あぁ、生きた証

日記、献血放浪記、気がついたり考えたりしたこと、地元清水エスパルスについて書いてます。

YOSHIKI、京都アニメーションへ1000万円を寄付「支援の輪が広がることを願っています」

2019-08-01 | 雑記・日記
「 X JAPANのYOSHIKIが1日、京都アニメーションの放火事件を受け、同社が開設した支援金の預かり
専用口座へ1000万の寄付を行ったことを発表した。
自身が運営する米国非営利公益法人501(c)(3)「YOSHIKI FOUNDATION AMERICA」を通じての寄付となる。


 YOSHIKIは「世界中でツアーを行なっていますが、どの国に行ってもアニメーションファンの皆さんが
コンサートに来てくれて、自分の世界での活動をサポートしてくれています。本当に感謝しています。
また自分としても世界の宝である日本のアニメーション、そしてその文化の発展に貢献したいといつも思っています」とコメント。

 さらに「家族を失ってしまった方達の痛みを考えると、本当に心が痛みます。
少しでも、被害に遭われた方々とご遺族の方々へ の 力になれればと思います。
そして また、 支援の輪が広がることを願っています」と思いを述べている。」
                                (「オリコン」より引用)





まず多額に寄付に対し、自分では出来ないことだしすごい、立派だと思う。

それを踏まえてふと思ったのが、悲しい痛ましい事件が特に最近では毎月連続して発生しているような
印象を受けるが、その中でこの事件には多くの関心が寄せられ、こっちの事件には最初こそ大々的に
取り上げられたが、即風化して行った印象の強いものとがある。

いや、正確にはメディアが連日報道しているか、即関心を無くしたかにすぎないかだけなのだろが
間違いなくその線引きは、数字になるかどうかなのだろう。


一方で、この寄付をするしないの線引きは何なんだろうと思う。

もちろん寄付する側の善意なので、思い入れや、そもそもの支援したい気持ちがあるところに対して
なされるものなので、その前提がないところにされる訳もないのが当然だが、「深く大きな悲しみ」という点では
何も変わりない。

当然今回の場合、多くの優秀なスキルを持った方達をごそっと失いそれこそ会社を存続していく上で聞き的な状況の中、
立て直していく意味も含めての寄付なのだろうが、自分の中でしっくりこない部分が少なからずある。


「そんなこと言ったら全てに対して寄付行為をしなくてはならないのでは?」ということに直面する。
勿論、そんなこと出来る訳ないし、そういうものでもない。


最近、ふと「平等とは」と考えたりして、万人が同じように受けられたり、することが出来ることなのかなと思う一方、
そもそもこの世に平等なんてあり得ないと根底には思っていたりして、その差異は埋まることないし、
言っているのはまさに綺麗事何だろうと思った。
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