学校卒業生に対する大学院への入学資格を認めるに至ります。同時に文部省は外国人学校の中学卒業生に対する大検の受検資格を認める方針を発表し、省令を改正。さらに、2003年には外国人学校の大学受験資格が認められ、日本の1条校と同等の扱いに一歩近づく、という前進が生まれました。もちろん、この時に数ある外国人学校の中で一番大学受験者が多い朝鮮高校卒業生の受験資格だけが「学校資格」で認められないという問題が残り、高校無償化もいまだ外されている「差別温存」の現実がありますが、声をあげたことで状況は少しずつ好転していることは確かです。10数年前に京大で運動を始めた学生たちの中には、朝鮮高校の保護者となっている人もいます。第一歩を踏み出したあの頃の学生の清々しい表情が思い出されます。

  解決が引き延ばされている無償化問題もそうですが、今とりかかっている11月号の特集「心の病」を取材しながらも、朝鮮学校出身者の底力を感じています。今回の特集では、臨床心理士、精神保健福祉士、社会福祉士さんなど、各地の同胞専門家にたくさん助けられていますが、ウリハッキョ出身者や過去に教員として保護者として朝鮮学校に関わった人たちが多いのです。

 協力いただいた3方のうち、お2人は朝鮮学校の教員経験者。朝鮮学校における「心の病」の問題にも真摯に取り組まれている方もいらっしゃいます。人生中盤で福祉関係を志すようになったきっかけは、朝鮮学校で同様の問題にぶちあたった時、自身が感じた無力感だったといいます。専門性を身につけてこそ目の前の子ども、家族を救えるのではないか、という思いを胸に大学に通われ、深刻な問題を抱えた家族の話を聞くため、日本各地に出向いておられます。

 「思春期の心と体」をテーマに原稿を書いてくださった30代の女性もその一人。兵庫県にある二つの朝鮮学校の保健室で日々、子どもたちの相談に乗っています。朝鮮学校にはほぼ保健室はありますが、部屋があるだけで、常勤の保健師や養護教諭を置けない学校がほとんどです。それは財政問題が厳しいゆえですが、無償化問題の解決がなされず、追い討ちをかけるように各地で補助金カットが続くなか、人員を配置するメドは立ちません。ある精神保健福祉士は、「朝鮮学校にもスクールカウンセラーを」と胸に秘めた思いを伝えてくれましたが、朝鮮学校をめぐる財政状況が厳しい中でのこの発言に、ハッキョを支える「人材バング!」とその存在を心強く感じたものです。11月号に専門家の具体的なお話が載ります。ご興味のある方はぜひ読んでみてくださいね。(瑛)


京都の同胞学生たちが「高校無償化」適用求め署名活動

2012-10-03 09:00:00 | (K)のブログ

 この前、関西に出張に行った際、取材に向かうためとある駅に行くと、駅前で若者たちが「高校無償化」の朝鮮学校への適用を求める署名集めをしていた。大きな横断幕も広げて、けっこう目立っていたのですぐにわかった。

  若い人たちががんばっているのに、素通りはできず、また取材まで時間があった(私は常に余裕をもって行動するのだ)ので声をかけると、留学同京都のメンバー、すなわち、京都の日本の大学に通う同胞学生たちだった。

  「がんばってね」と声をかけ、こちらが何者かを告げて写真を撮ってもいいかと確認してから写真を撮った。それがこの写真。

  後日、この署名活動のことは、留学同京都のホームページでも紹介されていた。
留学同京都ウェブチョハヌル「“朝鮮高級学校生徒への「高校無償化」適用を求める”街頭署 名活動について」
http://rhtkyoto.blog.fc2.com/blog-entry-61.html

  読むと、署名活動はその日だけでなく、4回も行われていたのだ。合計で750人以上の署名を集めている。そして、つぎのように書いてあった。

「第三回目は9月15日(土)、阪急西院駅前にて。
 交番前でも臆することなく精鋭部隊が声上げてました。
 この日は記者の方(確かイオ?)がいらして写真を撮ってはったので
 今度載るかも知れませんねっo(*゜∇゜*)o次号のイオも要注目ー★」

