Gabbie's Cafe

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『お客』、帰る

2008年09月24日 | Guest Book

 
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『お客』が来て、帰って行きました。終わってみればそれは、本当に『即興曲のように』、どの時もどの時も、『OKな』時間でした。『楽しい時はあっという間に過ぎるね』…飛行機を見送りながらTがつぶやきました。そう、本当にあっという間の4日間でした。

いつものように、私たちの日常に自分という非日常が存在することの影響を気にしながら、大きな『お客』は私たちの小さな部屋にやってきました。“私のことはどうぞおかまいなく”を、折に触れてたびたび口にしつつ、『お客』はあくまで自分らしく、ここでの時間を過ごしていきました。

私が一番気にしていた『私たちの暮らしぶり』を、『お客』は一言も評しませんでした。その代わりに、私たちの生活の不足を、さりげなくそっと満たしていきました。配管の技術を持つ彼は、台所の水漏れする蛇口を直し、洗濯機の水道にバイパスを作ってくれました。フラットだった私の自転車のタイヤに空気を入れてくれ、Tが玄関のひさしの上に載せてしまったボールとブーメランを救済してくれました。滞在中、子供たちと沢山の時間を外で過ごしてくれたおかげで、私は安心して家事がはかどりました。

普段はとても行かれないちょっと贅沢なレストランにランチに連れて行ってくれ、“どこか買い物できるところはないの?”とモールに連れ出してくれました。くたびれて小さくなってきたTの靴を新調し、今年になって5キロ近くもウエイトを落とし、持っていた服がどれも着れなくなってしまった私にも、新しい服をプレゼントしてくれました(秋に向けて穴のあいていないジーンズに恵まれるとは…正直かなりのありがたさなのでした・笑)。
“たまには飲ませてやるよ”と言って帰りの運転を代わってくれ、夕飯を食べて眠ってしまったTをおんぶして車まで歩き、また部屋に担ぎこんでくれました。

Tの初めての運動会に参加するべく、今回有給を使って遠征してきた『お客』。テントの片づけをおヨソの地区の分まで手伝い、女手だけで運ぼうとしている集団の中に入っていって軽々とテントの袋を背負って倉庫に運び、Tの野球のコーチたちと一緒になってトンボをひっぱり、田舎の子供たちに囲まれて楽しそうに走り回り…

存在そのものがまず『不足の満たし』だったことに、『お客』自身がどのくらい気付いていたかは別として、彼が私たちの、いいえ、私の人生の中で大きな『missing piece』であったことを、彼の滞在は示していきました。特別な何をしているわけでもないのに、彼の一挙手一投足を通して潤され満たされ、欠けたものを確実に取り戻していく自分が居ました。
そしてその欠けや渇きは実に深刻で、生命の危機にすら至るものであったことにも気がついた。


『お客』と私は、もう長いこと、お互いから距離をとっていました。とりたいと思ってとっていたわけではなく、いちど掛け違ったボタンがなかなかかけ直せなかった…そんな感じで髄分と長い時間をうまらない溝の両側ですごしました。

沢山の雑音で大切なことがかき消されたように感じていた時期。魔法のとけたシンデレラが、たったひとつ残されたガラスの靴の片方を、薄暗い屋根裏部屋で眺めるような気分でした。夢のような宮殿ははるか彼方に遠ざかり、自力ではもう行くことも叶わない。
出会った頃に垣間見た魔法のような出来事は、単なる偶然だったのだろうかと、何度も振り返っては確認しようとしました。ガラスの靴は、変わったままの自分の苗字と、無邪気にたわむれる二人の息子たち。

そして、『お客』がやってきた。もう片方の靴の代わりに、天井を照らすプラネタリウムの機械をひっさげて。
なぜか自分と同じ苗字を持つ『お客』。私の目の前で、幼いガラスの靴たちとの再会を喜んでいる。

