さる23日、東京都内で行われた済州島4・3事件64周年追悼集会に足を運びました。
第1部では「済州島4・3事件と朝鮮半島を取り巻く現在」と題したパネルディスカッションが、一橋大学教授の鵜飼哲さん、朝日新聞記者の桜井泉さん、立命館大学教授の文京洙さん出演で行われました。第2部では歌手の趙博さんによるライブが行われました。
以下、「4・3事件」についての簡単な説明を。
4・3事件は、「朝鮮現代史における民族最大の悲劇の一つ」と呼ばれています。1948年、38度線以南での単独選挙が朝鮮半島北南分断の固定化につながると反発し4月3日に済州島で武装蜂起した左派勢力を米軍政下の軍や警察が武力で鎮圧し、その過程で3万人を超える島民が殺された事件です。弾圧は李承晩政権下で54年まで続きました。
事件そのものの凄惨さもさることながら、その後の半世紀以上にわたる問題解決への道のりも苦難に満ちたものでした。韓国の歴代政権が事件を闇の中に封じ込める一方で、沈黙の圧力の中でも韓国や日本の双方で作家や知識人たちが事件の真実を問い続ける動きもありました。事件についての議論が本格的に起こり、真相究明運動が始まるのは87年の民主化運動以降。日本でも同年に「済州島四・三事件を考える会」が結成されました。98年には金大中政権下で真相究明に着手、2000年には「4・3特別法」が制定され、03年に盧武鉉大統領が国の責任を認め遺族に謝罪するなど、解決に向けて大きな進展がありました。
しかし08年の李明博政権発足後、保守右派勢力からのバックラッシュがあり、行政レベルでも関連施設の整備や犠牲者の遺骨発掘調査などの予算が相次いで削減されるなどの事態が起こりました。4・3事件に対する歴史的評価は今日にいたってもなお韓国での政治的な対抗関係、北南関係にも連動する重要な論点であり続けています。今回のパネルディスカッションでも、韓国における民主主義の成熟度は4・3事件をどのように評価するかにかかっている、という指摘がありました。
在日の済州島出身者の中には、事件前後の混乱とテロを避け、日本に渡航してきた人びとが少なくありません。これらの人びとの多くが言いえぬ悲しみを抱えたまま長い間、沈黙を守ってきました。文京洙教授は、「事件の歴史的評価の定立や、犠牲者の認定から除かれた人たちの問題、在日の被害者の実態など、いまだ未解決の論点が多くある」と指摘していました。そのような意味で、4・3事件は私たち在日朝鮮人にとっても現在進行形のイシューであり、この事件について知ることには重要な意義があると思います。
一方で、現代日本社会にとって4・3事件はいかなる意味を持つのか、日本人の立場から事件について考える意義は何なのか、といった問いも立てることができるのではないでしょうか。
鵜飼教授は、「朝鮮半島に引かれてしまった38度線という根本的な不正は解消されずに今に至っている、平和な日本というものは、そんな不条理な歴史的条件の下に享受されてきた、この状況を当たり前のように考えてしまう平和主義は脆弱である」とのべていました。そして、「4・3事件が今のような形で語られなかった時代を生きてきた人たちが身につけた言葉と文化、沈黙をこの機会に思い出すべきだ」とも。
4・3事件の悲劇の背景にある日本の植民地支配の残滓。民衆を弾圧した勢力の中に多くの「親日派」がいたこと、日本の植民地統治機構の多くが解放後も米軍政に引き継がれたこと。そして、日本政府は韓国の歴代軍事独裁政権を支えることによって、事件の真実を明らかにする取り組みを間接的ながらも阻んできました。その結果として日本は、自らが利益を得てきた冷戦体制が実はアジアの民衆を抑圧し、旧植民地諸国の正常な発展を阻害する装置として機能してきたということへの想像力を欠いているのではないでしょうか。戦後補償問題を今日に至るまで曖昧にやり過ごしてきたのも、このような歴史的想像力の欠如と決して無関係ではないはずです。4・3事件について知ることは、現在に至るまで東アジア情勢を規定してきた冷戦構造に対する認識を改め、戦後の日本が歩んできた道のりがどのようなものだったのかを省察するうえでも意味のある作業になるのと思います。(相)