  「記者の方(確かイオ?)」
 そうです。イオです。それも一番エライ人。
 でも、わざわざ取材のために行ったのではありません。その駅が実家の最寄り駅で、いつも 利用しており、その日も当然のごとく駅に行くと、署名活動に遭遇しただけでした。

 「今度載るかも知れませんねっo(*゜∇゜*)o次号のイオも要注目ー★」
 残念ながら、取材をしたわけではないので(取材ならもっと詳しく話を聞いています)、申 し訳ないけれど次号の月刊イオには載りません。

  誌面の関係上、月刊イオでは紹介できないので、日刊イオで紹介しました。写真もいつもより大きめです。(k)


今年もこの季節がやってきました

2012-10-02 09:00:00 | (麗)のブログ
10月に入りました。
日曜日の台風、すごかったですね…、私も強風に揺れる家にビクビクしながら一日を過ごしました。
さて、現在、イオ編集部は11月号の制作に追われています。
先週の企画会議では12月号の特集も決まり、いま編集部で企画を詰めている段階です。
しかし、時が経つのは本当に早い。「もう12月号まで来たのか…」という気持ちです。そして、この季節になるとやってくるのがそう、「年間企画会議」です!
イオ編集部は10月頃から来年度のイオの雑誌全体の方向性や、新連載の企画を決めるのですが、これがまぁなんとも大変なのです。
いまは編集部を二つのチームに分け、それぞれ来年度の新連載を考えてくる、というはじめの段階です。
私のチームは今週の木曜日に一回目の会議が行われるのですが、いまのところ、私が考える企画はこれといったものが生まれずに苦戦しています…。
なにか斬新な企画はないか…、どこかヒントになるようなものは転がっていないかと、あれこれ考えています。
また、デザイナーも来年度の連載が全て決まれば、新しいレイアウトを考えなければなりません。
すべての企画が決まる頃には、12月号の制作をしながら新レイアウトを作ったり、イラストを描いてくださる方を探したりと、デザイナーにとっても一番忙しい時期でもあります。

まだ年間企画会議も初期の段階ですが、この会議で、来年度のイオの「色」が決まるのですから、気合いを入れないと…!
2012年度よりも更に充実した内容で、幅広い世代に親しまれるような雑誌を目指していければと思います。
これから編集部は通常の制作作業と年間企画の同時作業です。
私も頭をフル回転して頑張ります!(麗)

編集裏話

2012-10-01 09:00:00 | (愛)のブログ
来月号の特集は(相)さんもブログで紹介したように
「ココロのトラブルQ&A(仮)」です。
いままでイオでは大きく取り扱ってこなかった、
けれど、今現在問題となっている重大なテーマを取り上げることになりました。

実はこういったテーマはデザイナー泣かせでもあります。
人物紹介などの企画に比べはっきりとした対象がない、もしくは出せないため、
特集などに使う素材なども、色々考えなくてはなりません。
素材集などで適当なものがある場合はそれを使い、
ない場合はデザイナーや記者でセッティングをして撮る場合も多いのです。

私はイオ編集部に入って、
全て編集部でそういった素材写真をまかなっているということを知りました。
結婚特集などの男女の写真も編集部員や知り合いなどに頼んで、
セッティングして撮影をしているんだよ、ということを知らされたときはびっくりしました。
記事の内容をイメージしてそれを撮影、
はじめはなんとも高度な技だな~と思ったのですが、
これが結構楽しいもので、取り組んでみると撮影会みたいで新鮮でした。

以前結婚特集をしたときは、お見合い現場なども
編集部員の若い男女でセッティングして撮影したりもしました。
その日は撮影のため、スーツと清楚な服装を着てきてもらい、
高級喫茶店で撮影したり、デート現場を再現するために某遊園地に出向いたり。。。
個人的に思うのは
編集部には撮っていて絵になる方も多いので、撮っていて楽しいですね。
そういった感じであれこれ悩みながら、カタチとしておこし、
誌面作りをしています。

今回も結構悩みながらも、記者と相談しながら、
読者に伝わりやすい誌面を届けられるよう、がんばりたいと思います。(愛)