昔見た魔法が、やはりそこに有効であることに、私は今回気がつきました。ぎくしゃくした重苦しい空気に代わって、落ち着いた秩序と心地よい調和が、私たちの間を再び支配していました。
たとえばハンドトスとキャッチ。運転席と助手席。アイコンタクトですべてが済んでしまう不思議。今はそれが確実に自分に、自分だけに用意された恵みなのだとわかる。誰に気兼ねするのでもなく、ごく自然にその恵みに与かることができる自分が、今はいる。

それでもハタと現実に目を向けて、長い長いブランクの後、お互いにとっての自分の席がまだ空いてるのかを、恐る恐る確認してみたり、空いていると知ってそれでも本当にそこに座っていいものやら計りかね、必要とあらばいつでも立てるようにと、妙に浅く座っていてみたり…魔法の健在を認めつつ、かといって魔法だけに頼らないようにしなくちゃと、なにやら心ばかりが忙しく往来していました。

そんな当事者たちの心情はおかまいなしに、当たり前のように私たちをワンセットで扱う周りの人々。
それは、あの魔法に気がつきながら、それを否定しなければならなかった10年前とは違いました。私たちは確かに『神が合わされたもの』であり、また本人たちも含めて『誰も離してはならない』という宣言を経たセットなのでした。『離してはならない』というよりも『離れなくていい』。今の私にとっては、後者のほうがしっくりと腑に落ちますが…。


『お客』が帰る一時間前に『天使のおじちゃん』が現れました。『お客』を“主人です”と紹介している、おかしな矛盾。“お世話になっています”と『家の主人』を『お客』がフォローしている。
『メグロ』に乗った天使のおじちゃんは、この上なくにこやかに『お客』を『主人』として迎え、初めて会う若造が自分のバイクの価値がわかる人であったことに、内心とても嬉しそう。ここでも『わからなかった』私のあけた穴を、『わかる』彼が満たしてくれました。


空港へ出発する時、『お客』は三年前に私たちにくれてしまったエスティマの運転席に当たり前のように乗りました。私は『お客』が、お客でなくなってこの家を去っていくのだと感じました。
“運転、気をつけなさいよ。あなたはヘタなんだから”。それが『お客』の口癖。何度言っても言い足りないのか、今回ももう耳にタコです(笑)。

有形無形に満たすばかりだった『お客』が、最後に少し早い誕生日プレゼントを受け入れてくれたのは、奇跡でした。
『善に使えばキリストを越える』と自ら称する(笑)『お客』は、ストイックなまでにそれを実行しようとする人。その様はまるでキリストを越えるが為に、キリストの教えの上を行こうとしているかのよう。『右の手のしたことを左手に知らせない』だけでなく『右の手自身にすら自覚させな』いし、『受けるよりは与える』自分でいたいあまり、人からなにかをもらうことを頑なに拒む。ましてや自分が養うべき人から受け取ろうなんて、おそらく彼のプライドがゆるさないのでしょう。

自分の好みもはっきり自覚している彼が、趣味の違う私が選んだのものを受け取ることは、きっと多大な譲歩だったにちがいない。私がもうずっと愛用しているもの、きっと重宝だと思うから、とすすめても、彼には無用の長物なのかもしれません。あんたに追従なんかできるか。箱を開けたらそんな気だってするかもしれない。
だからこれは、モノをというより、彼が私の気持ちを受け取ってくれたということ。それは、とても嬉しい出来事でした。

そんな風にして、一歩も二歩も大きく譲ってくれた彼に伝えたい。受け取っているようで居て、あなたは与えるという喜びを、相手に『与えて』いるんだよ。と(そんなことはきっと彼ならわかっていると思いますが)。

ワンランク上のそんな『与え方』。キャリアもサイズもアップした彼には、ますますそれがふさわしいように見えました。

受け合い、与え合い、呼応し合う…。掛け違えたボタンをかけなおすのに、今度はそんなひとつひとつに丁寧な思いで臨みたいと、『主人』なる『お客』を送り出し、改めて心から思う9月24日なのでした。